8話 鉢合わせ
レミリオは二人から今の関係に至るまでの経緯と、血の契約のことについて話を聞いていた。
時計を見上げたギルバートが慌てた様子で立ち上がり、申し訳なさそうにローレンスへ頭を下げた。
「申し訳ありません、私が長話をしているうちに割り振られた入浴の時間を過ぎてしまいました。」
ローレンスは彼の言葉を何ら気にした様子はなく、数枚の書類を手に取って見せた。
「構わない。私は書類を片付けてからにしようと思っていたから、貴方は先に焦らずゆっくり入浴を済ませておいで。もし明日、私が寝不足だったらサポートを頼むよ。」
ギルバートには見えている。
彼が手に持っている書類は全て既に処理の済んだものだ。
相変わらず他人を優先する彼に呆れながらも、せっかくの好意を無下にはしたくない。
「…承知しました。お先に失礼致します。」
諦めた様に溜め息をついたギルバートは、彼の言葉に素直に従って部屋を出ると浴場へ向かった。
ギルバートには見えていたが、レミリオからは書類の裏側しか見えていない。
仕事の邪魔はできないと思い、暫くして彼も席を立った。
「ラリー、俺もそろそろ寝ることにするよ。仕事の邪魔はできないからな。」
レミリオの声にローレンスは顔を向けた。
「今日は慣れない場所で疲れているだろうし、ゆっくり休むといいよ。明日の着替えはナタが持って行くはずだ。」
「ありがとう、助かるよ。おやすみ。」
「あぁ、おやすみ。」
二人は互いに軽く手を振り、レミリオの笑みにつられる様にしてローレンスも薄っすらと笑みを浮かべて彼の背を見送った。
そんなローレンスの笑みを浴場にて無数の眼で覗き見る男が、恍惚とした笑みを浮かべて独り呟く。
「嗚呼、我が主の笑み…至福です。」
ローレンスがそんな視線に気付くことはない。
レミリオはローレンスの部屋を後にし、隣の私室へと入って行った。
そういえば、当たり前だが此処には姉の写真がない。
しかし普段から肌身離さず持ち歩いている、形見であるペンダントの存在を思い出した。
今日着てきた服のペンダントを仕舞っておいた胸ポケットを探る。
するとあることに気付いた。
「嘘、だろ…。ない、ペンダントがない!」
慌てた勢いで一人だというのに思わず声を上げた。
確かにこのポケットに入れたはずだ。
何処かで落としてきたのだろうか。
レミリオは今日の自身の行いを振り返る。
転送前は確実に持っていたし、その先の森の中でも無くすような動作はしていない。
街でも同様、ポケットに触れていないし、馬車の中でもバーに行った時も確かに胸ポケットにペンダントの僅かな重みがあった。
だとすれば、残りの可能性としてはこの屋敷の何処かに置いてきたとしか考えられない。
レミリオは部屋を半ば飛び出す勢いで長い廊下を歩いた。
屋敷を案内された際に通った場所を片っ端から全て調べようと歩き回る。
途中で何人かの使用人に出会い、ペンダントを見かけていないか聞いたが、それらしい情報は手に入らない。
最後の可能性として残ったのは、浴室の脱衣所で服を脱いだ際に胸ポケットから滑り落ちたかもしれないということだった。
広い屋敷の中を使用人に聞きながら歩き回っていたことでかなりの時間が経っているため、流石にローレンスも入浴を済ませて自室に戻っているはずだ。
脱衣所に無ければ本当に見当がつかないため、祈る様な思いで脱衣所に繋がる扉を開けた。
レミリオが廊下側から扉を開いた先で、同時に浴場側から誰かが脱衣所に繋がる扉を開けた。
どちらからともなく、間抜けな声を発した。
「あ…。」
「え…。」
艶のある濡れた黒い長髪とルビーの赤い右目、そして左目はというと、目玉をくり抜いた中に闇を閉じ込めたかの様に真っ暗な何かが渦巻いていた。
眼帯をつけていれば、恐らくそれはローレンスだ。
しかしそれでは納得がいかない。
ローレンスは男性であるはずだが、目の前に晒された身体は女性のものである。
紹介された使用人の中にこの見た目の女性はいなかった。
暫く互いに困惑と動揺から見詰め合っていたが、先に正気に戻ったのは女性の方だった。
立ち尽くしたレミリオに素早く近付くと、空中に小さな黒い空間を作ったと思えばそこから二本の短剣を取り出し、それを両手に握った彼女が押し倒してきた。
レミリオは突然のことに判断が間に合わず反射的に受け身は取れたが、首元に短剣を突き付けられてしまった。
驚いたレミリオが見上げると、女性は口を開く。
「見たな、私の身体を。見たんだな、この醜い目を。」
レミリオはその声を聞いて確信した。
彼女は間違いなくローレンスであると。
赤い右目と、深い闇へ誘う様な渦を巻く左目が此方を睨み付けている。
レミリオはどう答えるべきか迷っている。
ローレンスは男性ではなかった。
そしていつも眼帯によって覆われている左目は、思わず身震いしそうになるほどに禍々しい。
沈黙が流れるそこへ、廊下を走る靴の音が聞こえた。
そして開け放たれた扉から姿を現したのは、誰にもローレンスの入浴の邪魔をさせない為に私室から密かに監視をしていたギルバートだった。
「レミリオ様!旦那様はまだ入浴中で…。」
ギルバートは二人の体勢に困惑し、言葉を最後まで言い切ることなく唖然とした。
目の前の女性の正体を察して彼もまたその場に立ち尽くす。
そこでようやく思考を取り戻したレミリオは、どうにか話を逸らそうと頬を赤らめた。
「と、とにかく、服着ろよ。」
ローレンスと思われる女性は彼の言葉に目を見開き、ゆらりと立ち上がる。
「貴方たち……二人とも、出て行けぇー!!」
低く怒気を含んだ叫びと共に、レミリオとギルバートは廊下の壁へと背を打ち付ける程の衝撃波を浴びると同時に、扉がバタンと音を立てて乱暴に閉まった。
「女、だったな…。」
「女性でしたね…。」
二人は床に尻もちをついたまま、未だに信じられない様子で顔を見合わせた。
レミリオは振る舞いと名前からしてローレンスは男性だと思っていたし、ギルバートも自身を救ってくれた彼に同性として尊敬と憧れを抱いていた。
現実を受け止めきれない二人が放心状態になっていると、脱衣所の扉を開けて普段の容姿のローレンスが出てきた。
ローレンスはこれまで以上に不機嫌な顔で此方を見下ろしている。
「今見たものは決して周りに他言するな。もし一度でも口にしたら…生き物が一番快感を得る瞬間がどんな時か、教えてあげるよ。」
彼の言葉をわかりやすく翻訳すればこうだ。
今見たことを周りの者にバラしたら殺す。
いや言葉選びが怖えよ!
