15話 友人の頼み事
今回は少し長めです。
十分な時間を確保してお読みください。
「ラリー、あの二人は恋人…なのか?」
レミリオはローレンスの私室に足を踏み入れるなり、落ち着きを取り戻す時間も惜しく思いそんな問いを投げかけた。
問われた彼女はと言えば、普段あまり動かさない表情筋を無意識に小さく緩めて上機嫌な様子でデスクに向かう。
レミリオとギルバートの戸惑いを他所に、ローレンスはデスクチェアに腰を深く下ろして「まあ、まずは座って一息つこう。」などと呑気なことを言うのである。
早急な説明を求めたレミリオとしては不服ではあるのだが、ギルバートは戸惑いつつもローレンスの部屋に常備されているあの血の様に赤い色の紅茶を淹れ始めた。
彼も何かしら知っているとはいえ、流石に先程の光景を見たのは始めてだったのだろうと思う。
レミリオがソファに腰をかけたところで、ギルバートが俺の目の前に紅茶の入ったティーカップと、恐らくそれに合うであろうクッキーが数枚乗った皿を置いた。
主人であるローレンスよりレミリオ優先するのは、一応彼を客人として扱っているからである。
彼がローレンスと自身の分のお茶を淹れている間、特に何か会話があるわけではなかった。
レミリオもそんな空気の中で一足先に紅茶に口を付けるなといった、そんな無作法なことはできなかった。
ローレンスはギルバートが席に着くのを待っているといった様子で、目の前に用意される紅茶とお菓子を見てから彼の方へと柔らかな向け、「いつもありがとう。」と一つ礼を言う。
それに「いいえ。」と短く応える彼は自身の分を手に、レミリオの向かい側のソファへと腰を下ろした。
そのタイミングを見計らってかはわからないが、ローレンスはティーカップを手に取り紅茶を一口飲んだところで、ふう、と一つ息をついた。
その行動が彼女の言う「落ち着く」に値したのか、ギルバートの戸惑いも含めたレミリオの問いに答える気になったらしく、漸く紅茶で潤したその口を開いた。
「ギルはともかく、リオにも一応説明しておかないとね。彼らは二年ほど前に結婚した新婚さんなんだよ。それで、先程のは……。」
そこまで言うと、彼女はどう説明したらよいものかと考えあぐねているらしく数秒言い淀んだ。
あの光景が常識的な夫婦の逢瀬でないことを、本人もとうに理解していたのだろう。
それから適当な言葉を紡ぐことに集中するように、視界に映る情報を遮断しようと目を閉じる。
「これは彼らの価値観であって、私が完全に理解しえるところではないのだけど…。」と前置きををし、デスクに頬杖をついて続きを話し始めた。
ナターシャは幼い頃から気弱な性格で、そんな彼女は森の付近で魔獣に遭遇したところを近所に住んでいたレオンに助けられたそうだ。
それからというもの、彼女は守られるばかりでなく、誰かを守る強さを求めてレオンに特訓を申し込むようになる。
そうして毎日の特訓の末、出会い頭に自分がどれだけ成長したかを推し量る為に、レオンの腹部に拳を叩き込むという妙な習慣ができたらしい。
カリナに雇われてからのナターシャは例の有り様で、屋敷の外で出会えたとしても、レオンとの出会い頭に殴り込む気力は生まれるはずもなく、特訓もできず、それまでに鍛えた力も徐々に衰えてしまった。
しかし雇い主が変わった今となってはその環境も随分と変化し、普段の業務を熟す片手間に、ローレンスに稽古をつけてもらっていたのだ。
その甲斐があってか、彼女はカリナに雇われる以前よりも遥かに力をつけたのである。
そんな経緯もあってレオンがローレンスに雇われてからは、あの特訓の日々の続きを、と出会い頭の恒例行事を再開させたらしい。
「少々長くなってしまったけど、確かこんな感じの内容を幸せオーラ満載で説明されたっけ…。ふふ、だから彼らは愛し合っていないわけではないんだ。慣れればあれも愛情に満ち溢れたスキンシップに見えてくるよ。」
懐かしい記憶を語り終えた彼女は、ゆっくりと瞼を開きこれ以上の説明はないとばかりに再びティーカップに口を付けた。
それまで聞いていた二人は、なるほど、と言って頷いた。
彼らは恐らく、離れて暮らしていた空白の時間を取り戻したいのだろう。
そんな二人の思いに気付き、それ以上は何も訊ねることはしなかった。
ナターシャとレオンについての会話が区切りをつけてからも、三人は紅茶を手に暫く談笑していた。
それはレミリオの今回の任務には何ら関係のない、他愛もない話だ。
