一紗の切り札
グラウス共和国、城の地下には地下牢がある。
かつてここが王国だった時には、国家に反逆を企てた重罪人や敵国の将軍などが捕らわれていたらしい。今でも、つぐみの革命に逆らった者や大量殺人鬼などが収監されている。
光の届かない暗い場所で、小さなたいまつによって灯が照っている。
俺は地下牢へと続くらせん階段を歩いていた。後ろには、一紗もいる。
「うわー、今ネズミ見えた。こんな何もないところで、何食べて生きてるのかしらね?」
「地下牢だし、死んだ人の肉とか?」
「ちょ、ちょっと止めてよね……」
一紗が震える声でそんなことを言った。こういう話は苦手なのだろうか?
「そう、ネズミは死肉を漁ってるんだ。そしてその小さな体を利用して、壁の隙間から外に出入りしている。骨とかくわえてるかもな」
「やだ、ちょっと……止めてって言ってるでしょ? ねえったら……」
「城の中、ひょっとすると城下町にも出ているかもしれない。死肉を漁り、死人の怨霊を巻き付けたネズミ。……そんな奴らが、今日もお前の枕元にっ!」
「止めろ」
一紗の無慈悲な声が響く。
魔剣グリューエンが俺の首筋を撫でた。
ちょっとからかい過ぎてしまった。
一紗は頬を膨らませながら俺の前に出た。すれ違う時、彼女の心地よい香りが鼻孔をくすぐる。
ツーサイドアップの金髪が俺の前でゆらゆらと揺れている。目の前のリボンを引っ張ってみたい衝動をぐっとこらえた。
地下牢という暗く汚い空間においても、まるで天使か何かのように輝いて見える美少女……それが一紗。
ま、超美少女だなんて俺の口からは言ったりしないけどな。恥ずかしいし。
俺たちがここを降りているのは、加藤に会うためだ。
加藤は今、地下牢に捕らわれている。
昨日までずっと再生薬を作っていた加藤だったが、今は正気に戻っている。一週間という洗脳期限が切れたからだ。今は俺の下した命令が解けている状態なのだ。
そのまま脱出されてはすべてがふりだし。加藤は貴族たちと合流し、再び〈創薬術〉で俺たちを苦しめるだろう。
そんなことになっては困る。
だから俺の〈操心術〉で、加藤にはいくつかの制約を加えた。
俺たちを傷つけるな。
俺たちに暴力を振るうな。
余ったバッジをすべて渡せ。
主にこの三つ。
余ったバッジは再生薬の作成に回されたため、俺が使える分はもう残っていない。加藤がもっとバッジを持っていたら良かったのだが、必要最低限の分しか渡されていなかったようだ。
あいつも、貴族から警戒されていたのかもしれない。
階段を下りた俺たちは、薄暗い廊下の中を歩いている。一紗と俺、二人の足跡が暗く狭い道に響く。
「一紗は加藤をどうしたいんだ?」
「あたしは直接の被害者じゃないからね。つぐみみたいなことは言わないわ」
あの話し合いの日、一紗は加藤に対して比較的色よい返事をくれた。そんな彼女だから、今日、こうしてこの場に付き合ってもらっているのだ。
「何かいい方法があればいいんだけどな……」
「…………」
一紗が言いにくそうに口をまごまごさせた。
「ん? 何かいいアイデアがあるのか?」
「ついたわよ」
俺の言葉を遮る一紗。話したくない内容なのかもしれない。
たどり着いたのは、地下牢。
多くの犯罪者たちのうめき声が聞こえる、地獄のような場所。
俺たちは鉄格子の並ぶそこをゆっくりと歩いていく。
そして、たどり着く。
入口から一番奥。石の壁で別室扱いになっているそこは、重罪人の特等席だ。
鉄格子の先に、加藤がいた。
囚人のように鉄球を足首に着けられた加藤。頬はこけ、目の下のできたクマが彼の人相を一層悪化させている。身体強化の薬はとっくに効果が切れてたからな。
俺の姿をその瞳に捕らえた加藤。ゆっくりと、その顔に血の色が戻っていく。
「下条おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお、てめえええええええええええええええええええええええええっ!」
鉄格子を揺らし、加藤は俺たちを威嚇した。
予想はしていたが、ひどいものだ。
「ぶっ殺してやるぜ! お前も赤岩もっ!」
「やっぱりぶっ殺したほうがいいんじゃいのかしら? こいつ」
一紗が深いため息をついた。それほど殺意は見えないが、呆れているようだ。
俺も加藤に罵声を浴びせられて、あまりいい気分じゃない。でも、だからといって安易に殺してしまおうというのには反対だ。
「大人しくしろよ。今、この状況が分からないお前じゃないだろ? このままじゃあ死刑にされてしまうかもしれないんだぞ?」
「はっ、殺すならさっさと殺せや」
「あれだけのことをしたお前だ。完全に無罪放免ってわけにはいかない。でも少し態度を改めるなら、ここよりましな場所に軟禁されるだけで済むかもしれない。その程度の話だったら、俺からつぐみを説得してみてもいいからさ」
「舐めんなよ下条……」
安易な同情は身を滅ぼす。加藤が改心する気がないというなら、俺に何も言うことはない。
「俺はお前が死刑になるのには反対だ。だけど、ここに閉じ込めておく件まで反対するつもりはない」
「勝手にしろや」
「ああ、もう勝手にするさ。帰ろう、一紗」
無駄足、と言ってしまえばそれまでだが、自分の気持ちを整理する上では有意義だったと思う。
加藤の件はつぐみに任せよう。死刑にならない程度にな。それが一番だ。
そう思い、踵を返して入口へと戻ろうとした……その時。
奇妙な音がした。
まるで金属捻じれるような、そんな音だった。
はっとして振り返ると……そこに、加藤がいた。
鉄格子の外にだ。
鉄格子はまるでプラスチックか何かのように無残に折れ曲がり、加藤はそれによってできた隙間から外に出たらしい。
筋力強化? いや、加藤の体はいつも通りで、筋肉が発達してるようには見えない。
じゃあ、金属を柔らかくする薬? あるいは曲げる薬?
