【5日目・夜】
その日、ショウは化粧をされていた。
「上向いて」
「ん」
カンテラ型の間接照明が橙色の明かりを落とす、薄暗い寝室。
外が凍えるほど寒いからか、肌が僅かに汗ばむぐらいに室内は温められている。それは心許ないほど布地の薄いベビードールに身を包んだショウにとってはありがたいことだった。
白魚の如き細い指先を顎に添えられ、顔を天井に向けられる。ツイと視線を持ち上げれば楽しそうに微笑む最愛の旦那様の美貌が、目と鼻の先まで迫った。
「ん、いい色」
ユフィーリアは満足げに言う。
細い筆でショウの唇に口紅を乗せ、化粧の手は止まった。何やら色々と塗られたし、パタパタと叩かれもしたので、自分の顔がどうなっているのかさえ不明である。
瞬きを繰り返すショウの眼前に、ユフィーリアが手鏡を差し出した。つるりとした銀色の鏡面を覗き込むと、まず真っ先に目を引いたのが口元を飾る真っ赤な口紅である。血色がよく、瑞々しさを演出されていた。肌も白粉を塗ったかのように白く艶めいており、柔らかな頬に乗せられた頬紅は顔色をよくしてくれていた。
化粧で見栄えが変わった自分の顔に、ショウは感嘆の声を漏らす。
「おお、これは……」
「化粧道具はアイゼに聞いた方が早いな。色味に関して言えば助言はいくらかもらったけど、化粧品はアタシのお手製」
「作ったのか?」
「そうだよ。いい匂いするだろ?」
試しにユフィーリアが、ショウの鼻先に口紅を突き出してくる。剥き出しの口紅に鼻を寄せると、ふわりと薔薇のような香りが漂ってきた。
驚きで目を剥くショウに、声を押し殺して笑うユフィーリアが「蜜紅の薔薇って品種を使ってんだ」と説明してくれた。どうやらその花を絞って口紅の原材料にしたらしく、発色もいいので人気が高い化粧品の原材料のようだ。
見た目も可愛らしい容器に詰め込まれたユフィーリアお手製の化粧道具を眺めて、ショウはポツリと呟く。
「いいなぁ」
「何が?」
「お化粧品」
「ほしいならあげるぞ。可愛い袋に詰めておいてやる」
「本当か?」
「もちろん」
実を言うと、アイゼルネのような化粧の技術に興味はあったのだ。時代は男子でもお化粧をする世の中である。ユフィーリア好みのお嫁さんになるには、身なりを整えていても損はない。
現に、鏡の中に映るショウの顔は、ユフィーリア好みの化粧に整えられているようだった。瞼に乗せられた桃色を基調とした煌めくシャドウ、滑らかな白い肌、血色のいい柔らかな頬。唇に塗られた真っ赤な口紅は色鮮やかで、思わず目をやってしまうほど目立つ。
自分の顔を観察して、これがユフィーリア好みの化粧かと学ぶ。化粧の色合いなどを記憶していると、手元から鏡がスッと消えてしまった。
「はい、おしまい」
「ユフィーリア、もうちょっとだけ」
「ダメです。可愛い嫁が可愛くなった自分の顔に見惚れるのはいいことだけど、そろそろアタシの方も構え」
観察に夢中となってしまったショウに、ユフィーリアが不満げに唇を尖らせて言う。だが、すぐに笑いながら「冗談だよ」と告げてショウの頭を撫でた。
「ユフィーリア」
「ん?」
「今日はチョコ、ないのか?」
上目遣いでユフィーリアを見上げるショウ。
このところ、寝る前にまるで薬を飲ませるかの如くチョコレートを食べさせられてきたので、きっと今日もあるのではないかと思い込んでしまっている節がある。それが昨日までの何らかの奇跡で、今日は「そんなものはない」と言われてしまうと、少しがっかりしてしまう気分だ。
