10話 使用人という家族
六年前、ナターシャは別の主に仕えていた。
主の名はカリナ・ローディーといい、王都ではどんな男でも虜にするとされる美貌の持ち主として名の知れた上位貴族の令嬢だ。
狼人族の白銀の狼耳と尻尾を持ち、慈悲深く聡明な女性であると男性貴族から人気があった。
しかしそれは表向きの話で、他人の目がなくなると本性を表す。
そんな彼女の付き人をさせられている気弱なナターシャはプレッシャーを与えられ、失敗すれば手酷い罰を受けた。
服の上からでは見えないところに鞭の痣が残り、肉体的疲労により動きの鈍くなったナターシャは更に失敗の数を増やしてしまう。
失敗すれば罰を受け、罰によって更に失敗し、また罰を受ける。
負の連鎖に囚われた彼女を救うものはない。
孤児であるナターシャの居場所はこの屋敷を出れば何処にもないのだ。
そんなある日、欲をかいたカリナは更なる地位を手に入れるため、ローレンス・ブラッドレーという最上位貴族に縁談を申し込んだ。
冷酷非道の呪われた騎士という噂もあるが、カリナには自信があった。
どんな男でも虜にする美貌を持った自分ならば、彼もまた鼻の下を伸ばして自分の言いなりになるに違いない。
ローレンスからは既に何度も断られているが、諦めずに縁談の手紙を出し続けた甲斐があり、遂に見合いをすることになったのだ。
冷酷非道と噂の騎士の前でナターシャが失敗すれば、すぐにでも首を刎ねるに違いない。
既に精神的にも肉体的にも追い詰められたナターシャが壊れる様を見たい。
そう考えたカリナはその日も彼女を同行させた。
カリナとナターシャがブラッドレー家の屋敷に到着すると、門の前では眼鏡の男性が待機していた。
「カリナ様、ようこそおいでくださいました。私はこの屋敷の使用人、ギルバートと申します。旦那様がお待ちのお部屋までご案内致します。」
堅い印象のギルバートはそれだけ言うと、此方の挨拶を聞くことなく案内の為に歩き始めてしまった。
カリナはそんな彼の冷たい雰囲気に口を開く暇もない。
長い廊下を進んでいくが、彼の他に使用人がいる様子はない。
不思議に思いながらも案内された扉が開くと、そこには黒い長髪に赤い瞳の片方を眼帯で覆った男性が奥のソファに座っていた。
恐らく彼がローレンスなのだろう。
彼は客人に気付きそちらに視線を向ける。
目が合うだけで凍てつく様な威圧を感じ、ナターシャは思わず萎縮した。
一方カリナが怯んだ様子はなく、今日の為に誂えたドレスに身を包み寧ろ自信に溢れていた。
ギルバートの声でカリナはローレンスの向かいのソファに座り、その左後ろにナターシャが控えた。
沈黙の中で彼はワゴンに乗せていたティーセットをカリナの前に置いた。
そこで初めに沈黙を破ったのはローレンスだった。
「さて、では早速だが本題について話そう。私の噂は知っているだろうか。」
本来、まずは此処まで足を運んでもらったことについて礼を述べなければならない。
そういったところを見る限り、噂は本当だったようだ。
普段から側で仕えているギルバートでさえ、彼の変わりように小さく肩を震わせた。
今のローレンスにはいつもの穏やかさがどこにもない。
カリナはぴくりと眉を動かしたが、ローレンスの言葉にふわりと笑みを浮かべて答える。
「ええ、存じておりますわ。けれど、私には貴方が冷酷な方には思えませんの。私、ローレンス様がパーティーに参加されているところを何度かお見かけしていますのよ。寡黙でお美しいそのお姿に、恥ずかしながら一目惚れをしてしまったのです。」
その言葉を聞いたローレンスはゆっくりと瞬きをすると、次の瞬間に口元を緩ませる。
彼は美しくも不気味な笑みを貼り付け、肘掛けに頬杖をついて足を組んだ。
「ほう、貴女は面白いことを言うな。私に対してそんなことを言えるとは、その目はお飾りか。」
嘲笑う様に言ったローレンスの言葉にカリナは息を呑む。
今までこの笑みで多くの男性を虜にしてきたのだ。
それなのに彼の態度は相変わらず冷たい。
プライドは傷付いたが、次の手に移ろうと考えた。
「ローレンス様、あまり意地悪を言わないでくださいな。私は本気ですのよ?そうそう、今日はお土産を持って参りましたの。ナターシャ、此処へ。」
