16.愛瑠の覚悟
その日は休日で、天気も良く、絶好のお出掛け日和だった。
「なぁ、勉強ばっかりしてねーで、たまには外に出ようぜ。こないだせっかくローラーブレード買ったのに、全然やってねーし」
退屈そうに斗真が、部屋のドアから顔を出した。
愛瑠が隣にいる甲斐を見ると、「息抜きするか」とうなずき、愛瑠がふぅとため息をつく。
甲斐のスパルタぶりにはまいった。毎日続く数学の問題に、最近では夢の中まで公式に追われるほど、精神的に追い詰められている。
今日は朝六時に起こされ、そこから、四時間ぶっ続けで問題を出され、間違えるごとに、こんな簡単な問題も分からないのかと三白眼の瞳を光らせるのだ。罵られ続けていた愛瑠は心の中で、ようやく解放されると喜びの声をあげた。
そんな彼女の気持ちを見透かしたように、
「三時には戻って来いよ」
と甲斐が言う。
「え、まだやるの?」
「当たり前だ。お前が怠けてきた三年分の知識を二ヶ月そこらで詰め込むんだ。休んでいる暇なんてないだろ? それともこのまま続けるか?」
「わ、分かった。三時に戻ってくる」
愛瑠は慌てて立ち上がった。
「甲斐は行かないの?」
「お前たちと一緒だと俺の息抜きができない」
「あいっ変わらず、可愛げのない奴だな」
斗真がべぇと舌を出すと、甲斐は興味なさそうに肩をすくめた。
「おい、愛瑠。一緒にいないからと言っても、ずっと監視しているからな。次に人前で力を使ってみろ。お前の魂は消滅だと思えよ」
「ほんっと、可愛げのない奴だな」
愛瑠もべぇと舌を出すと、甲斐は「お前のために言ってんだよ」とつぶやいて再び肩をすくめた。
結局、榛名を無理矢理誘って、近くの公園までやってきた三人は、ひとりがローラーブレードをして、待っている二人はフリスビーをして遊んでいた。
榛名が投げたフリスビーを取り損ねて、追いかけてきた愛瑠が、何かに気付いて立ち止まる。
「どうしたの?」
戻ってこない愛瑠に榛名が声をかけると、「うん。ちょっと気になって」と、一人でジャングルジムに登ろうとしている小さな女の子を見つめた。周囲には誰もおらず、愛瑠の手前で、母親であろう人物がスマホに夢中になっていた。
「あの子のお母さんですか? 一人で登ろうとしてますよ」
愛瑠が声をかけると、母親は面倒くさそうに舌打ちした。
「知ってるわよ。うちは、一人で何でもやらせるようにしてるの」
「でも、スマホ見ていたら、何か起きた時、危なくないですか?」
「ちゃんと育児をしていないような言い方しないでくれる? 私は毎日二十四時間、寝る間もなく子供見てんのよ! 子供が遊んでいるときくらい、一人の時間を楽しんだっていいでしょ!」
母親が目くじらを立てて、愛瑠を怒鳴りつけた。
「ごめん……なさい……。そういう、つもりじゃ……」
ドクンと心臓が波打った。息がうまく吸えなくなる。
『あんたのせいで、何もできない!』
昔、お尻を叩かれながら、何度も言われた母の叫び声が、頭に響いた。
「愛瑠、大丈夫?」
「え……。あ、うん」
愛瑠はぎこちなく笑って、ジャングルジムに目を移した。子供は、頂上まで登って、その上で立ち上がろうとしている。
「大丈夫かな……」
愛瑠がつぶやいて、榛名がそちらに目を移した瞬間、ジャングルジムから手を離した子供が、足を滑らせて後ろに傾いた。
「危ないっ!」
「愛瑠! ダメだ!」
愛瑠がその手をジャングルジムに向かって差し出したのと、榛名が止めに入ったのと、同時だった。愛瑠は一瞬、榛名の声に体を強張らせたが、そのまま体を変異させ腕を伸ばした。
長く伸びた緑の蔦が転落する子供をキャッチし、一瞬の内に、愛瑠の胸に収まる。ジャングルジムから落ちかけた子供が、愛瑠の腕の中にいることに気付いて、母親が叫び声をあげた。
騒ぎに気付いて駆け寄ってきた斗真が、緑化した愛瑠の腕に全てを悟って、公園内の時を止める。
「愛瑠……」
静かになった公園で、榛名のかすれた声が漏れた。
「ごめん。榛名……ごめん……」
愛瑠はそうつぶやくと、うつむいた。
