魔法少女
エリが魔法少女なら、とっくに魔女になっていた。
月曜日の朝。
エリは満員電車の中にいた。
人権など無視されたその直方体に詰め込まれ、前にいる小太りのオジサンの背中と隣のオバサンの硬いバッグに押しつぶされている。
痛みで涙が出そうになる。
そうだ、みんな死んじゃえばいいんだ。人間なんて存在しちゃいけないんだ。
彼女の頬を涙がつたう。穢れた怒りの涙が。
だが、もうちょっとの辛抱、もうちょっとでゴールの新宿駅だ。
混雑はひどいが運行は順調であった。
しかし、が、しかしである。
そんな唯一の望みは突然の急ブレーキで脆くも崩れ去り、『緊急停止ボタンが~』のアナウンスで絶望に変わる。
電車内で憐れな連中が形成していた人塊にも大きな慣性力がかかり、そのカオスの中で何とか構築していたそれぞれのポジションが崩される。
エリももちろん逃げ場なくその物理法則の餌食となる。目の前が真っ暗になった。オジサンの背中に顔面を押しつける形になり呼吸が困難になる。このままでは死んでしまう。何とかゆっくりゆっくりとポジションをずらしていき隙間から顔を出すことに成功する。その際におばさんの肘が顔にめり込み、漫画に出てくるタコのような口になってしまう。
まあこれでも死ぬよりはマシだ。おそらくとんでもない様相をしているであろう。しかしいくら恥ずかしくても動くことができない。どうしようもない。もう我慢するしかない。背中と肘で固定され閉めることができない口から涎が垂れそうになる。何とか唇の形を器用に動かしてそれを防ぐ。
エリは恥ずかしさから誰も見ていないことを祈って目の前の席に座る乗客の様子を確認した。
眠っていてくれという願いを込めて。
座太郎が座っていた。涼しい顔をして。
エリはもがく。何とかオジサンの背中に戻ろうとする。この顔を、この状態を座太郎に見られるくらいなら窒息した方がマシだ。先日は駅のホームでクールに捨て台詞すら吐いてしまっている。絶対に見られるわけにはいかない。
が、戻ろうにも身体を固定され寸分も体を動かすことができない。
一度動いたらもう元には戻れない。これが満員電車を支配する物理法則なのである。
そんな彼女の懸命な心配をよそに座太郎は何やら興味深そうにスマホの画面を凝視している。時々ページをスクロールしては目を大きく見開いて驚いたりしている。
この人って座ること以外にも興味があるんだ、こんな体勢でもエリは妙な好奇心がくすぐられ座太郎の様子を観察してしまう。
しかし次の瞬間、なんの前触れもなく座太郎が視線を上げた。
おそらく電車の運行状況を確認しようと扉の上のモニターへ視線を向けたのだろう。
そしてエリの最悪の想定が現実となる。
涼しい顔をした座太郎と揉みくちゃにされてタコのような顔のエリ。二人の視線が熱く交わった。エリは恥ずかしさで顔が真っ赤になる。それこそ本当にタコのように。何か言われるのだろうか?スマホで写真を取られてしまうのだろうか?
座れていないからこんなことになっているのだ、カッコつけるな、偽善は辞めろ、本能に従え、お前もスワリストになれ。
ところが予想に反し座太郎の視線はごく自然にエリから外れてモニターへ移っていった。そして何かを確認できたのか、そのまままたスマホの世界へ入り込んでいく。戻るときにエリの方へ視線を向けることはなかった。スマホをタッチして何やら難しそうな顔で考え込み始めた。
エリは絶望する。
だったらまだ笑われたり馬鹿にされた方がよかった。間違いなく座太郎とは視線が合った。しかし、彼の中でエリを認識したものの意識は完全にゼロ。それを向けられたエリにしか感じ取れないあの感じ。
興味ない、すらない、本当の無。
そう、おそらくそれは彼が座れているから。彼は座れているから何かに意識を向ける必要がないのだ。