ナターシャは彼女の指示に従って、手に持っていたマドレーヌの入った籠をローレンスへ渡そうと歩み出した。
「は、はい……あっ!」
しかしこれまでの彼の態度に怯んでいたナターシャは、緊張から上手く身体が動かず足が縺れてしまった。
声を上げた時には既に前屈みになっており、自身の運命を悟ったナターシャは無意識に目を閉じて倒れ込んだ。
衝撃に備えて身を固くした直後、ふわりと何かに包まれる感触がした。
それどころか何かの上に乗っている気がする。
不思議に思ったナターシャがゆっくりと目を開けると、目の前にローレンスの顔があった。
彼は一瞬驚いた顔をし、此方を見上げている。
背後からはカリナとギルバートが心配の声を上げた。
状況を理解したナターシャは慌てて彼の上から飛び退いた。
「ふぇあっ!?も、申し訳御座いません!とんだご無礼を……あの、お怪我はありませんか!?」
彼女が退いたことでローレンスはゆっくりと起き上がる。
彼を怒らせてしまったと思い首を斬られると悟ったナターシャは目に涙を浮かべたが、彼は此方に歩み寄って尋ねてきた。
「私はどうということはない。貴女こそ怪我はないだろうか。せっかく庇ってやったというのに、傷があっては私の労力が水の泡だ。診せてみろ。」
思いもよらない言葉に唖然としたナターシャは、服の袖を捲られてしまった。
そこには明らかにぶつけただけではできない痣がいくつか残っていた。
それを見たローレンスが眉間に皺を寄せたことに気付き、ナターシャは焦った様子で袖を下ろした。
「だ、大丈夫です…!傷なんてありませんから!」
その時にローレンスは気付いた。
カリナの視線、古いものと思われる痣、何かに怯える彼女。
これは訳がありそうだ。
「見えていないとでも思っているのか。私が負わせた怪我だ。治療してやるから動くな。」
そう、これはあくまでローレンスが負わせた怪我。
そういうことにして気付かないふりをした。
痣のことが気付かれたと思っていたカリナとナターシャだったが、ローレンスの言葉に胸を撫で下ろした。
ナターシャの腕に彼の手が触れると全身が淡い光に包まれ、これまで受けた傷が全て癒されていく。
「あ、ありがとう御座います…。」
痣は治ったが、これではまたカリナに罰せられてしまう。
ナターシャは俯きながら震える手でマドレーヌの入った籠を持って立ち竦んでいた。
するとローレンスが自然と手を伸ばし籠を受け取った。
「…カリナ嬢、礼を言う。貴女の気持ちは理解した。今日は一度お引き取り願いたい。明日、同じ時間に此処で貴女を待っている。」
その言葉にカリナの視線はナターシャからローレンスへと向けられ、嬉しそうな笑みを浮かべた。
「まあ!それは嬉しゅう御座います。良いお返事を期待しておりますわ。」
ナターシャは自分のせいで失敗したと思っていたが、どういうわけか上手くいっていることを不思議に思いながらも少しは罰を軽くしてもらえそうだと安堵した。
満足げにカリナが去っていく中、ナターシャはその後を不安そうな面持ちで追う。
彼女達が屋敷を去ったのを確認すると、ローレンスは普段の調子に戻った。
ローレンスは受け取ったいくつかのマドレーヌのうちの一つをギルバートに差し出しながら言う。
「ギル、怖がらせて悪かったね。彼女が居る間は明日も同じ態度になるけれど、貴方は気にせずいつも通り優秀な執事でいてくれ。それから、今日中に一つ部屋を作ろう。」
「はい、旦那様。」
恐らく二人の考えることは同じだ。
ローレンスはマドレーヌを一口齧ってルビーを妖しく光らせる。
「彼女にノブレス・オブリージュを教えてあげよう。」
カリナは自身の屋敷に着いてから浮かれていた。
きっとマドレーヌはあの方の好物だったのだろう。
ナターシャの不敬に対する態度は腑に落ちなかったが、今はそんな事を気にしている場合ではない。
カリナには彼女にかまけている時間などないのだ。
明日のドレスは何を着ようか、嫁入り道具は何を持って行くべきだろうか。
あと半日ではやる事が多過ぎる。
ナターシャへの罰は夕食を抜くだけに留めよう。
本当なら明日の朝食も抜きたいところだが、二食抜くと彼女は使い物にならない。