レミリオとギルバートはそんなツッコミを胸の内に仕舞い、ただ無言で頷いた。
そんな二人の様子を見たローレンスは普段の表情に戻り、何もなかったかの様に廊下を歩いて行ってしまった。
ローレンスの姿が見えなくなった後、二人は安堵の溜め息をついた。
ギルバートからしてみれば、彼…彼女があそこまで自分に怒ったことなどなかった。
飼い主に怒られた後のしょんぼりとする子犬の様に肩を落とすギルバートだったが、彼女が自身の正体を隠す理由についてはよく考えてみれば想像がつく。
彼女の両親の姿を見たことはないが、魔王に次ぐ地位の高さを持っている。
それを女性一人が管理していると知れたら、男たちは彼女を口説こうと必死になるだろう。
敢えて冷酷な男性を演じることで、縁談などその他の面倒事から逃れていたのだ。
それでも女性からの縁談がチラホラと来ているのだが、彼の演技に音を上げて早々に屋敷を去っていく。
しかし彼女には謎がある。
ここまでの地位を与えられながら、ギルバートが仕えるまで使用人を雇っていなかったのは何故だろうか。
それにあの左目は、どの種族の特徴にも一致しない。
彼女が眼帯をしてまで隠すものなのだから、これに関しては詮索すべきではないだろう。
一方、レミリオはそんな事情を知るはずもない。
流石に本人に聞く気にはなれなかったので、ギルバートに尋ねることにした。
「ギルバート、ローレンスはいつから男装をして過ごしていたんだ?」
レミリオの言葉にギルバートは思い返す。
「私は旦那様に出会うまで外の世界を知らなかったので何とも言えませんが、少なくとも両親は男性であると認識しているようでした。そうなると、騎士として名が知れ渡るようになる前から、ということになるでしょう。」
二人がローレンスについて推測する中、先程彼女が曲がった廊下の曲がり角から当の本人が顔を覗かせていた。
「聞こえているぞ、二人とも。」
彼女の気配に気付かなかった二人は、その声に驚いたと同時に死を覚悟した。
初めは全身から黒く禍々しいオーラを放ちながら此方に歩み寄って来たが、目の前まで来ると呆れた様子で溜め息をついた。
「私について考察するのは構わないけど、誰にも聞かれないところでやってもらえるかな。それからギル、貴方まで夜更かしをしてどうするんだ。今日のところは寝よう。」
そう言って再び去ろうと二人に背を向けたローレンスだったが、ぴたりと足を止めて振り向いた。
「そういえば、リオは此処に何をしに来たんだ?私に何か急ぎの要件でもあったのか。」
ローレンスの衝撃的な事実によって忘れていたが、彼女の言葉にレミリオは本来、此処に来た目的を思い出し慌てて脱衣所の中を探し始めた。
「あぁ、そうだった。姉の形見のペンダントを脱衣所に落としたかもしれないんだ。」
レミリオの姉の事情を知らないギルバートはきょとんとしていたが、ローレンスはバーで話を聞いている。
そのためすぐにギルバートに指示を出した。
「ギル、ペンダントを見付けてあげてくれないか。彼の大切なものなんだ。」
ギルバートはローレンスの指示を受けて複眼を利用して神経を集中させる。
脱衣所内の細部までを無数の眼に映し出し、ペンダントを探し始めた。
指示を出したローレンスもレミリオと共に捜索をする。
しかし、一見してペンダントらしきものは落ちていない。
ローレンスも先程、使用人の忘れ物がないか見ていたのですぐに見付からない場所にあると思った。
すると捜索を終えたギルバートが声をかけた。
「旦那様、ペンダントらしきものを見付けました。着替えを収納する棚同士の隙間です。」
レミリオはペンダントが見付かったことにひとまず安堵し、指定された場所に手を伸ばすと硬いものが指先に触れた。
形からして間違いなく自身が失くしたペンダントだ。
指で手繰り寄せる様にして手に取り、それがペンダントであることを確かめて今度は落とさないようにと、しっかりとそれを握った。
結局その日はローレンスのことについては何も聞けなかったが、正体を知られても彼女は変わらない態度で接してくれていた。
レミリオのペンダントが見付かったことで一件落着と言ってローレンスは自室に戻り眠りに就いてしまったが、レミリオとギルバートは彼女の件を思い出して一睡もできなかった。