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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

出所不明の友情

作者: 柏望

本当はアングラ杯に出すつもりだった。

 理解しがたいものは案外と身近にのびのびとした姿で存在している。


 紅平にとっての理解しがたいものは通学路から少し外れた雑居ビルに存在していた。段が小さく急勾配な階段を転ばないようにゆっくり登って、天井に近い小窓から入る日光と薄暗い非常階段への誘導灯しか灯りのない廊下を渡る。廊下は雑然と荷物が積まれているから転ばないようにするには目を凝らして進む必要があった。


 がらり。


 慎重に進んでも体のどこかが積まれていた何かに当たって音が出る。日が出ている間は平気だったが、夜闇の中で無人の廊下に響き渡る音は紅平にとって悲鳴を漏らしてしまうほど不気味なものだった。


「いい加減掃除させろよなまったく」


 目的地の部屋を事務所として借りている呉内も管理会社に話はつけてあると言っていた。自分の家や部屋の話ではないから余計なお世話なのはわかっている。それでも人が通る場所に物が散乱しているのは良くないと考えているし、いつか来るかもしれない同じ階の貸借人の為に廊下は綺麗にしておくべきだとも思っている。


 夜の廊下で悲鳴を上げてしまったことを呉内に馬鹿にされただけが理由ではない。


 だから今日こそは絶対に廊下の掃除を呑ませてやると心に決めていた。会話の主導権を握られる前に開口一番でつつきまわして間髪入れずにうんと言わせなくてはならない。紅平にとって呉内は油断も隙もない男なのだから。


 CMやフリーミュージックを切り張りして作られた音楽がドア越しから聞こえる。呉内がよく聞いている音楽だから多分中にいるはずだ。紅平は深呼吸を繰り返して階段で上がった息を鎮めるとドアを一気に開いた。


「な」


 部屋の中は辺り一面に煙が立ち込めている。体中に鳥肌が立つなかで紅平は必死に考える。


 真っ先に火事を疑ったが火の気はどこにもない。煙はどこか甘い香りがしているけれど深く吸い込むと頭がぼんやりとする感覚がある。煙のどこかハーブを思わせるような香りに理由はないがはっきりと紅平は拒否感を覚えた。


 煙は部屋に充満しているが熱の気配はどこにも感じない。むしろ空気そのものはどこかしっとりとしている。紅平は確信こそしていないがこの煙は殺虫剤だろうと断定した。水を入れて床に置くタイプの殺虫材を使ったことはなかったが、使っている最中はこうなるのかと一人合点したからだ。


 呉内は自称医学部なので帰ってきたら喚起くらいはやるだろう。部屋は見回しても相変わらず妙に散らかったままで、言ってくれれば片づけたのにと口にこそ出さなかったが心の中でそう漏らした。


 せっかく使うのだったら言ってくれれば少しくらい片づけをしたのにと思ったが、後の祭りなのでドアノブを握る。ドアノブが鈍い音を立てて回転したときに視界の端を何かが動いた。


 呉内が椅子の上でぐったりとしている。驚いているのか心配しているのか紅平自身でもよくわからない悲鳴が漏れた。なんでそんなところにいるのか。まだ意識はあるのか。そもそも息をしているのか。煙を吸ってしまうから大きな声は出せないのでとりあえず息を確認しようと近づけた顔に白い煙がもうと吐きかけられた。


「きんきん頭に響くんだよ。こーへーの声は。本当に声変わりしてんのか」


「はあ」


 色々な心配をさせて返した言葉がそれかとか。低い身長や幼さが抜けない少女染みた顔立ちと並んで気にしてるところをド直球で指摘されたとか。悔しいやらムカつくやらで紅平の顔は紅潮し、目の端からは涙が滲んでいた。


「そんな顔すんなよ。俺はこーへーの声好きなんだぜ。ほら吸うか」


 ある種の薬効をもたらす草を燻して出した煙とある種の薬効をもたらす菌糸類が入っているハーブティーの作用は呉内という男に素直さと思いやりを与えた。同時に呉内という男の元からあまり締まっていない頭のネジも緩めてしまったのだが。




「あーあ。勿体ね」


「なにが勿体ないだバカ。そんなやましいもの持ってて警察に突き出されないだけ感謝しろ」


「人聞き悪いこと言うなよ。まだ違法じゃないぜ」


 窓を開けた紅平は制服の上着をバサバサと振って事務所の空気を必死に入れ替えている。薬理を把握し適量で使用しているのだから、呉内にとってはドラッグストアで素人が買って使う薬の方がよほど胡散臭い。紅平も呉内から教えられてそれなりに納得してはいるが、それはそれだ。


