9話 悪夢の終わり
翌日、結局レミリオとギルバートは寝不足になった。
普段は規則正しい生活を心掛けているギルバートが目の下に隈を作っているのを見た他の使用人は、仕事をしながらも横目で心配そうに彼を見ていた。
ローレンスや屋敷の使用人達が朝から業務に取り掛かる中、明け方から眠り始めてしまったレミリオは夢から覚められずにいた。
夢を見る。
青空の下で花々がそよ風に揺れ、その真ん中でいつもの様に髪をなびかせた少女が此方に微笑みかけている。
鈴の転がる様な、優しい声が自身の名を呼ぶ。
夢を見る。
ただ幸せだったあの頃の続きを、夢見てしまう。
ふわふわと心地好い感覚に包まれて。
焼け落ちていく。
忘れもしない、朱く染まった視界。
燃えて、灰になって、奪われて。
己の無力を嘆き悲しみ、しかしそれしかない。
「リオはお姉ちゃんが守るから、大丈夫。お姉ちゃんがいれば何も怖いことなんてないわ。」
違うんだ、姉さん。
恐いことならあったんだ。
あなたを失うことが、俺にとっては何よりも…。
そう伝えれば、伝えておけばよかった。
彼女は微笑む。
例え無惨に切り裂かれようとも、「大丈夫」と言った。
誰かの叫びが聞こえる、誰かの嗚咽が聞こえる。
酷く喉が痛くなった。
夢を見る。
暗い、暗い、朱い。
揺れて、落ちて、堕ちて、深い水底へ____オチテ。
ふと、視界が真っ白になった。
まるで先程の色を全て消し去るかのように。
青い空も、金色の髪も、焼き付いて離れない色さえも。
額に柔らかく暖かな感触がある。
何もない空間、けれどそれが今は救いに思う。
もうあの日の記憶が蘇ることはなくなった。
穏やかになったレミリオの寝顔を、ナターシャは安堵の表情で見詰めていた。
そろそろ彼を起こさなければならないのだが、彼女はそうすることなく部屋を出るとローレンスへ報告に行った。
レミリオが眠る隣の部屋では、ローレンスがギルバートと共に書類仕事をしていた。
「旦那様、あの、レミリオ様なのですが…先程まで酷く魘された様子でして、よく休めていないかもしれません。も、もう少しだけ…寝かせて差し上げたいです…。」
ナターシャは自身の意見が聞き入れられるだろうかと不安になり、小さく呟く様に言った。
彼女はローレンスが自身を傷付ける存在ではないとわかっているが、顔色を窺う癖がある。
それを知っているローレンスからすれば、恐る恐るではあるものの、主に対して要求ができるようになった彼女の成長を喜ばしく思った。
「あぁ、昨日は色々とあって疲れているだろうし、昼頃に起こすくらいでいいだろう。私の友人を気遣ってくれてありがとう、ナタ。貴女は優秀なのだから、今後も何かあったら遠慮なく言ってほしい。頼んだよ。」
ナターシャは褒められることに慣れていないため、照れ臭さと嬉しさから頬を赤らめながらも表情を緩めた。
「ぁ…い、いいえ、そんな…!いつも、旦那様が優しく接してくださるから、その…私、頑張ります…!では、私は失礼致します!」
それだけ言うと高鳴る気持ちに耐え兼ねたのか逃げる様に部屋を出て行ってしまい、そんな様子を見たギルバートが苦笑した。
一方ローレンスは微笑ましげに扉の向こうを見た。
「メイドの役割としては優秀ですが、退出時のあれはどうにかなりませんかね。」
「可愛らしくていいじゃないか。それに、初めて出会った時より随分と成長したと思うよ。」
「ええ、わかっています。私が初めてお会いした時もそうでしたが、旦那様のかける言葉はまるで魔法ですね。」
ギルバートは彼にかけてもらった言葉を思い出し、無意識に呟いた。
本人としては褒めているつもりだが、忘れてはならないのはローレンスが天然であるということだ。
「呪言の類は基本技術があるだけで、高度なものとなると私は専門外だ。」
「本当、何でもできるんですね…。」
言いたいことは伝わっていないし、挙げ句の果てには主が言霊を操る者だと知ったギルバートは、彼女を敵には回したくないと改めて思った。
それから時は過ぎ、昼頃にナターシャは再びレミリオの部屋へ訪れた。
彼がまた魘されていないか心配になっていたが、変わらず穏やかに眠っているのを見て安堵する。
ナターシャは弱々しくも透き通る声で彼に呼びかけ、トントンと軽く肩を叩いた。
「レミリオ様、もうすぐお昼になりますよ。そろそろ起きてくださいませ。」
レミリオの肩にナターシャが触れることで、彼にかけた眠りの異能を解除した。
それと同時にレミリオはゆっくりと意識を浮上させ、彼女が顔を覗き込む中、目を覚ました。
ナターシャは魔法が効き過ぎることを心配していたようだ。
目が覚めたことに安堵したのも束の間で、至近距離で目が合ってしまったことに驚いて思わず背を仰け反らせた。
「ふえっ!?も、申し訳ありません…!えっと…朝起こしに来たら酷く魘されている様子でしたので、私の異能で夢を食べて安眠を促したのですが…相手によっては効き過ぎてしまうので、心配で…。」
レミリオの頭はまだ覚醒しきっていなかったが、彼女の慌てようで多少は目が覚めた。
どうやら彼女も異能持ちの魔族らしい。
ギルバートの監視とナターシャの眠り。
これはまた厄介な異能だ。
しかしその厄介な異能のおかげか、あの日から毎日の様に見ていた悪夢を今日は見ていない。
見ていない、というよりは覚えていないのだろう。
彼女がいなければ、きっとよく眠れもせずに飛び起きていただろう。
魔界はただでさえ魔族ばかりで気が抜けない。
眠っている時だけでも逃げ場が欲しいところだ。
「ありがとう、いつも悪夢ばかりで困っていたんだ。君のおかげで今日は飛び起きずに済んだよ。流石に毎晩は頼めない、よな。」
相手は魔族とはいえ、邪悪であるとも言い切れない。
流石に毎日頼むのは気が引けた。
一方ナターシャは彼の「ありがとう」という言葉に目を見開き、嬉しさから頬を薄っすらと赤く染めた。
彼もまたローレンスと同じく、自分の存在を認めてくれるのだと知ったからだ。
自身の存在意義を与えてくれようとしている。
ナターシャはそう感じた。
「わ、私でよければ、毎晩でも、何度でもお力になります…!旦那様の大切なご友人ですから。」
彼になら心を許せるような気がして、ナターシャは花が開いた様に明るく微笑んだ。
ナターシャは彼がこの屋敷に来て一度も笑みを見せなかったが、ようやく見ることのできた表情にレミリオは無意識に魅入ってしまった。
レミリオはこの屋敷で新たに仲間を手に入れた。