友人、時任春樹
「……お見事」
「あんたもね」
勇者一紗は剣を振り払った。その刃先には赤々とした魔族の血がこびりついている。
ここはレグルス迷宮。一紗は今自分がどのあたりにいるかよくわからない。入口からただただ下の階へと歩みを進めてきただけだ。
巨大な水晶の門のそびえるその場所で、一紗はずっと死闘を繰り広げていた。目の前に倒れている血まみれの緑の肌を持つ魔族は、おそらく門番的な存在なのだろう。
頬に垂れた汗をぬぐった。ツーサイドアップの金髪はわずかに乱れ、髪を留めるリボンは血に染まっている。
「こんなところが、あったなんてね」
これまで、一紗はりんごたちとともにずっと迷宮で戦ってきた。その過程で多少の部屋や通路は見たことがある。しかしこのような巨大な建造物風のものを見るのは初めてだ。
「…………」
あの日、加藤に元の世界へと戻る腕輪を使ってからがすべての始まりだった。
一紗は元の世界に帰りたいと思っている。そこには両親がいる、クラスメイト以外の友人たちだっている、そしてなにより、恋人である優がいる。
だが一紗は勇者だ。多くの人に期待されている。つぐみだってりんごだって雫だって、魔剣と聖剣を使える彼女を能力的にもクラスメイト的にも必要としている。
そしてなにより、幼馴染の匠を放って自分だけ逃げかえることなんてできなかった。
未練は迷いを生み、一紗は元の世界に戻ることができなかった。そのための道具を手に入れてもなおだ。
しかしそれを持っていると心が落ち着いた。自分はいつでも元の世界に戻れる、その気になれば優に会える、そう思えることが心の支えだったのだから。
だから、加藤の件でそれが崩壊した。
心の安定を取り戻さなければならない。それが、弱い心で気丈にふるまう彼女の、勇者として戦うための唯一の道だった。
一紗は迷宮で同じ帰還の腕輪を探した。元の世界に帰るためではない。元の世界に帰れる手段を持つことによって、安心感を得たいからだ。勇者としての務めを果たさず逃げかえるつもりはない。
がむしゃらに進んだ迷宮の中で、一つの可能性を示す情報を得た。勝利した魔族から聞き出したのだ。
こんなことを普段したりはしない。そもそも、一紗たちが相手にする魔族の多くは『下っ端』であり、有益な情報を持っていなかったためでもある。
迷宮深くに侵入した一紗が出会ったのは、おそらくは高レベルに属するであろう魔族。死闘の末倒した彼へ、求める宝のありかを問いただしたのだ。
その時、有力な情報を引き出した。
『魔王レオンハルトが腕輪の魔具を集めている』、と。
一紗が探しているのは、異世界へと帰還する魔具だ。そして以前持っていたそれは、腕輪の形をしていた。
これは偶然の一致か? はたまた必然か?
魔王は異世界人を煩わしく思っているはずだ。『頼めば帰還の腕輪をくれる』などというのは少々楽観的過ぎかもしれないが、交渉の余地は十分に存在する。仮に強奪することになったとしても、それほど抵抗されないのではないか?