ユフィーリアが手ずから食べさせてくれるチョコレートは甘くて、とても美味しいのだ。身体の奥底から「あのチョコレートが食べたい」と衝動が湧き起こる。芯まで蕩けるぐらいに甘い艶やかな宝石を、早く食べたくて仕方がなかった。
夜空色の瞳を瞬かせたユフィーリアは、次いでにんまりと口の端を持ち上げる。
「何だ、ショウ坊。チョコレートの方に夢中か? 妬いちゃうな」
「う……だって、ユフィーリアの作るチョコレート、美味しくて……」
「そりゃ作り手冥利に尽きるな」
化粧道具を片付け終わったユフィーリアは、ポンと手を叩く。魔法で転送されてきたものは、手のひら程度の大きさしかない銀色のお盆だった。そのお盆に載せられたものを隠すクローシュもまた、お盆の大きさに合わせて小さめに設計されている。見た目が可愛らしい。
ユフィーリアの指先が、クローシュの持ち手を摘んで持ち上げる。かぱりと音を立ててクローシュの下から現れたものは、可愛らしいピンク色をしたチョコレートだった。コロンと円形のチョコレートの表面には真っ赤な乾燥ベリーの欠片が散らされており、その鮮やかさが目に眩しい。
ピンク色のチョコレートを指先で摘んだユフィーリアは、
「はい、あーん」
「あ」
舌を出し、ショウは素直に口を開ける。
ユフィーリアの指先に摘まれたチョコレートが、ショウの舌の上に乗せられた。じんわりと舌の上に溶け出すチョコレートの味は甘さの中に芳醇な苺の香りが混ざり込んでおり、程よい酸味が合わさってとても美味しい。
しかし、このまま口を閉ざす訳にはいかなかった。確かにユフィーリアのチョコレートは格別に美味しいのだが、ユフィーリアと一緒に食べ合うのが何よりも美味しく感じられるのだ。
その先を待つようにじっと銀髪碧眼の魔女の顔を見上げると、彼女はくすりと優しく微笑んだ。
「待ってる?」
「んぅ……」
チョコレートを舌の上に乗せたまま、ショウは頷く。
「可愛い嫁さんだな、お前は」
「ん」
そう微笑みながら言うユフィーリアは、かぷりとショウの唇に食らいついてくる。
ショウの舌に乗せられたチョコレートを押し潰すようにしてユフィーリアの舌が重ねられ、唾液を含めるようにして舐める。ユフィーリアにもチョコレートの甘さを味わってもらいたくて、ショウも彼女の舌の動きに懸命に応えた。
2人の体温を受けて溶けゆくチョコレートを舐め、甘さを孕んだ唾液を啜れば、ショウの身体の芯が震える。奥底から湧き上がるゾクゾクとした感覚が背筋を撫でた。それは先刻から感じていたものよりも強くなってきたような気配さえある。
ほとんど液体のようになったチョコレートをショウの喉奥に滑り落とし、ユフィーリアがそっと唇を離す。2人の間を銀色の儚い糸が繋いでいた。
「物欲しそうな目だな」
「う……」
唾液で濡れる唇を親指で撫でられ、ショウは恥ずかしくなって視線を逸らしてしまう。
はしたないことだとは思うが、この先がほしいのは事実である。それもチョコレートを食べるたびにその願望が強くなる。同時に身体の方も熱を帯びてきて、ユフィーリアに触れてほしくて堪らなくなる。
ユフィーリアは胸元を垂れるショウの黒髪を一房だけ手に取り、艶やかなそれに唇を触れさせる。
「もうちょっと。まだダメだ」
「うう……」
「そんな目をしてもダメったらダメ。我慢」
ユフィーリアはショウをベッドの上に転がす。腹いせにショウはユフィーリアを抱き寄せ、彼女の豊満な胸元に額を寄せて瞳を閉じた。
まるで子供をあやすような優しい手つきで頭を撫でられているうちに、ショウは眠りの世界に落ちてしまう。いつしか『その先』を望む欲望はどこかに消えてしまった。
――それでも、身体の熱さは残ったままだ。