そう考えたカリナはナターシャに肉体的な罰を与えることはなく、明日の準備へと時間を割いた。
ナターシャは夕食の時間を労働に回され、空腹を堪えつつも仕事をしながら安堵していた。
せっかくあの方に治していただいたというのに、また傷を作っては申し訳が立たない。
それに身体が知ってしまった。
突き刺す様な冷たさを纏う彼の腕に包まれる暖かさを。
もうあの鞭の痛みには、耐えられそうにない。
翌日、カリナはいつもより上機嫌な様子で馬車に乗り込んだ。
彼らに不審がられない為にも、ナターシャも一応は付き人として連れて来ている。
ブラッドレー家の門前に馬車を停止させると、そこには昨日と同じくギルバートが出迎えの為に待機していた。
彼の態度は変わっていない。
それがこれから主になる者への態度か、と思いながらカリナは彼の後に続いて客間へ向かった。
ナターシャはそんな彼女の心境の変化を感じ取っている。
落ち着かない様子で二人の後を追った。
扉の向こうへギルバートが声をかけると、すぐに返事が返ってきた。
いよいよ時が来ると思ったカリナは、早まる気持ちを抑えて客間へ足を踏み入れた。
すると昨日と同じソファにローレンスが座っていた。
「昨日の今日で申し訳ない。時間が惜しいのでね。」
相変わらず無愛想な彼の言葉だが、昨日は礼も言わなかったことからすれば大きな変化だ。
カリナはローレンスが自分を選ぶと確信した。
「とんでも御座いませんわ、私も早くお会いしたくて仕方ありませんでしたの。」
ふわりと笑みを作って見せるが、ローレンスの表情は少しも変わらない。
ローレンスは彼女に向かいのソファへ座るよう促す。
ナターシャも彼女の背後へ控えようとするが、それをギルバートが制止し自身の隣へ立たせた。
「私は貴女の気持ちを理解した。使用人は彼だけだから、大した部屋は用意していないけれど。」
「では、私の縁談を受け入れてくださるのですね?」
「あぁ、受け入れてやってもいい。ただ…。」
カリナがローレンスへ期待の眼差しを向ける中、彼は頭上に円状の黒い空間を作るとそこから数枚の紙を降らせ目の前に置いた。
カリナは何の真似かとその紙に視線を向ける。
すると見える文字を目で追う彼女の顔色が変わった。
「ローレンス様、これは一体何ですの…?」
ローレンスの鋭い視線に射抜かれたカリナは、その瞳に拘束されるかの様に身体が動かなくなった。
その紙にはカリナのこれまでの悪行とナターシャへの不当な扱いについて記されていた。
「とぼけるな。私は王の剣であり盾だ。罪人を妻に迎えることはできない。」
彼の辻褄が合わない言葉にカリナは混乱した。
確かに書類に記されたことは事実だが、一体この情報はどこから漏れたのか。
罪人である自分を妻に迎えないならば、彼は誰の部屋を用意したというのだろうか。
情報の出処を真っ先に疑われたのはナターシャだ。
カリナは彼女をキッと睨みつける。
ナターシャは怯えて肩を震わせつつ、自分が密告者ではないと訴える様に勢いよく首を横に振った。
その様子を見たローレンスはギルバートに目配せをし、指示を受けた彼はナターシャを庇う様に背に隠した。
「情報を売ったのは彼女ではない。私は優秀な情報屋を雇っているのでね。その者に調べさせたのだ。…さて、カリナ嬢、取引をしよう。この書類を王に見せれば貴女の首は一瞬で飛ぶ。しかし、まだ若いのに死にたくはないだろう。」
カリナは目の前に座る悪魔に縋る様な眼差しで必死に助けを乞い、平静を保てずに取り乱した。
「ええ、何でも受け入れます!命だけは…どうか、命だけは…!」
彼女の必死な命乞いにローレンスは口角を上げた。
「私に貴女のナターシャを寄越せ。そして今後、彼女への一切の干渉を認めない。その代わり、貴女の罪は首の皮一枚繋がる程度には軽くしてやろう。」
そこでようやくカリナは冷静さを欠いたことを後悔した。
彼に対して拒否権があるとも思っていないが、交渉の余地はあったはずだ。
罪を軽くするとはいえ、貴族としてはまず生きていけなくなるだろう。
自分の世話は自分でするしかなくなってしまう。
彼の口ぶりからしてナターシャは恐らく生かされる。
それなのに自分より上の立場になるのは気に食わない。
カリナは現実とプライド、屈辱や妬みで葛藤した。