一紗は門をくぐり、目の前の建物へと足を進める。
ここは結晶宮殿。
魔王が住まうとされる迷宮の最下層。
前人未踏、魔族の本拠地。勇者一紗は、その地へと足を踏み入れたのだった。
ここは現代日本、とある学園の教室。
「おらっ!」
「うっ……乃蒼、乃蒼……」
刈り上げた金髪を持つ少年が、メガネをかけた小柄な少年を蹴り飛ばす。
園田優はそれを見ていた。御影新が加藤達也にいじめられているこの光景は、残念ながら見慣れたものだ。
「止めろよ!」
優は加藤と御影の間に割って入った。
止めるのはいつも自分だ。それで御影が救われるのならいいが、何度やっても加藤はやめる気配を見せない。
気分の悪い光景だ。
「へっへへへへっ!」
だが、今日は何か雰囲気が違う。いつもならここで激怒するはずだった加藤が、今日はなぜだかニヤニヤと人を小馬鹿にするような笑みを浮かべていた。
「俺よぉ、この間お前の彼女に会ってきたぜ」
「何っ!」
優の彼女。
それは、例の集団男女失踪事件でいなくなったクラスメイト、長部一紗に他ならない。
「異世界だぜ! あいつら全員、こことは違う別の世界にいたんだ。俺もしばらくの間あの世界にいてよぉ。飯も食ったし、貴族のところで世話になったし、匠と戦ったし、旅人みてぇに歩いたりもしたなぁ。いい経験だったぜ」
「…………」
ありえない、と優は思った。
加藤は昨日も今日も学校にいた。
二日ほど学校にいない時もあったが、せいぜいその程度だ。たったそれだけの時間で、先ほど話したような体験ができるとはどうしても思えなかった。
だが、加藤は性格が悪い。『異世界』という言葉が嘘であったとしても、もしかすると……どこかで会って話をした可能性がないわけではない。
「そ、それで、会って何を話したんだ」
優は一紗のことが心配だった。こんなことを言えば加藤に付け入る隙を与えることになるのはわかりきっていたが、それでも聞かずにはいられなかった。
「へへっ、聞きてぇか?」
「…………」
「あいつ、匠のアレくわえこんでよがってたぜ! 『あんあんっ、優のより大きい! 気持ちいいぃよぉ!』ってな」
「……っ!」
その瞬間、優は我を忘れた。
優は飛ぶような勢いで加藤の頬を殴った。
完全に虚を突かれた形となった加藤は、まるでボールか何かのように机を飛び越えて教室の壁へとその体を打ち付けた。
廊下を歩いていた国語の女教師が、びくん、と肩を震わせ慌てて逃げて行った。
「はっ、イケメン優等生がひでぇなおい。俺、頬の骨折れちまったぜ。どう責任とってくれんだ?」
「ふざけるなっ!」
優は激怒した。これまで御影を庇っていた時とは比べ物にならないほどの怒りを覚えている。
「一紗も匠もそんな奴じゃない! お前は嘘をついている!」
「はっ、そんな奴じゃねーか。じゃあ変わったんだろ。異世界でよぉ、苦労して戦ってんで子作りするようになったわけだ。泣けんだろ?」
「黙れっ! お前はどうしていつもいつも……」
「やめたまえ、君たち」
パン、と小気味よい音を鳴らして教科書を閉じ、立ち上がった少年。
背は優と同じぐらいに高く、すらっとした体形。軽くワックスを使って七三分けにセットされた髪は、清潔感のある印象を与える。
長身ということもあり、冷たい目で加藤を見下ろしている。大物政治家や大富豪を彷彿とさせるような、ある種の威厳や貫録を備えた……そんな少年であった。
「加藤。君の卑猥な言葉を聞いていると虫唾が走るのだよ。俺の所属するこの教室に、これ以上の汚点を持ち込まないでくれたまえ。学生なら学生らしく、勉学に励むべきだと思うがね」
時任春樹。
優の友人でもあり匠の友人でもある男。優ほどではないがある程度はスポーツもこなし、そして何よりかなり頭がいい。
異世界に行ってしまった彼女がいなければ、間違いなくこの学園で一番の天才と称えられていただろう。
「おうおう、がり勉野郎。俺に指図すんのか?」
加藤は怒りの矛先を春樹へと向けた。近づけば誰にでも吠える猛犬のようだ。
