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宝くじ

作者: 幽幻猿

 T村という名前は地図上にはもうない。平成の大合併の際に、隣接する二町と共にC市となったからだ。故に、現在ではそれより前から存在する公的施設にのみ、Tの文字列を見ることができる。T小学校はまさにそれだ。ただ、近年は過疎化も深刻になってきたから、廃校も時間の問題かも知れないが。

 そうなれば最後に残るのはC市役所T庁か、このT駐在所だろうか。寺林巡査部長は勤務中によくそんなことを考えていた。歳を重ねるうちに、いつしかそういった薄暗い展望ばかりを思い描くようになった。仕事や私生活に不満があるわけではない。寧ろ充実している。駐在所勤務は志願したものであるし、住民たちは寺林のような余所者にも初めから好意的だった。伴侶を持たないのも自らの意思だ。

 ただ、この過疎地に何か新しい風が吹くようなことはないだろう。そういう漠然とした諦めが腹の内に常にあった。閑散としたシャッター街の在りし日の姿を想像することすら、寺林には極めて難しいことだ。


 一月十六日、午前十一時十三分。寺林は窓越しに歩道を歩く人影を確認した。紺色のダウンジャケットを着込んだ青年が、三段に重ねた段ボール箱を台車に乗せて押している。かなり重いのだろう。口から白い息を吐いている。青年は駐在所の前で立ち止まると、一つ深呼吸してから引き戸を開けた。

「すみませェん。これェ、落とし物だと思うんですけどォ」

 青年は明らかに気後れした様子で駐在所の中を覗き込んだ。

「ハイ、ハイ」

 寺林はぎこちなく立ち上がり、やや上ずった声で応答した。青年は首を引っ込めて、押してきた荷物を台車ごと乗り入れる。敷居の段差を越える音が妙に重々しい。これを運んできた為か、青年の額には外気温に似つかわしくない脂汗が滲んでいる。古物商に持ち込むならまだしも、駐在所に届け出に来るには違和感のある出で立ちであった。

 寺林はこの青年と一応の面識がある。確か去年の春に、県道沿いの安アパートに転居してきた男だ。名前は渡井聡介。新卒でC市内の会社に勤めている。巡回連絡の際に訊いたのはこれくらいだ。一度だけしか話していないから、人となりについては全く解らない。しかし、気の弱いタイプなのは間違いなさそうであった。


 渡井は上着をはためかせて身体の熱気を逃がす所作をしてから、寺林に気を遣ったのか慌てて入り口を閉める。

「不法投棄ですかね? テレビとか、電子レンジとか」

 寺林は顎を擦りながら尋ねる。段ボール箱の一つ一つは無地ではあるが、丁度それくらいのサイズだ。落とし物と表現するには些か大仰が過ぎる。親しくしている農家が野菜なんかを入れて寄越すような箱だ。

 捨てる物じゃないですよォ、と渡井は泣きそうな声で言った。

「中身は何ですかね」

 箱の中身が見えないのだから、その質問は至極当然のものだ。ただし、その語気は威圧的で、苛立ちを隠せずにいた。何が寺林をそうさせたのかは本人にも解らない。渡井の間延びした口調も、歯切れの悪さも、良い心証を与えるものではないが、それだけでは臍を曲げる理由にはならない。それでも尚、寺林は渡井がまるで爆弾でも持ち込んだかのような懐疑の目を向けていた。

 渡井は目に見えて萎縮して、右手でもう一方の手首を擦りながら、命乞いでもするような声を出した。

「お、お金ですよォ」

 間抜けな声の、間抜けな答えだ。

 寺林は何かを言おうとして、その口を開けたまま黙ってしまった。目だけを動かして、渡井の顔と段ボール箱とを見比べる。渡井も段ボール箱も、数秒前と何も変わっていない。

金銭が拾得物として届けられるのは、駐在所勤務であれば何の不具合もないことだ。しかし、それは剥き身の状態であるか、財布の場合が殆どだ。ダンボール箱の中に入っていることも、それが相当な重量であることも、届けた人物がこうも煮え切らない態度でいるのも、寺林には初めてのことであった。ダンボールは丈夫でこそあれ、金銭を保管するには不釣り合いな入れ物である。金庫とか、賽銭箱の類がそのまま入っているならそう言うだろうし、落とし物、金という言葉と、眼前の景色が合致しない。

