天界への帰還
天界、中央神殿にて。
今、この地に集まっているのは天使たち。天界で生活をする住人のうち、おおよそ四割といったところだろうか。
中央神殿には巨大水晶が設置されており、ここでは下界の様子を観察することができる。天使たちはそれを眺めるために集まっているのだ。
中でも今、この水晶は専ら奇跡の正天使エリックの周辺を映し出している。人類との戦争を進め、この地をエリクシエルの楽園とするため活躍している〈神軍〉総大将である。
長きを生き、娯楽の少ない天使たちにとって、この度エリックが起こした大戦は格好の見世物であった。
主人公はエリック、そして彼に襲い掛かる兵士、魔法使い、そして勇者。たとえ勝者が分かっていたとしても、多くの人間が死んでいくその劇的な展開は、見世物としてはかなりレベルが高い。
天使たちは空想に耽った。エリックがピンチに陥り逆転するところを。あるいは未知なる第三の敵、卑劣な裏切り壮大な計略。物語を盛り上げる要素を妄想し、大いに楽しんでいた。
だが、現実として天使たちはこう理解していた。
エリックの勝利は揺ぎ無い、と。
かつて魔族との戦いのおり、勝てはしなかったものの魔族たちとかなり善戦したエリックだ。さすがに三巨頭には歯が立たなかったものの(本人は互角だったと豪語しているが……)、それでも並みの人間には敵うはずのない相手だった。
「な……なんということだ」
一人の天使がそう呟いた。
この場にいるものの気持ちを代言したその声を聞き、他の天使たちも一斉に心の声を漏らしていく。
「エリック様が……エリック様が死んだ」
「大戦の英雄が……あのような人間に」
「嘘だ……俺たちのエリック様が、あんな……ひどい、裏切りにあって」
エリックが、死んだ。
未だエリックの死を疑っている人間とは違い、天界の天使たちはいち早くエリックの死を受け入れた。彼らはエリクシエルの聖術とその制約について詳しくは知らないものの、そういうものが存在するという事実は理解している。そしてここにいる多くの天使たちは、これまでエリックとミカエラとのやり取りについて水晶を通して眺めていた。
「あの女、ミカエラを処刑すべきだ!」
「あの白い子犬は、ミカエラの首飾りを目指してエリック様を襲った! 誰の目にも奴の過失は明らかだっ!」
「そもそも前回国王を助けた時点で処罰するべきだった! あの子犬とミカエラの関係を見る限り、因果関係は明らかっ!」
「死刑だっ! 今、この地に向かっているあの女を、捕えて処刑するんだ!」
天使たちの叫びは、徐々にヒートアップしてきた。
その熱気はある種の暴徒にも等しい。もしこの場に上位の天使たちやエリクシエルがいなければ、おそらく何らかの形で暴走していたことだろう。
「静まれっ!」
低く、深みのあるその声に、誰もが押し黙った。
白光の正天使、ホワイトである。
見た目としては、白髪の中年男性。天使共通の白い羽をその背中に携えながら、この場の王のように振舞う男だった。
「諸君らの憤り、我もまた察しておる」
ホワイトの聖術――『白光』なくして水晶のシステムは起動しない。この場にいなくても聖術は発動するが、今回ばかりは彼も他の人間と一緒に下界の映像を眺めている。
彼とてミカエラのことを好ましく思っていない。しかし――
「だがあの者はクリストファーの予言書にその顔を連ねる正天使。エリクシエル様が正しき未来を望んでおる以上、悪戯に殺めてはならぬ! すべては天界のより良き未来のため……」
「…………」
隣の椅子に腰かけていたエリクシエルが笑う。
声は出さない。何を考えているのか、その表情から判断することは難しい。
「し、しかし、だからと言ってあの者を許せというのか?」
「正天使が死ぬなどここ百年起きなかった災厄! ましてや味方の過失によって死んだ者など皆無であろうっ!」
「不吉、そして何たる不祥事か! そもそもわしはあ奴が気に入らんかった! 無能のくせに正天使などになりおって……。ミカエラは死刑にすべきじゃ!」
「殺せえええええええええええええええっ! 奴隷となる人間以下の大罪人が! 屑には死を!」
「殺せっ!」
「殺せっ!」「殺せっ!」「殺せっ!」「殺せっ!」「殺せっ!」「殺せっ!」「殺せっ!」「殺せっ!」「殺せっ!」「殺せっ!」「殺せっ!」「殺せっ!」「殺せっ!」「殺せっ!」「殺せっ!」「殺せっ!」「殺せっ!」「殺せっ!」「殺せっ!」「殺せっ!」「殺せっ!」「殺せっ!」「殺せっ!」「殺せっ!」「殺せっ!」「殺せっ!」「殺せっ!」「殺せっ!」「殺せっ!」「殺せっ!」「殺せっ!」「殺せっ!」「殺せっ!」「殺せっ!」「殺せっ!」「殺せっ!」
悲鳴のような叫びが、周囲に木霊した。
白光のホワイトは思わず主であるエリクシエルに目線を移した。もはやこの世界の主である彼女をおいて、事態の収束を図ることは難しい。
「いかがいたしますか、エリクシエル様?」
専用の鑑賞席で様子を眺めていたエリクシエルは、それまでずっと無言だった。怒りか、悲しみか、呆れか、それともまさか喜びか? 主の一挙一動を見極めようと、周囲の天使たちは押し黙る。
「うふふ……」
やがて、エリクシエルが笑った。
「うふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ」
ホワイトは戦慄した。
創世神エリクシエルのこのような姿は見たことがなかった。確かに笑っているのだが、その笑いには何か恐ろしいものが込められているような気がしてならない。
「うふふふ……愚かなミカエラ。まさかこれほどまでとは、うふ……うふふふふ、とても良いことを思いつきました」
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(やっと帰ってきました……)
人類とエリックとの戦いから逃げ出したミカエラは、故郷である天界へと戻ってきていた。
ミカエラがいれば、下条匠たちに変な希望を与えてしまう。
そしてエリックも自分を必要としていない。
ならば天界で引きこもっているのがミカエラにとって上策。そう判断してのことだった。
(……妙ですね)
周囲の様子がおかしい。
明らかに、空気が悪い。
(エリックが勝利して浮かれていると思っていたのですが……なぜ……? 私?)
確かに、ミカエラはこれまで天界で快く思われていなかった。
しかしそれはミカエラが無能ゆえの嘲り。バカにされて、笑われて、時にはからかわれるようにゴミを投げつけられる。そういった心無い悪戯や迷惑行為を受けるだけだった。
だが今、ミカエラは明らかに周囲から敵意を感じている。
激しい憎悪はそれだけで人を殺してしまいそうなほどに強く、気の弱いミカエラはその場から逃げ出してしまいたいほど。
もっとも、ミカエラにとってここが逃げてきた場所なのだ。今更どこか別のところに行く意味など……なかった。
突き刺さる視線におびえながら、ミカエラは神殿へとやってきた。
ここにいるエリクシエルへ報告を済ませなければならない。正直なところ暴言の件もあってあまり顔を合わせたくないのだが、天使である以上これは避けて通れない道だ。
嫌だからといって仕事を放棄したりなどはしない。ミカエラにはそれだけの誠意があった。
椅子に座るエリクシエルへ、片膝をついて頭を下げる。
「帰還しました、エリクシエル様」
「うふふふふふふふふふふふふふ」
「え、エリクシエル様?」
「うふふふふふふふふふふ」
ミカエラは、この時初めて理解した。
自分が、何かとてつもない失敗をしでかしてしまったのだと。




