【1日目・夜】
ちゃぷん、と水の音が広々とした浴室に反響する。
「ふわあぁ」
思わずため息が出てしまうほど、浴槽に張られたお湯は温かい。じんわりとショウの華奢な身体に染み込んでいくようだ。
初日は荷物を整理したあとに、コテージ周辺を散策するだけに留めた。きんと冷えた空気の中を歩き回るのは寒かったけれど、澄んだ空気はとても心地がよくていくらでも歩けてしまいそうな予感があった。枝に留まって休んでいる小さくて可愛らしい鳥も見つけることが出来たので満足である。
夕飯も、ユフィーリアがあらかじめ買い込んでおいてくれた食材で思う存分に手料理を振る舞ってくれた。いつもは用務員のみんなで取り合いになってしまう料理がショウの為だけに振る舞われるなど、最高の贅沢である。先輩のハルアが聞いたら羨ましがりそうだ。
白濁としたお湯に顎まで浸かるショウは、
「そう言えば、パジャマを渡されていたっけ……」
お風呂に入る際、ユフィーリアから「パジャマ用意しておいたから、風呂から出たら着てくれ」と言われたのだ。寝巻きまで用意してくれるなど、至れり尽くせりで逆に怖い。
袋に詰め込まれた状態で渡されたので中身は見ていないのだが、洋服を仕立てるのが得意なユフィーリアのことである。きっと可愛らしい見た目のパジャマを用意してくれたに違いない。
だがしかし、それ以上にショウには使命があった。
「今夜こそ……今夜こそ、ユフィーリアと既成事実を……!!」
そう、ショウは嫁としての責務を全うすることに燃えていた。
大好きなユフィーリアに幾度となく迫ったが、その悉くが失敗に終わっているのだ。あるいはユフィーリアが鼻血を噴出して大変なことになったという過去もある。上手い具合に回避されているのだ。
ところが、今日は2人きりである。しかも1週間も2人きりの時間があるのだ。これは作るしかないではないか、既成事実を。
湯船の中で気合を入れ直し、ショウはざばりとお湯を跳ね除けて立ち上がる。冷たいタイルにペタリと足をつけ、タオルで身体と髪を丁寧に拭きながら浴室を出た。
「あったかい……」
冬特有の脱衣所の寒さに襲われるかと思いきや、脱衣所全体も心地よい温度で快適だった。壁沿いに聳え立つ棚には等間隔で仕切りが設けられ、その一角にショウの寝巻きと替えの下着が置かれていた。振り向くと大きな鏡を備え付けた鏡台が鎮座しており、髪の毛を乾かす用の魔法兵器や肌の乾燥を防ぐ為のスキンケアセットまで1式揃えられていた。
自前で用意したコテージというより、どこかのホテルに宿泊しているかのような品揃えである。これら全てをユフィーリア1人で用意したとすれば、その苦労は計り知れない。まあ彼女は魔法が使えるので簡単だろうが。
しっとりと濡れた指先で寝巻きの入った袋を掴んだショウは、その絞られた袋の口を開く。
「こ、これは……!!」
その中身を目の当たりにして、ショウは息を呑んだ。
☆
寝室は薄暗く、大人が2人ほど寝転がっても余裕のありそうなベッドが置かれている他に間接照明が淡い光を落としている。橙色の仄かな明かりがカーテンの閉め切られた部屋を照らす。
外が寒いからか、室温はじんわりと汗ばむぐらいに暖かい。いや、もしかしたらショウの今の格好が原因かもしれない。室内は暖かくても、あまりにも心臓がドキドキとうるさいものだから、体温も自然と上がっているのかもしれなかった。
所在なさげにベッドに腰掛けるショウは、肌に触れる布の感覚に身を捩らせる。
「うう……」
ショウは現在、ベビードール1枚のみの格好をしていた。
肌を透けることはないが、心許ないほど薄い布で構成されたベビードールは肩や太腿が剥き出しの状態となっている。胸元にあしらわれた赤いリボン、随所に施されたレースやフリルなどの存在が可愛らしさを押し出す。露出度はそこそこ高いものの、最愛の旦那様を誘惑する為には必要なことかもしれない。
だが、恥ずかしいものは恥ずかしい。ちょっと動いただけで何だか色々と恥ずかしい部分が見えてしまいそうな予感がするのだ。そんなはずはないと思っているのだが、あまり派手に動くことが出来ない。
すると、
――――ぱた、ぱた。
閉ざされた寝室の扉越しに、足音がショウの耳朶に触れる。
ふと顔を上げれば、扉が外側からゆっくりと開かれた。蝶番の軋むギィという音と共に、ユフィーリアが姿を見せる。
最愛の旦那様を前に、ショウの緊張感が一気に高まる。何せユフィーリアはショウがほんの僅かに露出をしたり、既成事実を迫っただけでも鼻血を出してぶっ倒れるほど恋愛に疎い。そんな彼女がショウのベビードール姿を前にどんな反応を見せるのか気になる反面、鼻血を噴出して倒れないかと心配になる。