レミリオはそれら全てを漏れなく記憶する。
ローレンスが王城へ出向く機会や周期の話に、魔王との謁見の際、彼女に毎度何かしらの贈り物がされる話。
ナターシャは気弱な性格でも、人並み以上という程度には拘りが強いという話。
ギルバートが頭上に眼鏡を置き忘れてレオンに散々笑われた時の話……これはまあ、流石にいらない気もするが。
彼らの会話や日常生活、人間関係(という言葉が人外にも該当するものなのかはまた別の話だが)、未知の世界ではそんな基本的な情報、或いは茶番ですら必要なものであり、それによってこの戦争の結末を大きく左右する。
一人で過ごす時間以外は気が抜けそうにない。
二人が振る話題に対して相槌を返し、その時々の適切な表情を浮かべて自然に見えるよう振る舞う。
彼らはそんな反応をするレミリオを見て、嬉しそうに表情を綻ばせているのだった。
そうこうしているうちに、おかわりまでした二杯の紅茶を飲み終えていた。
街へ情報収集に出掛けることはできなかったが、その代わりに王城に関する情報が少し聞き出せた。
とは言っても、魔王がローレンスを何故か気にかけているという個人的な情報以外は出て来なかったのだが。
それでも魔王の人柄…魔族柄を知るにあたっては、砂粒ほどの情報でも集められただけ間違いない進歩だ。
休憩を済ませた三人は頃合いを見て解散する。
ギルバートは業務に戻り屋敷の管理をしなければならないため、せかせかした様子でその場を後にした。
部屋を出ていくギルバートを見送ったレミリオがローレンスの方へと振り返ると、彼女はその場から動く気がないのか相変わらず座ったままだった。
彼女は先程屋敷に帰ってきたということは、今日はもう外出の用事はないということだろう。
「ラリーはこの後も何か仕事があるのか?」
そう問うてみると、彼女は此方に視線を移し何とも言えない表情を浮かべて曖昧な返答をした。
「ああ、いや、うーん…。」
表情から心境を読み取ることはできないが、その瞳には困惑の色が窺える。
レミリオはそんな彼女にどういう捉え方をしたらよいものかと判断しかねていると、その様子を見ていたローレンスが迷う様に言い淀みながらも口を開いた。
瞼を伏せたことで、長い睫毛によって目元に影を落とす。
「最近、貴族の屋敷が襲撃に遭う事件が頻発しているんだ。私たち第一騎士団は少数精鋭の部隊で、大規模な捜索などは管轄外でね。しかし、捜索が始まってから一ヶ月が経った今でも何の手掛かりも掴めていない。襲撃に遭った彼らは良くて意識不明の重体、悪ければ…。」
そこまで話した彼女は不安そうに瞳を揺らした。
貴族の屋敷が頻繁に襲撃される事件、つまりそれは貴族が標的となっているということだ。
友人として砕けた態度で接し合っていたレミリオはあまり意識していなかったのだが、彼女の役職は騎士であり、そのプライベートは貴族である。
正体不明の脅威が迫っているこの状況で、その時がいつ訪れるかもわからない。
そんな緊張感がただでさえ堅い彼女の表情筋を更に強張らせていたのだ。
そのことに思い至ったレミリオは、その脅威が自身をも巻き込み兼ねないというリスクに気が付いた。
そして被害はローレンスとレミリオだけに留まらない。
この屋敷の使用人たちも襲撃に遭う可能性もあるのだ。
「なん、だって…?」
レミリオも緊張感で表情を堅くする。
その様子を見ていたローレンスは先程までの迷いを打ち消すと、忙しなく視線を動かし彼の頭の天辺から爪先までをじっくりと観察する様に目を細めた。
「友人とはいえ、貴方はこの屋敷にとっては客人だ。話すべきか迷っていたのだけど、貴方も騎士団に入れる程度には整った肉付きをしている。武の心得があるんだろう?」
騎士として鍛え抜かれた逞しい肉体は、矢張り服では隠し切れていなかったようだ。
ローレンスはただレミリオの戦力を計ろうとしているだけなのだが、彼にとってはその視線が全てを見透かそうとしているようで思わず脈拍が早まる。
居心地の悪さにじんわりと背中に冷や汗が伝い、動揺を隠す様に視線を落とした。
「…まあ、闘えなくはない…な。」
そんな彼の様子に気付いているのかいないのか、ローレンスは真剣な面持ちでレミリオをじっと見詰める。
「それなら、貴方に一つ頼み事をしたいんだ。ああ、でも受けるも受けないも貴方の自由だよ。」
正体がバレたかとひっそりと警戒していたレミリオだったが、頼み事と言われてそれまでの警戒心を緩めた。
「頼み事?それはつまり俺の戦力が必要になるってことか。」
