2話 魔界へ
レミリオは姉に別れを告げると、魔界へ向かうために床に描いた転送魔法陣の中心に立った。
自分がこれから行く所は天使にとって未知の世界。
古文書の情報によれば、瘴気が溜まっている所や魔物の住む森があるらしい。
そして驚くべきは朝も夜も関係なく暗いことだ。
あまり詳しい情報は知ることができなかったが、自分達の居場所を守るには行くしかない。
不安な気持ちを押し込める様にぐっと目を閉じる。
レミリオが転送を念じた途端、魔法陣が青白い光を放つ。
そして一際光が強くなると同時に天界からレミリオの姿が消えた。
眩い光が消えた気配にレミリオは目を開けると、そこは天界の様に明るい雰囲気の場所ではなかった。
木々が鬱蒼と生い茂り、遠くで魔獣の呻く声が聞こえる。
恐らく街外れの森の中だろう。
少なくとも目立つ場所でなかったことにレミリオはほっと安堵の息をついた。
しかしこんな森の中では情報など手に入らない。
あてはなくとも歩き続ければ取り敢えずはこの森を抜けられるはずだ。
何処へ向かうべきかはすれ違う者にでも聞けばいい。
そう思って歩き始めてからどれほど経っただろうか。
時間を教えてくれるものは何一つとしてない。
しかし、木々の隙間から幸い整備された形跡のある道を見付けた。
これに従って歩けば街か、もしくは村にでもに辿り着けるだろう。
暫く歩みを進めていると、一人の老爺が籠を少々重たそうに背負って向こう側から歩いて来るのが見えた。
彼に道を聞くことにしよう。
レミリオは爽やかな青年を装い、老爺に声をかけた。
「そこのご老人、王都へ向かいたいのですが、道に迷ってしまいまして…。行き方をご存知でしょうか。」
老爺は彼の声に足を止め、転ばないよう足下に向けていた視線を青年へと向けると、目尻の下がった優しい笑顔で応える。
「おや、王都へ出稼ぎかい。この道を真っ直ぐ行けばすぐだよ。あんたは身なりも悪くない。良い仕事が沢山見付かるはずだよ。頑張ってね。」
「ありがとう御座います。ご老人も、足元にお気を付けて。」
どうやら彼は王都から程近い森に転送されたらしい。
人目のつく所に突然現れては、目立ってしまったり最悪怪しまれ兼ねないのでそこは転送先に条件を加えたのだが、しっかりと機能していたことに安堵する。
この老爺の言う通りであるならば、王都まではそれほど時間はかからずに辿り着けるだろう。
レミリオと老爺は互いに軽く礼をしてすれ違い、それぞれの目的地へと歩き出した。
しかし皮肉なものだ。
かつて自身の住処を荒らし、姉を奪って行った魔族に身を案じてもらうとは。
レミリオは複雑な思いを隠し切れず、老爺とすれ違って数歩のところで眉間に皺を寄せて俯きながら道を進んだ。
終わりの見えない道の様に感じた森の中を歩いて暫くすると、道を真っ直ぐ向かった五百メートルほど先に開け放たれた大きな門が見えてきた。
森の中は緑ばかりで同じ景色が続いて退屈な道だったが、この先に行けば少しは景色が変わるだろう。
門が近付いてくる頃には、二度と緑は見たくないと思う程になっていた。
レミリオは急かされる様に足早に歩き、遂に目の前に目的の王都へと繋がる門が現れた。
そこからは街の灯りが漏れ出しており、出入りに制限がないらしくその両脇に門番はいない。
これを抜けた先ではあまり一人になる時間はなく、本当に魔族に囲まれて過ごすことになるのだろう。
緊張から喉をごくりと鳴らして固唾を呑み、それでも風景が変わることを期待した脚は、重くありながらも思いの外軽やかに踏み出した。
灯り一つない暗い森を歩いてきたせいか、門を通ると一気に街明かりに照らされ眩しさに思わず目を細める。
光に目が慣れた頃、ゆっくりと瞼を開けた。
すると目の前に広がっていたのは、天使や人間の世界と何ら変わりない光景だった。
道の両端には食品や衣服、生活用品などの出店が数多く建ち並んでいる。
レミリオはもっと禍々しい世界を想像していたが、それは街の外だけのことらしい。
しかし門を通り抜けてしまえば、親子連れや恋人など多様な魔族で賑わっている。
我々と何か違うことがあるとすれば、魔族には多くの種族が存在することだ。
ヴァンパイア、デーモン、獣人、ミュータント…。
