雫の心情
勇者の住まいは二か所存在する。
一か所は匠や乃蒼が暮らしている、新勇者の屋敷。
そしてもう一か所は、長部一紗に支給されていた家。屋敷というほど大きくはないが、場所は城から歩いて二十分というそれなりの立地だ。
だが、ここはもはや一紗の住まいではない。彼女は匠のもとへと行ってしまったからだ。
その結果、この家は雫とりんごのものになってしまった。
ここはベランダ。大通りの喧噪が近くに聞こえる、そんな場所。周囲から見えるのは建物と空。そして隙間からほんの少しだけ大通りが見える。
羽鳥雫はつい最近まで療養中だった。
かつて一紗を救うため迷宮へと潜った雫は、祭司ミゲルによってその脇腹をひどく傷つけられた。りんごの支援を受けながらなんとか地上へと戻った彼女は、しばらく治療に専念することを余儀なくされた。
あれから、四か月がたった。
雫は元気に回復した。体については完全に本調子であり、いつまた迷宮へと戻っても問題ない。
おそらくは近日中に再び迷宮に潜ることになるだろう。危険な戦いではあるが、そのこと自体に雫は全く懸念を感じていない。
問題は、もっと別のところにある。
ぼんやりと大通りを眺めていた雫は、ふと、背後のドアが開く音を聞いた。誰かが入ってきたのだ。
誰か、といっても誰なのかは分かりきってる。この家には、二人しか暮らしていないのだから。
「しずしずー、今日もあなたの専属メイドりんごが、しっかりばっちりお世話をするから何でも命令よろしくね」
「……うざい」
雫はりんごのことは好きなのだが、この妙に明るく冗談を交えたノリはあまり好きでなかった。
「世話なんてもういらない。私は完治した。うざいから止めろ」
「ええー、やだやだー。毎日しずしずを着替えさせて、綺麗な銀髪を結って、体を拭いてー、りんごちょー楽しかったのに」
「…………」
雫はその時のことを思い出してげんなりした。まるでお気に入りの人形のように髪型を変えられドレスを着せられ、『きゃーきゃー』と黄色い声で興奮されたことは記憶に新しい。
何度頬をすりすりされただろうか。何度体を抱きしめられただろうか。
『お前は私を世話しにきたんじゃないのか?』と心の中で思った。
「りんごはいつも暴走する。一紗がいればこんな――」
しまった、と思いりんごは言葉を切った。
一紗。
この単語を出してはいけない。
りんごはこれまでのテンションとは打って変わって、気落ちした様子でこう呟いた。
「かずりん、行っちゃったね」
一紗は新勇者の屋敷――すなわち匠のところへと向かった。
続々とクラスメイトが集まっている勇者の屋敷。匠と彼女たちの関係について、今となってはりんごも雫も十分理解している。
端的に言えば、ハーレムだ。
もちろん、雫は匠のことを知っている。普段犬野郎とか下僕とかさんざん彼を罵っている雫であるが、それは心からの本音ではない。
匠は優しい男だ。あの日、迷宮で一紗の捜索よりも自分の命を優先してくれたことは、雫も忘れていない。
ハーレムは間違いなく合意の上だ。りんごが集めた情報、そして彼の人間性を鑑みればその結論は揺るがない。
とはいえ、一紗には彼氏であった優がいた。彼が死んだという情報は匠たちから聞いたが、それでも元の世界にいた当時のことを知っている雫やりんごにとって、匠と一紗が結ばれることは違和感のある出来事である。
どういう顔をして会えばいいのか分からない。
声をかけ辛い。
かつて友人として過ごしていた二人が、今は恋人同士。
再び迷宮に潜ることがあったら、どう声をかければいいか。雫はそのことに頭を悩ませていた。
「悲しい?」
りんごが、雫の顔を覗き込みながらそんなことを聞いた。
「……私は子供じゃない。一紗が自分の意思でアイツのところに行ったなら、何も言うことなんてない」
「そうじゃなくてたっくんの……」
「……? あの糞野郎が何か?」
「しずしず、たっくんのこと好きなんでしょ?」
「……っ!」
雫は自分の顔が赤く染まっていくのを感じた。
「り、りんごはおかしなことを言う!」
「あーもう、しずしずはかわいいなぁ! りんごが食べちゃっていい?」
「くっくっくっ、あんな使えない下僕が犬にモテようが一紗にモテようが、そんなことは私となんの関係もない」
「本当に?」
探るようなりんごの視線に、雫はたじろいだ。
そもそも雫は友達が多い方ではない。ここにいるりんご、一紗、そして匠が彼女を取り巻く世界のすべてといっても過言ではない。
雫にとっての異性は匠一人だ。
何気なく、悪態をついてじゃれ合ってた日常を思い出す。
迷宮で、怪我をした自分のために叫んでくれたことを思い出す。
『雫の命にはかえられない』と、迷宮で言われたことを思い出す。
そんな彼が、一紗とどころか他の女子たちとまで結ばれているのだ。正直な話をすれば、胸がざわついていることを否定できない。
「……あいつのこと考えると、胸が苦しいんだ」
気が付けば、自然とそんな言葉が漏れていた。
失言だった。はっとした雫はすぐに首を左右に振って否定する。
「……りんご、今のは忘れてくれ」
そう。
この気持ちは、抑えつけなければならない。それが一紗のためであり、そして……今はこの場にいない彼女のためでもあるのだから……。