「これは指図ではない、有益な助言だよ。君の決して短くない人生を、より豊かにより幸せに過ごしてもらうためのプランを提供しているのだ。理解していただけないかね? 学問は力だよ?」
「ちっ、がり勉野郎が。んな勉強してどうすんだよ。本当の天才はな、こんなところで生徒してねーで大学やら海外やら行ってんだよ! この教室でちんたらノート書いてる時点で、てめぇの頭は底が知れてるぜ!」
「ふっ」
春樹は笑った。彼の笑みは加藤の下卑たそれとは違い、貴族のように洗練されている。
「確かに俺は君の言う通り、この教室で学ぶべきことなどない。しかしテストを作るのは教師であり、教師も人間だ。時として絶対に解けないであろう問題を出すかもしれないだろう? それを予測するためには、授業に耳を傾けておいた方がいい」
「…………」
「俺は完璧に完全に優秀な成績を収めなければならないのだよ。教師も人間だ。天才だからと馬鹿にしていれば、不本意な嫌がらせを受けるかもしれない。つまりはある程度ご機嫌を取っておく必要がある。そのためのノート取り、そのための授業参加だ」
加藤どころか教師すらも歯牙にもかけない発言。
加藤はさらに機嫌が悪くなったようだ。
「馬鹿がっ! てめぇが機嫌を取らなきゃいけねぇのはクソ先公どもじゃねー。この俺だ! 俺に謝り俺に媚びろ。てめぇの大好きな大好きなテストを健康な体で受けたかったらなああああああああ」
「ふっ」
春樹が笑いそして――
「加藤っ!」
教室の引き戸が開かれ、一人の男が現れた。
数学教師の細井だ。今日、この時間の授業担当でもある。
「またお前かっ! 今日という今日は許さんぞ!」
「……細井ぃ」
加藤と細井は犬猿の仲だ。大学時代、アメフトで鍛えた屈強な体を持つ細井は、加藤の暴言にも全く屈することなく時には体罰すら加えることがあった。昨今の世論を考えるなら当然許されざる行為ではあるが、この教室にいる誰もが加藤を庇う気などないため、今までずっと見過ごされている。
「ちっ早退だ早退。てめぇの毛深い面ぁ見たら気分が悪くなってきた」
「待て、加藤っ!」
「俺ぁ本当に体調がわりぃんだぜ。死んだらどーすんだ?」
加藤と細井は廊下で言い争いを始めた。この調子では、加藤がこの教室へと戻ってくることはないだろう。
教室は安堵の空気に包まれた。
優は改めて春樹へと近づいた。彼は何事もなかったかのように自分の席に座っている。
「春樹、ありがとう。俺を助けてくれたんだよな?」
「俺はクラスメイトとして当然のことをしたまでだよ優。それに君は頭もよく、愛想もよく、女にモテる。君と友好的な関係を築くことは、俺の長い人生の中でプラスになると判断しただけだ」
「それでもさ、俺のこと庇ってくれただろ? 自分が怪我するかもしれないのに、ホントありがとな」
「…………」
瞬間、春樹は目を細めた。
「国語教師の田中」
「……?」
春樹の発言に首を傾げる優。そういえば、加藤を殴る前に廊下で彼女を見たような気がする。
「細井はあの女教師のことが気になるらしい。食事は終わった後はいつも会話を弾ませている。授業が始まるギリギリまでだ。そして二人でほぼ同時に教室へと向かう」
「つまり、春樹は細井がここに来て助けてくれるってことを分かってたのか?」
「詳しく統計をとったわけではないが、可能性としては90パーセント。まあ、その10%は紛れもなく君への友情だがね」
優は春樹の発言に身震いを覚えた。
ひょっとすると、こうして何気なく話をしていることすらも、彼の緻密な計算の中に組み込まれているかもしれない。
「さあ、ノートと教科書を開きたまえ。授業が始まる。人は自分の話を聞いている者を見ると嬉しく思うものだ。たとえ内容を理解していなくても、そういうポーズをとることが時として救いになる」
言い争いの声も聞こえなくなってきた。もうすぐ細井がここに戻ってきて、授業を始めるだろう。春樹の言う通り、席につかなければならない。
「俺は一番にならなければならないのだよ。あのお方に追いつくために、頭がいいと証明するため……」
ノートを開いた春樹の視線は、遥か遠い空の彼方を向いていた。
ここで近衛隊編は終わりになります。