ところが、今宵のユフィーリアの反応は違っていた。
「着てくれたんだな、それ」
「あ、ああ。その、渡された、し……」
「よく似合ってる」
ベッドに腰掛けるショウの黒髪に触れ、ユフィーリアは妖艶に微笑む。間接照明から発される橙色の明かりの中で、彼女の青色の瞳が夜空のように煌めいた。ひんやりとした指先が、滑らかなショウの頬をくすぐる。
おかしい、と直感した。
だっていつもなら、ユフィーリアはショウがベビードールなんて格好をした時点で鼻血を噴き出しているはずなのだ。今まで見てきた銀髪碧眼の魔女の痴態とは大違いである。中身だけがそのままそっくり入れ替わったかのようだ。
「ゆ、ゆふぃ、りあ」
「ん?」
「何で、その」
ショウは僅かに口ごもり、それから意を決して言葉にする。
「は、鼻血を出さないんだ……? いつもだったら鼻血を噴き出して倒れるはずじゃ……」
「そりゃあ、人目があるからな」
ユフィーリアは声を押し殺して笑い、
「でもここには、誰もいない。アタシと、ショウ坊だけだしな」
「えぁ」
「こっちだって、まあ、未成年だからって理由で色々と我慢してたんだ。わざと鼻血なんか噴いたりしてな。大変だったよ、純情を装うのは」
「わざッ……!?」
ショウの驚愕は、ユフィーリアの人差し指1本で押さえ込まれてしまう。言葉を飲み込むと、彼女は白魚のような指先をパチンと弾いた。
パッとユフィーリアの手元に銀色のお盆が転送される。その銀色のお盆に載せられていたのは、小皿にちょこんと存在する1粒のチョコレートだった。
艶やかな焦茶色の宝石は、表面に薄茶色の線が網目状になるように引かれている。ふわりと香るチョコレート特有の甘い匂い。この局面でお菓子が出てくることが謎だった。
指先でチョコレートを摘み上げたユフィーリアは、ショウの唇にそれを押し当ててくる。
「ちゃんと舐めて、ゆっくり溶かして」
ユフィーリアに言われるまま、ショウは舌で唇に押し当てられたチョコレートの表面を舐める。
甘やかなチョコレートの風味が口いっぱいに広がっていく。表面の網目状に引かれた薄茶色の線はどうやらキャラメルのようで、絡みつくような甘さも加わってくる。表面に歯を突き立てた同時に、ユフィーリアの桜色の唇がショウの口を塞いできた。
柔らかい唇で挟まれたチョコレートの粒が、徐々に溶けていく。溢れる唾液に混ざり込むチョコレートの甘さ。鼻孔をくすぐる花のような香りはユフィーリアから漂う洗髪剤のものだろうか。口の中で溢れかえる甘さと、目の前の魔女の色香にくらくらと酔ってしまいそうだ。
「ん、んくッ、ぅ」
「ん、――ちゃんと舐めれたな」
唇に残ったチョコレートの残骸をペロリと舌で舐め取ったユフィーリアは、肩で息をするショウに笑いかける。
口の中を支配する甘いチョコレートの味が、ショウの精神をぐずぐずに蕩かしていた。ぎゅうっと濃密な甘さが頭の中身を掌握している。もっとほしいと心のどこかであの甘さを求める自分がいた。
ユフィーリアはショウの肩を軽く押す。チョコレートの甘さとユフィーリアから漂う色香に酩酊状態のショウは、いとも簡単に大きなベッドへ転がされた。
「…………ッ」
これからどうなってしまうのだろう。
触れられた箇所から熱さを感じる。彼女の指先は冬の空気を凝縮したかのように冷たいのに、指先で肩や肌を撫でられただけでジンと熱さを帯びる。不思議なことだ。
このあとの展開を想像して、ショウは瞳を閉ざす。瞼の向こうで橙色の明かりがぼんやりと認識できていたが、
「おやすみ」
「えっ」
「え?」
普通に就寝の挨拶を告げられて、ショウは思わず飛び起きてしまった。
隣ではユフィーリアが普通にベッドへ転がっており、指先を振って間接照明の明かりを消しているところだった。カーテンから漏れる月明かりを受けて、ユフィーリアの綺麗な銀髪が煌めいている。
彼女は不思議そうな表情をしていた。それまでの艶やかな雰囲気など一切なかったことになっている。まさかのチョコレート1粒を口移しで食べさせただけで終了とはこれ如何に。
「ゆ、ユフィーリア、あの」
「どうした、ショウ坊。眠れねえか?」
「いやあの、その」
ショウは戸惑いながらも口を開く。
「あの、あれ以上は何もしないのか?」
「しねえよ?」
「あ、そ、そうか……」
平然と言い切られてしまい、ショウはしょんぼりと肩を落とす。せっかくいい雰囲気になったのに、旦那様の方がその気ではないならこればかりは仕方がない。
モソモソと布団に潜り、ショウは「おやすみなさい……」と弱々しく告げて瞳を閉じる。
暗い意識の底に引き摺り込まれていく最中、ユフィーリアの言葉は届かなかった。
――「まだ育ってねえからなァ」