貴族として生きられないならば、死んだ方がマシだろう。
生きる選択肢も、それを選ばなくとも、ナターシャを盗られてしまう。
ならば今、この手で道連れにしてしまおう。
「…ええ、わかりましたわ。取引に応じます。ただ、最後に彼女に謝っておかなくてはなりませんね。私のしてきたことは許されないでしょうけど…。」
そう言ったカリナがソファから立ち上がると、ナターシャの方へと歩み寄った。
ナターシャは彼女の急な変わりように驚いたが、そのままの意味として言葉を受け取ったようだ。
ローレンスとギルバートは彼女の行動に警戒しつつも、二人の様子を見守っていた。
「か、カリナ様、あの…。」
「いいのよ、ナターシャ。今まで私のわがままによく付き合ってくれました。最後にもう一つだけ、わがままを言ってもいいかしら?」
反省の意思を見せるカリナにナターシャは胸を痛め、何と声をかけようかと迷ったがカリナはそれを遮った。
彼女のもう一つのわがまま、それは…。
「私と一緒に死んで!」
その言葉と同時に隠し持っていたナイフをナターシャへ向けて振り上げた。
ナターシャは目の前に迫る刃物に驚いて身体が動かず、手を伸ばしてせめて急所への攻撃を避けようとした。
しかしそこで彼女の前にギルバートが立ち塞がった。
「ぐっ…!」
ギルバートは苦悶により表情を歪め、ナイフの突き刺さった胸元を押さえてその場に跪いた。
ナターシャは突然のことに唖然としている。
カリナでさえも彼が前に出るとは思っておらず、望まない相手を傷付けた罪悪感で放心状態になった。
その隙にローレンスは魔法で素早くカリナを拘束し、安全を確保したところでギルバートに駆け寄った。
「ギル!ギル、よく彼女を庇ってくれた。すぐに治療しよう。私がもっと早く動いていれば、こんなことには…。」
普段のローレンスは誰かが失敗しようと、少しばかり怪我をしようと、顔色一つ変えず余裕で対処していた。
しかし使用人という大切な家族を得た彼は、初めて目の当たりにした家族の危機に、らしくもなく慌てている。
治療の為にナイフを引き抜いて、溢れ出る血を止めるように傷口に手をあて治癒魔法をかけた。
すぐに傷口が塞がり命に別状はなかったが、その表情には余裕がなく目に涙を溜めていた。
あれほど冷酷だった彼のギルバートへ向ける思いに気付いたカリナは、自身の犯した罪の重さに押し潰される様に床にへたり込んだ。
ローレンスが冷静でないと察したギルバートは、落ち着かせようと肩を軽く叩いた。
「旦那様…私は大丈夫です。それよりカリナ嬢の処罰を。」
「……あぁ、わかってる。わかってるよ。」
ギルバートの言葉に判断を煽られたローレンスは怒りに震える手を握り締めると立ち上がり、殺意を込めた瞳でカリナを見下ろした。
燃え盛る様な何かが胸の内で暴れ回る。
彼の感情に呼応する様に、黒く禍々しいオーラを纏う。
自身が激情に駆られていると気付いたローレンスは深く息を吐き出し落ち着きを取り戻したが、オーラが収まることはなかった。
「カリナ、貴女はやり過ぎた。王の意思に背く行動、彼女への不当な扱い、そして私の大切なものを殺しかけた。本来、貴族である我々には王の意思に従い、庶民の声に耳を傾ける義務がある。それを蔑ろにした罪、その命一つで償い切れると思うなよ。死をも超える苦痛を覚悟するがいい。」
その後、魔界でカリナの姿を見た者はいない。
噂によれば、誰の目にも留まらぬ辺境の地で一人、静かに暮らしているのだとか。
あくまでローレンスが流した噂では、の話だ。
彼女の屋敷に残された使用人達は、ナターシャの申し出でローレンスの屋敷へ移ることになった。
初めは怯えていた彼らだったが、数ヶ月経つ頃にはローレンスへの忠誠心が芽生えつつあった。
彼らに影響を与えたのはギルバートとナターシャだ。
ローレンスはいずれ使用人達の信頼を得られればそれでいいと思っていたが、二人はそれに納得しなかった。
ローレンスに仕えていたギルバートは段々と主に影響されて行動理念が似てきている。
ナターシャはそんなローレンスの本質を見抜いた。
それからというもの、彼女は本来の使用人としての能力を発揮し始めたのか積極的に仕事に取り掛かるようになった。