「世の中。マジでやましいもんは案外知られてないんだけどな」


「なんか言ったか」


「ベーつにい」


 あえて音を立ててハーブティーを啜るが紅平にはただの行儀の悪い仕草にしか見えないのだろう。すぐ後ろで紅平が言うようないかがわしいことをしているのに止めようともしないのは紅平がそういうことに興味も知識もないからか。自分が紅平の予想以上にダメな男だからか。そのどちらであっても紅平の態度が面白いので呉内はそのどちらでもあるようにと祈りを込めてカップの残りを飲み干した。


 部屋に響く音楽と紅平の説教が混ざり合った独特のグルーヴを呉内は漂う。ぼんやりとした多幸感を味わっているとなぜだか紅平はいじけだした。どうせ僕なんてとしょぼくれ始めた紅平を励まそうと呉内は口を開いたが、ある種の薬効をもたらす菌糸類が入っているハーブティーの作用は呉内という男の頭のネジを外してしまっていた。


「安心しろって。お前さんにもいいところはたくさんあるさ。ちいと意味は違うが無くて七癖とか聞いたことくらいあるだろ」


「ど、どこが」


「馬鹿で単純で融通が利かなくてどんくさくて思い込み激しくてすぐ調子乗るところだ。あとお前さんが自分で嫌ってるとこ全部。ほらちゃんと7つあるじゃねえか」


「どこがだ。バカア」


 こんなことのないよう変なもの全部捨ててやると捨て台詞を吐いて紅平は部屋の奥にある倉庫へと走っていった。確かに紅平が変なもの扱いしそうなものは仕舞ってある。今は鍵もかけていない。だが入るなら静かに入ってほしいし、できることなら入って欲しくはない。


 部屋に入っていく紅平を呉内は止めようとしたが不思議なキノコの力によってふらついた足取りで追いつくのは難しかった。仕方がないので紅平用に取っておいてあるベタ甘いコーヒーの缶を開けることにする。


今度は声も出ないほど驚いたに違いないだろうから。


 


 紅平が入った倉庫には赤い布で巻かれた丸太のようなものがベッドに置かれていた。丸太にはケーブルや管が繋がっていて辿っていくと幾つものモニターが付いた機械にたどり着く。モニターには波形や数字が出ていて何かの実験をしているようにも見えるが、丸太に続いている機械もモニターに出ている波形も紅平には見たことがあるものだった。


「これ」


 続く言葉が喉から出てこない。この瞬間、紅平はおぞましいものを始めてこの目で見たのだから。ここまでは呉内の予想通りだったが最後の一手だけ紅平は呉内の予想を裏切った。


 紅平は逃げ出さなかった。




 音を立てないようにそっとドアを閉めると紅平は呉内に向き直る。


「あの人はなんだ」


「なんだってそりゃ預かりもんだよ。そっから先は守秘義務がめんどいからパスで」


「守秘義務ってあんなのすぐに病院に」


「預けられるような奴じゃないから俺がやってんだよ」


 呉内は錠剤を幾つか噛んで飲み干すと紅平に缶コーヒーを差し出した。開けたんだから呑めという無言の圧力を感じて紅平はおとなしく椅子に座って話を聞くことにする。面白半分とはいえ紅平は呉内に助けられて、それが出会いになって今もここにいる。


 どうしようもない人間だと思うときもあるけれど誰かを助けるときもある。普通の理由じゃ誰かを助けはしないだろうけれど、だからこそ逆に理由を問わず無理難題を貫徹してくれると信じている。


 だから聞いてしまったのは不安を打ち消すためで。結局のところ紅平は呉内を信じたかったのだ。


「ま、見ればわかる通りあれは放っとけばそのうちに死ぬんだ。でも今死なれると困るし、死体が出るともっと困る奴がいる。その割には病院に運べない後ろ暗い奴だからぁ預かり先として俺が選ばれたわけだ。ここまではいいな」


 紅平は頷いた。んじゃ、続けますか。と告げて呉内は手巻きのタバコに火をつける。スパイスを直接目や鼻に塗りつけられるような刺激のある香りと煙が部屋を漂い始めるが紅平は気にはしない。


「俺としても悪い話じゃない。経費はたっぷり貰ってるし、おあしもたんまりだ。これは初めて言うと思うんだが、俺はこれからすげー腕の立つ宇宙レベル名医になるつもりなのよ。で、経験積みたいんで今の内から弄れる生きた人間って貴重なわけ。死んだ人間切って繫げてじゃどうしても限界があんだよね」