彼らを見ていると他にどんな種族がいるのか、気になってしまうが決して遊びに来たわけではない。
しかし敵ながら興味深いものがあり過ぎる。
どうにも好奇心を抑えられないレミリオは、情報収集と称して店などを見て回ることにした。
幾つかの出店を周って観察していたのだが、通貨という概念が存在しない天界に対し、どうやら魔界では通貨の取引によって品物を提供しているらしい。
これに関しては人間界と同じようだ。
ということは、一文無しの状態で転送されたレミリオにとってこれは詰みだ。
先程の通り、天界に通貨の概念がない。
仮にあったとしても魔界でその通貨が使えるとも限らない。
いくら天使という人間とは違う存在とはいえ、生きているのだから飲まず食わずでの生活は無理だ。
並べられた禍々しい色の食材の数々を前にレミリオは困り果てた。
嗚呼、店主からの訝しむ様な視線が痛い。
どうにかこの危機を脱しなければと考えている時だった。
何処からか馬の蹄と木製の車輪が転がる音が聞こえてきた。
羽根を使って移動する天使のレミリオにとって、聞き慣れない音に思わずそちらを振り返る。
すると視線の先では、よく見ると筋肉や骨が剥き出しになった馬の様なものが馬車を引いている。
その時、出店との間を通る馬車の前を誰かが落とした林檎がコロコロと転がっていき、あろうことかそれを追いかけて魔族の少女が飛び出してしまった。
このままではあの子が轢かれてしまう。
そう思った時には既に身体が勝手に動いていた。
馬車の前に素早く飛び出すと少女を抱え、轢かれる寸前でどうにか避けることができた。
その様子を見ていた周りの魔族達が突然の出来事に驚きで悲鳴を上げる。
少女は自身の身に迫った危機に怯えて泣き出してしまい、母親らしき人物が青い顔をして慌てて駆け寄って来た。
「この子を助けていただきありがとう御座います。何なりとお礼をさせてください。」
母親はそう言って少女を抱き締めながら無事を喜び安堵し、それを見ていた魔族達は歓声をあげた。
その騒ぎを聞きつけたのであろう。
「何事だ。」
そう言って馬車を降りてきた若い男は真っ黒な艶のある長髪を右下側でまとめており、血に染まったルビーを嵌め込んだかの様な瞳は左目を黒い眼帯で覆われていた。
彼の纏う重厚な鎧が動く度にカチャリと金属音をたてる。
まるで恐怖を与えつつ同時に美しささえ感じさせる彼の容姿に、レミリオは思わずその男を凝視してしまった。
男は周囲の様子を見渡し状況の把握をしようとしているが、御者は何かを恐れているのか彼から視線を逸らして何も言わない。
何故かはわからないが、周辺の者たちは誰一人として口を開こうとはしないのだ。
あまり目立ちたくはなかったのだが、そんな彼らを見兼ねたレミリオが事の顛末を説明した。
すると男は御者を鋭く睨み付ける。
御者はびくりと肩を震わせ申し訳なさそうに目を伏せた。
「この世界を守る騎士である私の御者にも関わらず同族の娘を殺しかけるとは、自覚が足りていないようだ。」
男は御者に顔を向ければ冷たい声で言い放った。
それを聞いた御者はこの世の終わりの様な顔をしている。
余程彼を恐れているのか、反論もせず黙り込んでしまった。
それから男は少女と母親に近付いていくと深く頭を下げた。
「私の部下が申し訳ないことをした。後日、きちんとした詫びをさせてくれ。」
母親は初めに彼の姿を見た時は怯える様な眼差しを向けていたが、彼の言葉を聞いて驚きながらも小さく頷いた。
母親の反応を見た彼は次に少女へと視線を向け、目線を合わせるように屈んだ。
「お嬢さんも怖がらせてしまったな、悪かった。だが周りを見ずに走り出すのは危ない。気を付けるんだぞ。」
「うん、ごめんなさい…。」
男は無表情ではあったが、少女を見る瞳と声色にはどこか優しさを含んでいる気がした。
二人との会話を終えた男は、レミリオの方へと歩み寄ってきた。
「貴方が彼女を助けたと言ったな。その勇敢な行動を称賛すると共に礼を言う。手間をかけさせた詫びをしたいのだが、希望はあるだろうか。」
そう問われたレミリオは、色々と考えが過ったために少し迷いつつも答えた。
「……なら、アップルパイが、食べたい。」