「ああ、私だけではどうにも手が回らなくてね。身体が二つあれば貴方に苦労をかけなくて済むのだろうけれど。」
困った様に眉を下げて冗談混じりに言う彼女は、話だけでも聞いてもらえるようだと小さく口角を上げて安堵した。
それから改めて表情筋を引き締める。
「私が外出している間、貴方にこの屋敷の留守を頼みたいんだ。どうか使用人たちを守ってほしい。」
勿論その間は情報収集も職探しも捗りはしないのだが、ここで否と返すほどレミリオは薄情ではない。
魔界での滞在期間が延びることを懸念したが、結局は警戒を怠らないことで自身の身を守ることにも繋がる。
レミリオは数秒ほど思案したが、任されたと言わんばかりに大きく頷いた。
「仕方ない、友人の頼みなら断れないな。わかったよ。」
その返答にローレンスは緊張が解けた様に頬を少し緩め、「貴方ならそう言ってくれると思っていた。」という言葉と共に礼を告げた。
それから普段の調子を取り戻す様に、軽い声色で話題を変えた。
「ところで、職をまだ探しているんだったっけ。第一騎士団に入団してみるのはどうかな。給料いいよ?」
「うーわ、給料で釣るとか卑怯だろ…けど遠慮するよ。俺はラリーが期待するほど強くはないからな。」
流石に組織に所属すると天界へ帰還する時の邪魔になるから、とは言えない。
けれどローレンスはそんな彼の返答に対して少しも嫌な顔は見せず、まるで予想済みだという様にくすりと小さく微笑むだけだった。
「ふふ、そうか。それは残念だ。」
王都から少し離れた街外れのとある上流階級貴族の邸宅。
豪華な装飾を惜しみなく施されたその屋敷の中は、白い大理石の床や壁掛けの見事な絵画で彩られた黒い壁、シャンデリアやガラス細工で飾られた天井に至るまでどれも染み一つない。
本来ならば誰もが息を呑むその美しい光景は、何処もかしこも赤黒く染まっていた。
それは窓から差し込む夕暮れの色か、はたまた生き物の体内から溢れ出したものか。
真っ赤なそれは床一面を濡らし、浅い水溜りを作っている。
その奥の執務室であろう場所で、屋敷の主たる貴族の男性はデスクの下に隠れる様にして、縮こまって震える丸く太った身体を自身の両腕で掻き抱いた。
尋常でないほどの汗が毛穴という毛穴から吹き出す。
「何故だ、何故こんなことになった!?武芸なら同年代の誰にも劣らなかったこの私が、何故逃げ隠れしなければならない!?いやだ…死にたくない、死にたくないっ…!」
ブツブツと小さく呟きながら迫り来る恐怖から逃れたい一心で、それが去ることを祈りながらじっとしていた。
荒くなった息遣いは整いそうにない。
助けを呼ぼうにも、この屋敷で生き残っているのは彼一人のみだ。
使用人たちは皆あの赤い海の藻屑となった。
ここ一ヶ月ほど貴族ばかりを狙う殺戮組織がいるのだと、パーティーでよく話題を耳にしていた。
しかし、まさか自分がその標的になるなどと思ってもみなかったのだ。
そうして震えている彼には、長い廊下から迫る二つのゆっくりとした足音は聞こえない。
コツン…コツン…と、袋小路になったその一室へと一歩ずつ歩み寄っていく。
その足音が扉の前でぴたりと止まった。
直後、男性は迫る脅威の気配に気付くことがないまま、その首を飛ばされ絶命した。
染み一つなかったその執務室にもまた、赤い水溜りが出来上がった。
窓から差し込む夕陽によって部屋に影を落とし、この屋敷で唯一の生者と呼べる二つの存在をくっきりと浮かび上がらせた。
二つの影のうちの少し大きな一つが、水溜りで遊ぶ様にぴちゃぴちゃと軽く足踏みをしている。
そうして転がる死体に嘲笑の目を向けた。
「あーあ、呆気なくて不様な死に方。ねえ、父さんもそう思いませんか?」
「見てください、肥え太って醜い姿です。母さんもそう思いますよね?」
二つの影はそう声を発して少し間を置いた後、揃って口角を持ち上げると、目の前の凄惨な光景などないものの様に柔らかな声色で告げる。
「ふふ、そうですね。」
その声は誰の耳にも届かず、しんと静まり返った部屋に吸い込まれる様にして消えていった。
二つの影は暫く沈黙したまま赤い海の藻屑をじっと見下ろしていたが、やがてそれも見飽きた様に口を開く。
「帰ろうか、マーニャ。」
「うん、帰ろう。リーリャ。」
二つの影はどちらからともなく手を繋ぎ、屋敷の出口へと向かってゆったりと長い廊下を歩きながらご機嫌な鼻歌を歌う。
足下に広がる朱い花々を踏みしめて。