 気分が悪い。

「本当ですって」

 唖然とする寺林を見た渡井が箱に手を掛け、中身を露わにしようとする。寺林はそれに慌てて飛び付き、手で蓋を押さえ付けて制止した。理解の追いつかないままに箱の中身を一方的に見せられては、それがどういうものであれ、寺林は精神的に手酷くやられてしまうと直感したからだ。

「こちらで、確認します」

 寺林は息を呑んでから、恐る恐る一番上の箱に手を伸ばし、蓋をそっと開ける。フラップが擦れる音が妙に大きく聞こえた。

「ウッ」

 寺林はそうする準備をしていたかのように軽く飛び退いてから、渡井の顔を見た。渡井は黙ったまま首を素早く縦に三回振る。寺林はもう一度段ボール箱を覗き込んで、内容物を二、三束手に取ってからまた青年を見て、お金ですよ、と間の抜けたことを言った。

 段ボール箱の中には、一万円札の束が隙間無く並べられていた。寺林が抜き出した部分の下からも肖像が澄まし顔を晒している。

「だからそう言ってるじゃないですかァ」

 渡井は悪さをして叱られた子供のように首を竦めた。

「これ、全部、下までこうですか?」

「そ、そこまで見てないですよォ。あんまり触らない方が良いでしょう? 駐在さんが確認してくださいよォ」

 渡井が余りにも情けない声を発したからか、寺林は急速に興奮が冷めるのを感じた。冷静になるというよりは思考そのもののシャットアウトに近いが、何にせよ二人して狼狽していても仕方が無いという義務感が寺林を律した。

 寺林は分解した腕時計に歯車を嵌めるような慎重さで札束を箱に戻して、思案を巡らせる。状況を考えて、一つ一つ飲み込んでいくしかない。

 まず、この非現実的な質量は本物の貨幣なのか。駐在所にある設備だけでは判別できないが、偽物である場合は通貨偽造、犯罪だ。警察で処理するべき事件だ。本物である場合、これもまた何かしらの事件性を孕んでいると考えるのが無難だ。おおよそ警察の管轄になる。すると第一の前提として、これは全く手に負えない未知の物体ではなく、この駐在所にあるのも何ら不自然ではないものということだ。

 そうであるならば、注視しなければならないのはこの段ボール箱がここに持ち込まれるまでの経緯であって、つまり、寺林にとって未だ不明瞭な異物は渡井の方なのである。何故、この青年がここまでの大金を携えて片田舎の駐在所に現れたのかを、信用に足るものではないだろうが、本人の口から聞き出さなければならない。

 寺林は立てかけてあったパイプ椅子を立て渡井を座らせると、取得物件預り書の台紙を引き出しから取り出し、それに記入するよう促した。その間に、固定電話の受話器を手に取り、警察署に繋いで現状を端的に伝える。相手は案の定困惑した様子であったが、駐在所まで応援を寄越してくれることになった。

 雑音の混じった向こうの声が、寺林には妙に遠くに聞こえた。

 

「渡井さん。アレを落とし物だと仰っていましたね。どういうことか説明していただけますか?」

 台紙を受け取った寺林が渡井を見遣る。把握していた通り、大金を持つには似つかわしくない経歴だ。あれほどの紙幣に見合う人物がいるのか甚だ疑問ではあるが。

 渡井は肩を窄めてはいるが、先程までよりは落ち着いたらしい。

「どういうことと言われましても……。道端にあの段ボール箱が落ちてたんですよォ」

「落ちてた」

 寺林は渡井を睨み付ける。

「も、もしかしてェ、信じてもらえませんか? いや、僕も未だ信じられないですけれども」

「申し訳ない。私は貴方に限らず、のっけから他人を信用したりしません。ですが貴方の証言もまた必要なのです」

 ご協力をお願いします、と寺林は頭を下げる。

「それでですね、まずアレを見つけたときの状況を説明して欲しいんです」

「はァ。えっと、県道をずっと真っ直ぐあっちに進んで、右手に地区の案内板があるじゃないですか。自販機が並んでるところ。それで、その向かいに伸びる農道があるでしょ? そこの藪になってる辺りの真ん前に落ちてたんですよ」