「じゃあ。アンタはあの人を助けてくれるんだな」


「いや別に」


 呉内は紅平が自分を輝いた目で見つめているのに気づいていたからはっきりと否定した。自分を立派な人間だと思おうとしている。誰かを救おうとしている気高い人間と認識しつつある。面白半分で関わって、結果的には助けてしまったこの少年が自分のことを見立て通りだったと期待を寄せた表情で見てくる。


 はっきり言ってしまえば面白くない。信頼や尊敬を向けられるのは本当に医者になってからで良いからだ。信頼や尊敬を向けられるような振る舞いを紅平で試すのは呉内の選択肢にはない。


「別に死んだっていいんだよ。俺は好き勝手弄れる生身が欲しいだけなんだから」


 紅平が自分に向ける殺意と錯覚するほどの憤怒は呉内には何より最上の刺激だった。走り出して通報するほど大人になってはいない。このまま見過ごすほど愚かではないし、見逃す臆病者でもないだろう。


 待ち構えていた紅平の感情の噴出に呉内は予想を裏切られた。




「こんにちは、紅平です。今日は歯磨きができます。久しぶりですよね。すっきりしましょう」


 紅平は明るい声でそう告げる。遊び半分みたいな口ぶりだけれど、呉内はベッドにいる名前もわからない誰かの治療はしっかりやっているらしい。


 呉内を手伝いたいわけではないし、呉内を信用しているわけでもない。目の前で苦しんでいる人がいて自分にやれることがあるならやるべきだと考えた。だから呉内の指示に従って看護を任せてもらうことにした。


 来るたびに様子がすこしずつ回復に向かっているのがわかる。血や体液がこびりついて赤黒く固まった包帯は徐々に白く柔らかい清潔なものになっていった。薬剤や血液を投入するための針も数本に減っているし、顔の歪みや骨を矯正するためのギプスももう少しで外せるらしい。


 紅平は呉内に頼まれるまま雑用をこなす中で病室を静かに掃除したり、なるべく楽しい言葉で語りかけたりするようにして患者に心地よく過ごしてもらえるような環境を心掛けるようにした。その一環として歯磨きを買って出た。呉内のような野蛮人よりは自分のほうが安心して歯磨きをしてもらえるだろうと考えたからだ。


「おう、意外に手際よくやってるじゃんか」


「うっるさいな。どうせお前が無駄に怖がらせるようなことしてるんだろ。僕はそんなことしないしさせないんだからな」


「お前さん、警察目指すより保育士とか看護師とかの方が向いてんじゃねえの」


 相手にするだけ腹が立つし、今はこの人に向き合うべき時間だ。喉につまらないように顔を横に向けてジェルを歯や歯茎に塗る。傷をつけたり、不快感を与えないようにゆっくりと拭き取る。口の衛生環境を保つようにすれば感染のリスクも減るし、物を食べられるようになったときに備えて刺激を与えて慣らす訓練にもなる。


「驚かせてごめんなさい。これから歯を磨くのは僕だから安心してくださいね」


 ギプスの隙間から覗く薄い唇の中へそっと保湿ジェルを塗ったブラシを挿入する。むせないよう慎重にブラシで歯や歯茎にマッサージを行う。負担にならない程度に満遍なくマッサージを行えば、スポンジのついたブラシで歯や歯茎からはみ出たジェルを拭き取って口腔内の清掃は終わりだ。


 ほう。と紅平の口から息が漏れる。


「だ、大丈夫だよね。僕、ちゃんとできたよな」


「グッジョブだ。いいケツしてたぜ」


 紅平は適当なことを抜かす呉内を病室から追い出して扉を閉める。


 最初の頃はとても怯えていて、触れただけでも震えあがっていたのが今では繋いだ手を握り返してくれる。安心してくれているのだ。


 顔は包帯とギプスで見えないし、声も不意にうめき声のようなものが漏れるだけだ。それでもある種の信頼関係のようなものを築けているはずだと紅平は信じていた。


「物も食べられるようになれば動けるようになるのもすぐだと思います。そうなったらリハビリ、一緒に頑張りましょう。僕も可能な限り手伝うから」


 機械が軋むようなうめき声は潰された喉の再建手術で発生した炎症がなかなか引いていない証だ。何を伝えようとしているのかはわからないけれど何かを伝えようとしているのはわかっている。


 ちゃんと元気になったらその声を満足してもらえるまで聞こうと紅平は決めていた。




 紅平は返されたテストを抱えて雑居ビルの廊下をすいすいと進む。通う内に廊下の地理もわかってきた。通りづらく前が見えにくい嫌がらせみたいな荷物の配置も通う内に覚えてしまったからだ。