どちらにしろ、加藤は〈創薬術〉で作った薬を使った。それは間違いない。
そう、加藤は使ったのだ。
「馬鹿なっ! 俺たちはお前のバッジを取り上げた! 入念に身体検査をして、薬だってすべて取り上げたはずだ! どうしてお前が薬を持っている! それも、この場で役立つような……都合のいい薬をっ!」
「…………はっ」
加藤は笑った。
大きく開かれたその口の中に、きらりと光る何かが見えた。
緑色に光輝く、差し歯……。
それはそう、バッジに嵌め込まれた緑宝石と同じ……。
ま、まさか……。
「要はこの宝石が重要なわけよ。バッジでもブローチでもなんでもいいんだぜ。こいつはなぁ、あの人が俺に用意してくれたものだ。あの人は糞みてぇな貴族たちとは違うからな」
なんてことだ……。
加藤は歯に仕込んだ宝石を使って薬を作った。ここを脱出するのに必要な薬だ。
まずい……まずいぞこれはっ!
「加藤達也、そこを動くなっ!」
俺はそう命令した。
これで加藤は動けなくなる……はずだった。
「……っ!」
何食わぬ顔で、加藤はその体を動かした。
俺の〈操心術〉が効いてないのかっ!
「その顔、理解したみてぇだな。そうだぜ、俺にもうお前の〈操心術〉は効かねぇ。聞こえねぇからな」
……?
聞こえない?
俺の命令が聞こえないってことか? 耳に届いていないなら、〈操心術〉の効果は発動しない。でも、こんな近くではっきり言ってるのに、なんで聞こえないんだ?
耳栓? いや、そんなもの用意できるか?
まさか、薬で自分の耳を?
「俺ぁてめぇを傷つけられねえ。だがよ、自分自身を傷つける薬なら、制約の対象外だったよな?」
な、なんてことだ。
確かに、自傷行為に関して制約を設けたことはない。加藤が加藤の目や耳を傷つける薬を使ったとしても、何の問題にもならない
だが、加藤には以前使った俺のスキルが効いてる。俺を傷つけたり暴力を振るったり、危害を加えることなんてできないはずだ。
穴はない……よな?
「そうだなぁ、そうだぜ下条。俺の〈創薬術〉が最強であるように、てめぇの〈操心術〉も……認めたくはねぇが最強だ。俺は今、てめぇらを殴ることもできねぇ……」
「…………」
「だがよぉ、何もできねーわけじゃねぇぞ。お前ら二人がこの場で盛って、ヤっちまいしたくなるような薬作ってやるよ。これなら誰も傷つかねぇだろ? むしろお前ら二人の仲を祝福してるんだぜ俺は。まっ、元の世界で待ってる園田優は傷つくかもしれねぇがな」
「……っ!」
一紗が歯を食いしばった。
「おらっ、分かったらとっととそこをどけろや! 邪魔すんなら、マジでその薬お前らに使うぜ」
俺たちは、動くことができなかった。
なんてことだ……。
加藤を……このまま逃がしてしまうのか?
加藤は入念な準備をしていた。俺がもっと警戒していれば……こんなことには。
「仕方ないわね」
そう、一紗が言った。
「これ、貸しにしとくわよ」
一紗が跳躍する。
長い期間、迷宮で魔族たちと戦ってきた勇者一紗。その身体能力は俺なんかとは比べものにならないくらい高い。
ひゅん、と風が吹いたかと思うと、もう一紗は加藤に肉薄していた。驚愕のあまり行動を起こせない加藤を尻目に、彼女は目的を果たしていく。
一紗は、加藤の手にブレスレットをはめ込んだ。
見たことのないものだ。金と銀で豪華な装飾が施され、中央には赤色の宝石がはめ込まれている。
光が加藤の体を覆った。足元を見ると、まるで魔法陣のような美しい幾何学模様が描かれている。
「なんだ、一体どうなってるんだ一紗?」
「加藤を元の世界に送り返すわ」
は?
「元の世界って……。あの腕輪か? そういう魔具なのか?」
「あたしたち……ううん、『あたし』はあの魔具を見つけたわ。あんたが迷宮に潜り始める前の話よ」
え?
本当に? 元の世界に……帰れるのか?
「この話、つぐみしか知らないから」
「一紗……」
一紗が、泣いていた。
そうだよな、誰よりも元の世界に戻りたかったはずの一紗だ。その機会をこんな屑男に譲ってしまって、愉快なはずがない。
光に包まれた加藤の体が、徐々に薄くなっていく。この世界から、加藤という存在が消えているのだ。
「下条おおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ! 赤岩ああああああああああああああああああっ!」
俺と、ここにはいないつぐみの名を呼ぶ加藤。
大声で叫んでいるのだろうが、その声はかなり小さくなっている。加藤の体が消えそうなのに呼応しているんだろうな。
「覚えておけよ! 俺は戻ってくる。必ず、お前らを殺しに……ここに戻ってくるからなああああああっ! 忘れんなよっ!」
そして、加藤が消えた。
後に残ったのは、呆然とする俺、泣いている一紗、そして無関係な罪人たちだけだった。
こうして、加藤達也はこの世界を去った。