「ちょっと待ってください」

 寺林は手を挙げて制止する仕草をした。引き出しの底から村内地図を取り出して机の上に広げ、渡井の言ったことを復唱しながら、キャップを付けたままのボールペンを地図上で走らせる。

「県道を真っ直ぐ行って……団地も小学校のグラウンド横も通り過ぎて、まだ真っ直ぐ。ああ、案内板って住宅案内板のことですか。ここの歩道が少し広くなっている場所ですね。そこの向かいの農道の……なんです?」

 地図をなぞりながら、寺林の脳内に浮かぶ景色がより写実的なものになっていく。ただし、農道に入るとその巡回頻度の低さからイメージがぼやけてしまう。

「ほら、ここを折れて農道に入るでしょ? それでこの辺に道祖神サマがあって。小正月にどんど焼きをしたところ。それで、その隣がもう藪みたいに草ボーボーになってるンです。冬だから枯れてますけど」

 渡井が指で地図をなぞりながら情報を足していく。道祖神のことは何となく記憶にある。人の頭くらいの大きさの丸い石が台座の上に載っているのだ。

「それで、その藪にあったんですか? その、あの大荷物が」

「藪の前ですね。僕、休日はジョギング……というよりは散歩ですかねェ。まあ、歩くのが日課なんですよ。車社会なものだから、偶には身体を動かさないとって。そこの農道は散歩コースなわけです。歩いてたら道路に段ボール箱が転がってて」

 車が通ろうとしたら邪魔だったでしょうねえと、渡井は苦笑した。それが全く以て緊張感に欠ける表情であったので、寺林は神経を逆撫でされたような、それでいて気を許してしまいそうな、複雑な感覚に捕らわれた。

「道の端っこに寄せようかと思ったんですけどね。えらい重いなあと思って中覗いてみたら、ほら」

 あれですよ、と段ボール箱を指差す。

「何キロあるんですかねェ。あ、いや、単位が違いますか」

箱の中身は貨幣であり日本円なのだが、その規模が現実離れし過ぎている。渡井はその一点によって、あれは間違いなく金ではあるが、それが経済における血液であるという事実が依然として飲み込めていないようであった。

「大変なことじゃァないですか。どういう事情かは知りませんがね。道端に転がしといちゃァ駄目だと思って」

「その場で通報しなかったのは何故ですか?」

 寺林が渡井の発言を遮る。

 渡井の持ち込んだ台車には土汚れが付いている。段ボール箱があったという場所を鑑みて、畑仕事で用いられているものであると察しが付く。道祖神の辺りは消火栓と並んで小さい物置があるから、そこから拝借したのだろう。使用窃盗は罪に問われない。

 本題から逸れるわけにはいかない。

「スマホ、持ってますよね? 態々持ってきたのは何故です?」

「だって、信じてくれないと思ってェ」

「は」

 言い分として成り立っていない。あんな大金を一キロ弱運んでくるなどというのは、頼る当てがなくなってから取る強硬手段だ。

 だが、寺林は何も言えなかった。

「僕、パニクちゃって。警察に信じてもらえないかもしれないぞ、誰か他の人に見つかったらもっと大騒ぎになるぞって」

現に、寺林はダンボール箱の中身を聞けば混乱し、それを目の当たりにした時は本能的な恐怖すら感じた。冷静に状況の分析をしているつもりだが、そうなるまでに時間を要したのも事実だ。それに、例え渡井が電話で法外な金銭が落ちていると通報しても、まず悪戯を疑うであろうことは、寺林にも解っていた。直々に持ち込まれた今ですら、渡井は疑われているのだが。

渡井が気恥ずかしそうに頭を掻くのを、寺林は暫しの間睨付けていた。話の筋が全く通っていないわけではないが、荒唐無稽と言うほかに無い。しかし、それはどのような筋書きであったとしても同じであるのも事実であった。誰かの財産であろうが、どこかの銀行なり金庫から強奪してようが、空から降ってきていようが変わらない。どういった経緯であろうと、渡井が怪しいのも、また変わらない。しかし、これ以上詰問を続けても何かが判明するようなこともない気がした。行き止まりだ。