 日当代わりに勉強のやり方を教えてくれた呉内に自慢をしたかった。からかわれても別に構わない、今日は気分がとてもいいから。ありがとうって言ってもいいかもしれない。自分でも思った以上の成績だったので。


 珍しく鍵が閉まっていたので開けて入ると呉内が何かを担いで立っていた。


「よう。テストの成績どうだった、結構いいセン行ってたんじゃねえの」


「お前その人を降ろせよ。絶対安静だって言ってたろ」


「ここは病院じゃねえんだぜ」


 紅平は納得した。呉内は悪い人間だった。気まぐれで人を助けた。寝る間も惜しんで人の命を救った。そうやって呉内を正しい人間だと思ってしまっていた。思いたかったから。


「ダメだよ。あんた、その人どこに運ぶんだよ。病院には預けてやれないんだろ」


「あーあ。やっぱお前なんか手伝わせるんじゃなかったな。で、どうするんだ」


「僕が止める。元気になるまで面倒を見るって僕が決めたんだ」


「そうかい」


 次の瞬間に紅平は自分の体が真横に吹っ飛んでいくのを認識した。抱えていたはずの答案がバラバラと自分のいた場所を舞っていて、呉内が片足を高々と上げているのが見える。自分が何をされたのかを理解した瞬間に紅平の体は壁に叩きつけられた。


 左腕が溶けた鉛を流し込まれたような熱さと痛みを訴えている。全身に脂汗が噴き出し、手先指先は強張って動きが効かない。寸刻みにバラされていきそうな呼吸をねじ伏せて、紅平は声の限り叫んだ。


「今すぐその人を降ろせ。危ないだろ」


 息も絶え絶えながら紅平は両手を震わせながら構え始めていた。ドアノブに手をかけていた呉内は抱えていた怪我人を床に放り出して紅平へ向き直る。


「やろうっての。いいよ。遊んでやる」


 護るという覚悟を決めた鬼気迫る表情と遊びに向かう童子のような笑顔の交わりを、互いが感じあった瞬間に戦いは始まる。


 声を上げて突進する紅平を呉内が僅かな動きでいなした。無謀な突進の結果としてさらされた無防備な背面を呉内は掴んで投げようとする。紅平の襟首を掴んだ呉内の顔面にかなりの質量を持った何かが衝突してきた。


 紅平は自分が何をやってもかわされてしまうことはわかっていた。蹴りもパンチも背丈が違うから届かない。物を投げても、握って殴りに行ってもきっと交わされてしまうだろう。


 なら、何も持たずに全力で突っ込んでいくしかないじゃないか。と紅平は考えた。交わされるかもしれない。当たる前に蹴りだのパンチだのが飛んでくるかもしれない。それでも呉内に全力をぶつけるならこれしかないと思っていたし、当たっても外しても呉内を怪我人のすぐ近くから遠ざけられると思ったから。


 案の上かわされた。飛びのくでものけぞるでもなく、すり足で数歩動いて僅かに体を傾けるだけで済まされてしまった。


 けれどそれで済ませたらダメだから。


 思いっきり後ろへ跳ねた。




 やけに揺れる視界の中で仁王立ちを続ける呉内に殴りかかる。拳を、平手を、突きを、肘を、額を、全身を思い切り呉内にぶつけた。骨が軋んで、皮が剥がれそうになってもひたすら続けた。


 呉内に床に投げられ、組み縛られ、叩かれても蹴られても絶対に離さなかった。いくら自分が助けるとか護るとか言ったところで、怪我人の命のためにどうしても呉内の助力は必要だった。だからうんと言うまで殴り続けて殴られ続けるのだ。


 拳が痛いのは自分が殴ったからなのかどこかにぶつけられたからか。肌を濡らす汗と血は自分のものなのか呉内のものなのか。そもそも自分は今殴っているのか殴られているのか。


 後ろでドアが開く音が聞こえた気がしたけれど無視をした。気にできるほどの余裕が今の自分にはなかったからだ。


「逃げようってか売女ァ」


 呉内に投げ飛ばされ反転した床と天井で二つの足で立って歩く怪我人が見えた。でも、動きはよろめいていてぎこちない。ドアを開ける前に組み伏せられておしまいだろう。


 紅平が破れかぶれで投げた何かの文庫本は吸い込まれるように呉内の後頭部に当たった。それで体勢を崩した呉内はそのまま床に広がった答案を踏んで転んだ。


 紅平はパイプ椅子で思い切り呉内を殴りつけてから事務所を出た。廊下を見たが誰もいない。病み上がりの人が迷いなく歩けるような場所じゃないから廊下を進んではいない。反対側を向くと非常口のドアが開いていた。呉内が立ち上がる前に紅平は思い切り走り出した。




