春樹の手紙
夜。
あらゆる動物たちが寝静まった、闇の支配する時。
時任春樹は壁にもたれかかっていた。
ここは関所。マルクト王国マーリン地区、貴族たちの居住区と一般市民を隔てる壁の近くだ。
夜は寒い。震えるような外気にさらされ長時間立っているのは、ことのほか辛いことだ。だが春樹には目的があった。そのためにはここで監視することが必要だったのだ。
春樹は獣のように五感を集中させ、目の前を見ている。そこには門があり、門番が寒さに震えながら番をしている。
こちらに気が付いてはいないと思う。
ふと、視界の変化に気が付いた。
土を踏みしめる音は聞こえない。おそらくは足音を消していたのだろう。黒い外套を身に着けていたため、視界に収めることは非常に難しい。
春樹がそれに気づけたのは、門番が明るい顔で声を上げていたからだ。
春樹は壁に隠れながらその様子を覗いた。
静かに笑う門番と、黒い外套を着たメイド。門番は何かを強請るように手を差し出し、メイドはその手に金貨を二枚乗せた。
「動くな」
びくん、と外套を着たメイドが立ち止まった。門番は金貨を懐に隠し、さも自分は無関係と言いたげに彼女から離れる。
メイドが震えている。
……これは当然だ。
そもそも、貴族区画から外に出るためには許可証がいる。この地に住まう貴族か、もしくはマルクト王国が発行する通行手形だ。そして、あの貴族たちが女にそんなものを渡すはずがない。
彼女は門番に賄賂を渡して外に出た。それが貴族たちに知れてしまったら罪に問われる。ましてや、女を奴隷だの劣っているだのと見下している彼らのことだ、法などまるで無視した懲罰を加えるのは目に見えている。
「ただの屋敷勤めにしては、随分と外出が多いな……」
実をいうと、彼女を見つけたのはこれで三度目。確証を得るため二回泳がせてておいたのだ。
「気分転換? 恋人との逢瀬? 違うね。賄賂を渡す手際が良すぎた。そして金貨二枚なんて額は尋常じゃない。君はそう、すでに何度も門番に高価な貢物をしている」
春樹は、まるで探偵が犯人を暴くかのように、冷たく指摘した。
外套に身を隠したメイドは、震えることも泣くこともなく、ただ黙ってその言葉を聞いている。
「それだけの金がどこから出た? 屋敷勤めのただのメイドが用意できる額じゃない。どれだけ優秀で、どれだけ美しく媚びたとしても、あの男たちは金を出さないだろう。女を見下しているからね」
「…………」
「ここは東門。東側に出たいなら通らなければならない。もっとも高い可能性を上げるなら、スパイと言ったところかね?」
「…………」
「グラウス共和国か、マルクト王国か。貴族たちを監視していたのではないかね?」
瞬間。
外套を脱ぎ去った少女は、懐に忍ばせていたナイフを構えた。
「おっと、おびえないでくれたまえ。別にこの件を貴族たちに密告しようとは思わない。君もあそこで仕えているなら理解してくれるだろう? 俺ともう一人がどれだけいない者扱いされているかどうか。今更あの貴族たちに忠誠を誓うはずがないではないか。話し合おう」
「……何か?」
気力なく、絶望に彩られ働いている貴族居住区のメイドたちとは一線を画す、冷たい声色。まるで触れるものすべてを凍傷に追い込んでしまうかのような錯覚を覚えてしまう。
だが、春樹はそのような声に怯むことなどない。
万が一の防衛策は、すでに手を打ってあるのだから。
「いや、この際君がどこのスパイかなんてどうでもいい。この際闇の商人でも世界の転覆を狙うテロリストでもいい。ただ、俺の頼みを聞いてもらえればそれでな」
「内容は?」
春樹は懐から一枚の手紙を取り出した。
「この手紙を、大丸鈴菜という人に渡して欲しい。グラウスの……赤岩の近くにいるはずだ。分からなければ赤岩に渡してくれてもいい」
「中を拝見しても?」
「君には読めない、そういう内容だ。読みたければ読めばいいさ」
「……閣下にお伝えします」
「十分だ」
再び黒い外套に身を隠した少女は、目にも止まらぬ速さで門の外へと逃げて行った。
もう、彼女はこの地に戻って来ないかもしれない。
「終わったな」
背後から、剣を構えた優が現れた。
「話の分かるスパイで助かったよ優。君の出番を奪ってしまったのは申し訳ないと思うがね」
「俺だって戦うのは嫌さ。命の取り合いなんて……」
「何を言ってるんだ。君の方が強いんだから、命を取り合うなんてことは起こらない。危ないのはあのメイドの方で、彼女が命を取られるだけではないかね?」
「買いかぶりすぎだ、春樹」
一向に何もしてくれない貴族たち。
話す気のない加藤と、話す機会のない御影。
無駄に費やされていく時間。
時任春樹は、この時間を十二分に活用した。どうすれば自分が有利に立ち回れるか、匠のもとへたどり着き、鈴菜を取り戻すことができるか? それを考えた。
春樹は自前で必要なものを手に入れた。そして優は、そんな春樹に協力している。
もはや、ただ貴族たちにすがるだけの存在ではない。一個の独立した存在であり、貴族たちを出し抜く方法もいくつか見つけている。
スキルに溺れ、驕奢を欲しいままにする御影の影で。
二人は、着実に力を蓄えているのだった。