「やっぱり、私には見過ごすことなんてできない。だって、助けることのできる力を持っているんだもん」
「それで自分の命が危険に晒されると分かっていても?」
「ごめんね。二人にはいっぱい迷惑をかけてごめんね」
うつむいたまま何度も謝る愛瑠に、榛名は小さくため息をついた。
「ほんとに君には手がかかる」
「ごめん……」
「でも、そんな君だから、僕たちは君を守ろうと思うんだ」
そう言って、愛瑠に微笑みかけた。
「ったく」
斗真が愛瑠の手から子供を受け取り、ジャングルジムの下に降ろした。
「公園内の時間を数分前に戻す」
そう言って腕を振り上げると、眩しい閃光に包まれ、一瞬後には公園内に笑い声や叫び声が戻った。
ジャングルジムの下で、子供がキョトンとした顔をしている。
「さてと、これからどうするか。まぁ、隠せるわけがないわな」
「当たり前だ」
冷たい声が響いて、その声に斗真がため息をつく。
「クソ甲斐のご登場だ」
そう言って、愛瑠をかばう様に身構えた。
「そこをどけ、斗真。次に人前で力を使ったら、魂を消滅させると言っておいたはずだ」
「お前さぁ。一緒に暮らしていたんだから、少しは大目に見たりしないわけ? 数学だってこいつに一生懸命教えてやっていたじゃん」
「これは、天界が決めたことだ。俺にはどうすることもできない。さぁ、愛瑠を引き渡してもらおうか」
「断ると言ったら?」
斗真と榛名の体から陽炎が立ち上る。
「天界に逆らうということが、どういうことか分かっているんだろうな?」
「人助けをした奴を罰するというのが天界の決め事だと言うなら、そんなルール喜んで破ってやるよ」
斗真はそう言って宙を舞い、甲斐に襲い掛かった。
「バカが」
甲斐の体から炎のようなオーラが噴き出し、斗真の攻撃を受け止める。二人の攻防を固唾を呑んで見守っていた愛瑠の腕を榛名が引き走り出した。
「愛瑠。行こう」
「行こうって、どこに?」
「結界を張れば、天界も君を見つけることはできない。違う地で、三人で暮らそう」
その時、斗真が甲斐の攻撃を受け、地面に叩き付けられた。
「斗真!」
愛瑠が思わず振り返る。
「バカ、逃げろ……。榛名、早く愛瑠をっ!」
その様子を甲斐が宙から無表情に見下ろした。
「天界を追放されたガーディアンが、その後、どういう道を辿るか知らないわけではないだろうな? 闇に落ちるつもりか?」
「例え、闇に落ちようとも、彼女のことだけは僕らが守る」
棘の鞭を手にし、甲斐に向き直る榛名。
「ちょっと待って! 闇に落ちるってどういうこと?」
愛瑠が震える声で叫んだ。甲斐が目を細めて、愛瑠を見据える。
「天界の加護を失えば、やがて、こいつらはこの世の理から外れたただの妖魔と成り果てる。お前が天命を全うするのが先か、こいつらが闇に落ちるのが先か見ものだな」
「妖魔に……」
愛瑠が乾いた声でつぶやいた。
「愛瑠。いいんだ。僕たちが決めたことだから」
振り返って微笑んだ榛名に、愛瑠が駆け寄り抱き付いた。
「ごめんね。榛名……」
そうつぶやいたのと同時に、榛名の瞳が虚空をさまよい、ガクリと膝をついた。
「愛……瑠?」
首元の痛みと共に、痺れて体が動かなくなるのを感じながら、愛瑠に棘の実を刺されたのだと気付く。
「ダメ、だ……愛瑠……」
かすかにつぶやいて、榛名は地面に倒れた。その様子を見ていた甲斐は驚いたように愛瑠を見つめた。
「甲斐! あなたに私の魂を渡す。だけど一つだけお願いがある」
愛瑠は叫んで、切なげに甲斐のことを見つめた。
「私の命は、榛名と斗真が差し出したことにして。この二人は、天界に逆らってなんかいない。お願い!」
「お前……」
息を呑んだ甲斐の前で、愛瑠が自分の胸に手を置いた。
「やめろ! 愛瑠」
斗真が起き上がって、声を振り絞る。
「ありがとう。斗真、榛名」
つぶやいて、愛瑠は目をつむった。
「この世の理を破った罰だ。消えてなくなれ」
静かに囁くと、愛瑠の体が淡い光となって、消えた。
次話、最終話です。