 喧嘩というものは結局のところ、相手の顔面を思いっきり殴った方が勝つのだ。


「ったく。本気で殴りやがって」


 やればできるじゃないか。という言葉が漏れそうになったので呉内は口を噤む。遊び半分で喧嘩をしたのだから、負けるのは当然といえば当然で言葉で言い繕うものではなかった。それにタイマンをしている最中で自分を見てる相手から目を離したのが無作法だ。なら負けるのは当然を過ぎて必然だ。


 頼まれた仕事を放り投げたのでやることは山積みだが、それだけに外の空気が吸いたかった。窓を開けようとすると事務所の固定電話が音を鳴らす。


「もしもし。内藤さん」


 電話をしてきた相手は呉内に怪我人を預けた相手で、紅平が来なければ怪我人を渡していた相手だ。時間になれば呉内から連絡をする予定になっていて逆はない。だからこの電話は凶報ということになる。


 折角の余韻に水を差してくれたので罵倒でも飛ばしてやろうと思ったが、散々たかった相手なのでやめにした。こういう知らせはちゃんと聞かないと大変なことになるので大人しく耳を傾けるべきでもあるから。


「やっちゃいましたね。じゃ、逃がします。お客さんは丁重におもてなししとくんで。はい。ふざけんじゃねえぞ」


 しばし連絡を聞いた後罵倒して返事が聞こえる前に通話を切った。怪我人を隠したのが発覚し、回収する奴らが来るらしい。大人しく渡そうにも獲物がいない。逃げたことを正直に話しても怪我人を追っている紅平に累が及ぶだろう。


 だから、これから事務所に来た人間を一切合切全員始末して、今回のことをなかったことにするしかないのだ。


 事務所に鍵をかけて、音響のボリュームを最大にする。出入口に配置した監視カメラに繋がっているテレビを起動して机の下にあるバールを取り出す。屈んでから立ち上がれば腰に針金を刺されたような痛みが襲ってきた。


「ま、ウォーミングアップにはちょうどいいか」


 紅平につけられた殴打のあとを撫でると刺すような痛みで身体が強張る。鎮静剤の配合を始めようとするが廊下からガラガラと音が聞こえきた。


「んじゃ。女に取られた鬱憤晴らし、させてもらおうか」


 呉内は人体を「直す」ことと同じくらい「壊す」ことが好きだった。だからこれからのことも宴の乱痴気騒ぎ程度にしか思っていなかった。




 紅平は怪我人を最後まで面倒を見ることができなかった。全速力で駆け下りた非常口の先をいくら探し回っても見つからなかった。日が暮れるまで探して、月が煌々と街を照らす中でも探して、涙を流しながら息を切らして叫んでも見つからなかった。


 次の日に事務所を訪れたが入ることができなかった。ビルの入り口には立ち入り禁止線が敷かれていて、関係者だと告げても話すら聞いてもらえなかった。数か月して警察が立ち去った後は改装工事が始まって、気づけば受験が佳境を迎えて前を通り過ぎることも少なくなった。


 一年と少しが過ぎたころ紅平は事務所に近づくこともなく、高校に通うこともなくなった。志望していた大学に合格したからだ。護ると決めた者を護れなかった経験は挫折に繋がったが、紅平は足を止めなかった。無力だったからこその悔しさがバネになったからだ。


「警察か。検事か。それはこれから考えなくちゃな」


 長い目標を達成したのはこうしたい。こうでありたい。という理想があるからで、一個や二個達成したところでは千里の道の一歩にも届かない。でも、今の自分がこれからどんな場所にいるかを知るのは大事だから校内を散策することにした。


 騒がしい新歓の人波から抜けて舞い散る桜の木の下で休憩を取っていると缶コーヒーがこっちに向かって飛んできた。慌ててキャッチすると今度は中身の入ったビニール袋が飛んでくる。わざと身体にあてて勢いを削ぐことでキャッチした。紅平は投げた相手がどんな無礼な奴だと思って飛んできた方に向き直る。


 視線の先には知る中で最も無礼な男がいた。




「よう後輩。合格おめでとさん。また会えて嬉しいぜ。まずは部室掃除してもらおうか」

書こうと思って書いた久しぶりのBL。男のあえて言葉にしない内心を敢えて文にして明示してしまうのはとても残酷なことだ。


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