3話 初めての
この世界の住人は、「何が欲しい」と問われれば金や財宝、地位を欲しがる者ばかりだ。
しかしレミリオが願ったのはそのどれでもなく、食べればすぐに無くなってしまうものだった。
いつも無表情だった男は一瞬面食らった様に目を見開く。
「貴方は少女の命を救ったのだ。そんなものでなくとも良いのだぞ。」
男は念を押したが、レミリオは自身の選択に迷いはない。
どうせ金を貰ったところで、それほど長くはもたないだろう。
食い繋ぐことはできるだろうが、情報収集をしながら魔界で仕事に就くには骨が折れる。
地位があっても天界へ帰る際の邪魔になる。
では一度魔界を離れ、天界へ戻って再度思考を練る必要があるかもしれない。
そう考えて答えを変えないレミリオに男は困惑しながらも、面白い人物だと無意識に認識した。
「考えは変わらず、か。わかった、それならとっておきの場所がある。」
そう言って男はレミリオに馬車に同乗するよう促し、とある場所へ向かうよう御者へ声をかけた。
御者は先程の失敗を思い出してか、二人が乗り込んだのを確認して緊張した面持ちで馬車を出発させた。
馬の蹄と木製の車輪が転がる音しかしない馬車の中で、男は無言で何やら思案する様な顔でレミリオを横目に観察していたが、暫くしてようやく口を開いた。
「そういえば、貴方は私を恐れないのだな。」
レミリオは視線に気付いており、どうにも居心地の悪さを感じていたところ、投げかけられたその問いを不思議に思いながらも、筋書き通りに答える。
「俺は今日、初めて田舎からこの街に来たからな。誰が何故恐れられているかわからないんだ。」
男はそれを聞いて驚いた様に目を見開いたかと思えば、何度か瞬かせた。
魔界で自分を知らない者はいないと思っていたからだ。
それと同時に、自分の悪い噂を聞いていないのだろうと察して安堵した。
しかし彼が自分を知らないのであれば、二人きりで馬車の中というこの状況では名乗らなければなるまい。
「私を知らないとは、珍しいな。私はローレンス。ローレンス・ブラッドレーだ。皆にとって私は畏怖の対象であるようだが、実際はそれほど偉いわけでもないんだ。気軽にラリーと呼んでくれ。」
先程までまるで鉄面皮だったローレンスという男は、今では慣れないながらも薄く此方に笑みを向けている。
レミリオにはどうしても彼が周りの者に恐れられるほどの人物には見えなかった。
少女を助けたことを説明した時、彼の言動からは民を大切にしていることが伝わってきた。
確かに御者に対して厳しい態度をとっていたが、彼は小さな命を散らしかけたことに対して怒っていたからだろう。
魔族は魔族だ、天界を脅かす敵に変わりはない。
だが彼はきっと悪い人物ではない。
「俺はレミリオ・ノワールだ。俺が君をラリーと呼ぶのだから、俺のことはリオと呼んでくれ。」
そう言った途端、先程までの氷を纏う様な冷気を帯びた彼の雰囲気がふわりとしたものに変わった。
「リオ…そうか、レミリオというのか。ふふ、そうか。」
名前を名乗っただけなのに、何故か嬉しそうに不慣れな笑みを浮かべてその名を何度か口にする。
レミリオには理解ができず、思わず不思議そうな眼差しを向けた。
するとローレンスはその視線に気付いたのか、気を引き締め直す様に表情を先程のように堅くしてしまった。
「すまない、こうして愛称で呼び合うというのはなんだか友人の様で嬉しかったのだ。」
そう口にした彼の声色はなんだか寂しげで、まるで捨てられた小犬の様な雰囲気を纏っている。
レミリオは聞き逃さなかった。
彼が初めて馬車の中から姿を見せた時、自身を騎士団の団員であると言っていた。
御者を雇っているところを見ると、地位も低いわけでもないだろう。
加えて街の魔族達の様子を見る限り、彼と親しくする者はあまりいないのではないかと推測できる。
地位のある騎士と聞くと女性は必死に気を惹こうとするだろうが、冷たい威圧感を漂わせている彼の場合はそういった対応が難しい。
ならばこれは好機だ。
彼とは互いに友人として振る舞うことで、魔王や結界のことについて情報を得られるのではないか。
自分が天使らしからぬことを考えているとは思いつつも、天界を救うために彼を利用させてもらおう。
「俺はこの街にまだ友人が居ないんだ。ラリーが良ければ友になってくれないか。」
その言葉にローレンスは再び驚いて、戸惑いを映したその瞳を揺らしている。
今まで友人として振る舞ってくれる者は誰一人としていなかった。
自分のことを知らなかったとはいえ、御者を叱ったことで少なからず脅かしてしまっているのではないかと思っていたからだ。
「わ、私で、いいのか?」
「この街で俺のことを知っているのはラリーだけだからな。」
「しかし…私が友人では、他の者は離れていってしまうぞ。」
「それならそれで構わない。」
この会話で何となく察したのだが、ローレンスはあまりに自己肯定感が低い。
そんな彼を利用しようとする自分の方が悪なのではないか。
胸の奥がズキリと痛む感覚に、思わず薄っすらと眉間に皺を寄せた。
一方ローレンスはそんなレミリオの様子に気付かない。
それどころではないのだ。
彼は表情こそいつも通りだが、その実、初めての友人ができたことで頭の中では蝶が舞っている。
今まで友人は疎か、まともに話せる相手もいなかったのだから。
これから出会う、一人を除いて____。
談笑することによって二人が漸く打ち解けた頃、馬車はとある小さな建物の前で停車した。
御者がローレンスに到着を伝えると、馬車の扉を開けた。
どういうわけか、窓にはカーテンがかけられており外の様子は見えない。
何処へ向かっているかもわからなかったが、人通りの少ない道を進んでいるのは周りの静けさでわかる。
警戒心をなんとか隠しつつ慎重になったレミリオを、ローレンスは気に留めることなく馬車を降りて振り向いた。
「リオ、此処が私の行きつけのバーだよ。アップルパイはもちろん、マスターの料理は絶品なんだ。」
レミリオはそれを聞いて密告の恐れがないと知り、促されるままローレンスの後に続いた。
そこには路地裏の穴場スポットと言えるだろう、人目を偲ぶ様なこぢんまりとしたバーがひっそりと佇んでいる。
建物の規模は小さいが、落ち着いた配色によって外見からでも酒を扱う雰囲気が出ている。
ローレンスが慣れた様子で扉を開けると、カランコロンと小さな鐘の鳴る音が響いた。
そこでレミリオは知ることになる。
魔界のバーはかなり独特であるということを。
バーの中ではバーテンダーらしき中年男性が一人、カウンターでグラスの整備をしていた。
来客を知らせる鐘を聞いたその男は此方の姿を見るなり、パッと表情を明るくさせた。
「あら、ラリー!いらっしゃい。あなたが此処に誰かを連れてくるなんて初めてね。もしかしてお友達かしら。」
そう、このバーのマスターはいわゆるオネエだったのである。