二十話「カザフさん、温泉に浸かる」
ナナは肉にナイフを入れる。微かに切れたところから、じゅわっと溢れる肉汁。さらにナイフを入れると、肉らしい赤茶色の部分が露わになってくる。
それと同時に、湯気に乗って香ばしい匂いが湧く。
肉汁の香りとタレの香りが混じり合った、食欲を掻き立てる匂いだ。
切る前から瞳を輝かせているナナは、込み上げる涎をごくりと飲み込み、ナイフを前後に動かす。そうして肉を一口サイズに切り終えると、肉を黒い鉄板に広がるタレに軽く擦り付け、フォークをそのまま口へ運ぶ。
「どう?」
肉を口に入れたナナに、カザフは尋ねてみた。
しかし返事はない。
ナナは夢中で顎を動かし続けている。
返事さえ忘れて咀嚼しているナナを目にしたら、カザフは温かい気持ちになってきた。だから彼は、返事を求めることはせず、幸せそうな彼女をじっと見つめるだけにしていた。
「ふぁー! 美味しかったー!」
一口目の肉を飲み込めたナナは、口を開く。
「美味しかった?」
「はい! しっかりしているのに硬すぎることはなくて、ほどよい食感でした!」
ナナは満足そうな顔をしている。まだ一口目なのに。
「ははは。グルメリポートみたいになってるね」
「駄目ですか?」
「いやいや。ナナちゃんが美味しそうに食べてくれたら嬉しいよ」
「あ、ありがとうございます……」
◆
食後、一時間ほど休憩して、カザフとナナは温泉に入ることにした。
「お風呂は男女別ですよね?」
「うん」
夕食をたくさん食べて動けなくなっていたナナだが、一時間も経てば、動けそうになってきたようだ。
「じゃあしばらく会えないですね」
「一緒が良かったの?」
「なっ……ま、まさか! そんなわけないじゃないですか!」
カザフは段々、ナナが頬を赤く染めるのを見るのが楽しくなってきた。
「じゃ、先に行ってますね!」
「はーい」
「終わったら、風呂を出たところで待っています」
「はーい」
ナナは入浴に必要な物を持つと、軽快な足取りで客室から出ていく。カザフは風呂の用意をしながら、先に行く彼女の小さな背を見送った。
客室に一人になってからカザフは「楽しんでくれているみたいだな」などと呟く。
完全な独り言だ。
でも、周囲に人はいないから、彼の独り言を気にする者はいない。
◆
それからカザフは浴場へ移動。
さっと全身を流してから、温泉に浸かる。
「結構熱いなぁ……」
カザフが温泉に浸かろうとした時、既に浸かっていた者たちは驚いたような顔をしていた。恐らく、いきなり巨体が現れたから驚いたのだろう。中には、男性であるにもかかわらず、逃げるようにそそくさと去っていった者もいた。
化け物を見るような怯えた視線を向けられると、カザフもさすがに傷つく。
でもそれは今に始まったことではない。
だから、耐えられる。
慣れてしまえば、大抵のことはどうでも良くなる。
「見ろよ……あいつ、やばくね……」
「迫力ありすぎだろ……」
そんなひそひそ話が耳に入ることもある。
でも、どうでもいい。
カザフはそんなことは気にしないのだ。
ひそひそ話をされたところで、冒険者の仕事ができなくなるわけではない。命が減るわけではないし、肉体にダメージを受けるわけでもない。
◆
温泉にしっかり浸かって寛いだカザフは、体を拭いて、男湯を出る。すると、男湯を出てすぐのところにあるベンチに、ナナが座っているのが見えた。
「ナナちゃん」
「あ、カザフさん!」
二人はすぐにお互いの存在に気づく。
合流成功だ。
「結構早かったね」
「そうですか? カザフさんがゆっくりだったんじゃないですか?」
「え。そうかな」
「ナナはそう思いますけど」
カザフの心には、言葉にならない暗い影があった。それは、温泉で心ない反応をされたことによるもので。自身や知り合いが原因のものでないからこそ、さっぱりと消すことは難しいような影だった。
でも、ナナの笑顔があれば、そんな影も薄れる。
彼女の存在は、カザフの心をいつも照らしてくれる。
「じゃあ帰ろっか」
カザフが笑ってそう言うと、ナナは怪訝な顔をした。
「……カザフさん、何だか元気ないですか?」
「え」
「気のせいならいいんですけど……カザフさん、何だか元気がないように見えて」
心を見透かされた、そんな気がして、カザフは顔を強張らせる。「そ、そんなことないよ!?」などと発しながらごまかそうとするけれど、その発言が怪しさを余計に高めてしまっていた。
「何なんですか?」
「いや……本当に、その、何でもないから」
「そうですか。分かりました」
内心安堵の溜め息を漏らすカザフ。
「でも、もし何かあったら、いつでもナナに相談して下さいね」
「ありがとう」
「まぁ、ナナじゃ何もできないかもしれないですけど」
「ううん。相談してって言ってもらえるだけでも嬉しいよ」
頼っても良いと言ってもらえること、それは嬉しい。
だがカザフは「できれば相談したくない」と思っている。
なぜなら、余計なことを言ってナナを心配させたくないからだ。