 寺林は壁掛け時計を見る。本署に応援を要請してから十五分。まだ来ない。


「そうだ。そこから一枚でもネコババしちゃいませんよね? 後々面倒になりますよ」

 寺林は思い出したように言った。見るからに小心な渡井が、そういった盗みを働いた上で駐在所に現れるようにも思えなかったが、念の為に所持品を検査する。渡井の長財布に入っていた紙幣は五千円札が三枚と千円札が六枚で、一万円札は無かった。仮にあったとしても、それだけで容疑を掛けるわけにもいかないが、一応記録しておく。本来の持ち主が現れたときに、必要になるだろう。

 持ち主と言えば、あれは一体どんな人物が所持していたものなのか。寺林は思考を巡らせる。個人の財産というよりも、ある程度の団体の資金であると考えた方が自然だが、しかし、それほどまでの金銭を紛失したとか、盗難されたとか、その類の事件が起きたということを寺林は認知していない。あれば大事件だ。だというのに、警察に何の届け出もされていないし、メディアが報道することもない。例え反社会的な団体のものだったとしても、金を紛失した、盗まれたのなら警察を頼る。寧ろそういう手合いの方が金を繊細に取り扱う。少なくとも、片田舎の農道に現金で転がしておくなどという真似はしない。否、これに関しては誰であってももしないだろう。

「これ、幾らくらい入ってるんですかねェ」

 渡井がぼやいた。寺林の感覚でも、軽く億は超える量の札束――無論、本物であればの話だが――であるのは解るが、それだけだ。

寺林は立ち上がり、段ボール箱の蓋を開ける。一万円札の肖像が三カケ四で顔を並べている。辟易しつつ、その束を一つ取り出し、箱の側面に這わせ、全体の厚さを大まかに測る。

「二十九、三十束分くらいか」

十二カケ三十で、三百六十。この一束が百万円であると仮定すると、三億六千万。厚さの測り損ないを加味しても、三億以上は確実にある。

 それで、その箱が三つ。

「十億……」

 うへェ、と渡井が漏らした。

「え、これって、もし、もしもですよ」

 その先を聞かずとも、寺林の脳裏には渡井の言わんとすることが過ぎっていた。この落とし物が本当に十億円であった場合の、今後の話だ。

 落とし主が現れたとき、拾得者である渡井はそのいくらかを受け取る権利がある。最大で二割、つまり、眼前のそれから二割なので、約二億円。

 そして、もし落とし主が現れなかったなら、三ヶ月の期限を過ぎれば、それはまるごと渡井のものとなる。

 馬鹿げている。

 散歩のついでで得られて良い金額ではない。

 あくまで本物であればの話なのだが、現状調べようもないのだから、そこを疑っても不毛だ。現実逃避に過ぎない。

「現実が一番巫山戯てるんじゃあ……どうしようもない」

「僕も信じられませんよ」

 寺林は椅子に座り直して項垂れて深い溜息を吐いた。

「宝くじ、宝くじみたいだなあ」

 思わず、口から嘆声が漏れ出した。丁度、去年末の宝くじの一等と前後賞を足したそのくらいの額が、県内の売り場から出たと聞いた覚えがある。その時は随分と身近で起きたことなのに、まるで別の世界の話のように聞こえた。それと同じように、この青年は幸運にも大金を拾得し、誠実にも警察に届けたことで、それの一部ないし全部を受け取る権利を得たのだ。

 やはり、おかしいのは渡井なのだ。彼は一般に推奨されている通りに、道端で金銭を拾い、それを駐在所に届けただけの一市民であるのに、その行動全てが常軌を逸している。しかし、寺林にはその確たる不信感が、警察官としての見解なのか、個々人としての僻みによるものなのか、もはや自分では区別することができなかった。

 羨望か、嫉妬か、やるせなさか、或いは、未だ強く残る渡井への猜疑心か、そういった感情が綯い交ぜとなって、寺林の頭に重くのし掛かった。


 だから、宝くじ、と聞いた渡井の身体が小さく跳ねたのを見逃した。


「もう夢を見る歳でもないし、宝くじなんて暫く買ってないけどね。君は何と言うか……運が良いよ」

「夢なんか見なくても、宝くじは買いますよォ。もし当たったら、なんて考えもしませんけど、恒例行事って感じで」

 どの口が言うか、と寺林は恨めしそうに渡井を睨め付ける。

「僕、もし落とし主が現れたらお礼は断りますよ」

 怖いったらないです、と渡井はこれまで聞いたことのない、冷たい口調でそう言った。


 応援は、まだ来ない。

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