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変化の否定の惨めな思考

作者: 秋月 周

映画を見た。先日、金曜日公開の映画。

よく体験談で「人生を一変させたものに出会いました」という話がある。私はひねくれものであるからそういう話を聞く度に「そんなんことあり得ない」と考えていた。私の人生には劇的な変化というか、所謂人生を一転させるような出来事が一度もなかった。強いていえば幼い頃の毒親気質を持つ両親の影響、つまりは喧嘩だとか揉み合いがそれに当てはまるかもしれない。

とはいえ、以降それが一切なかったのは事実だ。だからこれからの人生でそれが起こることもないと思っていた。しかし違った。映画。映画だ。金曜日に公開されたもの。現実世界から隔離された幻の世界で生まれるラブストーリーや人間ドラマ的ないざこざ、それを踏まえて視聴者に「好き」とか「変わる」ということの重要性を説くような内容だった。説くと言っても、寺でお坊さんがする説法のようなものではなく、題材が抽象的であることも相まって、視聴者の感性に問いかけるような形ではあったが。

とにかく、私は確実にそれに影響された。たぶん、人生が一変するような出来事だった。私は今まで変化を恐れていたが、映画がそれを否定してきた。そしてその否定にねじ伏せられて、納得して、腑に落ちた。

別段、悪いことではないのかもしれない。というか、たぶん悪くない。だが私は許せなかった。私は私の変化を、まだ心の何処かで拒否している。理由はわからない。意味はないのかもしれない。

だが考えてほしい。私視点で、私を第三者的な目線で見てほしい。今まで変化を恐れて生きてきて、それでなんとなく生きられたし、おそらく他の人間よりも多少の成功を残してきた。それで私はちっぽけな誇りを抱きかかえてきた。もちろん、秋月周という人間の人生のレールの上を振り返ると、ゴミはごろごろ転がっている。それを誇りといえるというかと問われたら、私はイエスと答えられる。人生の全てが意味のあることだと思っているからだ。そう思わないと、自分を保てない。そういうバカバカしい人間なのだ。そこも含めて誇りに思っているという訳だが。

ただ、たった一つの映画によって今、その誇りが失われかけている。つまるところ、私が拒否する理由とは、たぶん物凄くダサいことだ。自分のプライドのために変化を恐れて、変化の大切さを教えてくれた映画を否定している。私がどんな決断をしようと、どう変わろうと、どう考えようと、それは他人には伝わらない。伝わらないし、伝わったところで大半の人間にとってはどうでもいいことだ。

悔しい。客観視できているつもりだが、やっぱり主観で話してしまう。ああ、私はなんてだめなやつなのだろう。

どうすれば良いのかわからない。初めてのことだから何をすべきなのか、何ができるのか。

八方塞がりだ。誰か私をこの思考の迷路から救い出してほしい。

ダサい。ださいださいださいださいださいださい!

誰かに悪口を言われている訳でもないのに、なぜだか惨めだ。惨めな気分だ。その惨めを踏まえて、自尊心をかなぐり捨てて、これを読んでくれている人に聞きたい。

どうすべきなのだろうか、私は。誰か、誰か教えてください、俺に。


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