天使のスパイ
グラウス共和国首都、東の門にて。
この出口も例にもれず、やる気のない避難民によってごった返していた。
暴動が起きているというわけではない。他の場所と同じように、平和だったころの名残と勇者の功績により、人々の緊張が欠如している状態だった。
このまま自然の避難に任せていては、列は一向に進まないだろう。それはエリックの到着を間近に控えたこの状況においては、あまりに不味すぎる。
誰かが、緩慢な彼らの動きを刺激しなければならない。
「みなさーん」
声を上げたのは玉瀬美織。
彼女は避難民の誘導を手伝っていた。
麗しき美少女である彼女の容姿は、こういった誰かから注目を集め誘導する作業にはうってつけだった。
「あ、あのぉ、こっちでーす!」
双子の妹、ひよりもまた姉を手伝っていた。彼女は聖杯による洗脳を受けていないため、直接虐殺を働いたわけではない。姉と違って罪などほとんどない身分なのだが、それでも身内の心情を察して手伝っている状態だ。
「大きな荷物は置いて行ってください。大通りの広場と商会の倉庫を解放しています」
「門を出て北の道へは向かわないようにしてください」
「大丈夫ですか?」
その他、近衛隊の少女たちも一緒になって働いている。兵士としての能力の低い彼女たちは、こういった避難の誘導や警備などといった仕事にいつも駆り出されている。
取り立てて肉体労働というわけではないが、とにかく人が多い。したがって美織も、目の回るほどの忙しさを感じていた。
しかし、嫌ではない。
自分で言い出したことであるし、何より美織にとっても嬉しかった。
こうしているだけで、罪の意識が消えていく。
こんな形で労働することが、心地よかった。
ふと、誰かの転ぶ音が聞こえた。
「うわあああああん!」
膝をすりむいている子供だった。
美織はすぐさま彼に駆け寄った。
「大丈夫? 待ってて、今綺麗な水を……」
初級水魔法、〈清き水〉は誰にでも扱える簡単な魔法だ。美織も、そしてひよりもすでに身に着けている。
美織は魔法の詠唱を唱えようとして――
「だ、騙されるな!」
誰かに、止められた。
声を上げたのは、一人の男だった。
美織はその男に見覚えがなかった。もっとも、長く冒険者としてこの都市を離れていた美織なのだ。周りに面識のない人間が多いのは当然のこと。
「俺は見たぞ! 北の村で、暴れまわってるこいつの姿を!」
「……そ、それは……」
否定はできなかった。
かつて〈神軍〉として暴れまわっていた美織。自分で止めることはできなかったが、その時のことはぼんやりと覚えている。
だからこそ、罪の意識を感じてこうして働いていたのだから。
この男の発言を、予想していなかったわけではない。
でも、我慢することができなかった。
自分のせいで、多くの人が傷ついた。たとえ悪者だと罵られることになろうと、いてもたってもいられなかった。
多くの村人は虐殺によって死んだ。だから美織のことを直接知っている人間はいないと推測できる。
……などと、甘い期待を抱いていたが、やはり人の罪というのはどうあがいても隠し通せるものではないらしい。
「この女は敵の味方なんだ! きっとスパイ目的でここに潜入しているに違いない。みんな協力してくれ、こいつを捕らえて大統領に引き渡すぞ!」
不安に駆られた男は、大衆を扇動するようにそう言い放った。
だが……誰も動かない。
皆が美織を信じていた……からではない。かといって男が嘘をついていると思ったわけではない。
「おい……今の話、本当か?」
初めに美織が聞いた声は、そんな男性の声だった。
こちらに向かって言ったわけではない。周囲の者たちに真偽を問いたいといったニュアンスに聞こえる。
「そ、そういえばこの女。見ない顔だよな」
「ああ……こんなかわいい女の子、俺、見たら絶対忘れねーよ」
「じゃあ潜入って話は本当か? この行列も、俺対を逃がさないためにわざと生み出した?」
「勇者様と同郷って話は嘘か?」
ざわざわと、ありもしない妄想の話が広がっていく。
「ち、違うわ! あたしは本当に下条君の知り合いで、みんなに助けてもらって……」
美織は必死に大衆へと語り掛けた。
だが彼らは美織の話も、そして最初に彼女を糾弾した男の話も聞いていない。
……不安が伝播していく。
「お……おい、話が違うぞ? 敵がもうこの中にいるのか?」
「天使って人間みたいなやつなんだろ? 翼も隠せるって聞いた。まさか……もう……手遅れなのか?」
「くそっ、こんなところにいたら俺まで殺されちまうっ!」
「うおおおおお、出せ! 俺たちをここからだせ!」
美織の存在が、緩慢としていた人々の行列に火をつけた。
だが災害時にこの行動は悪手であった。人々は狭い門に詰めかけ、まるでせき止められた川のように人の流れを遮ってしまう。
「み、皆さん! 落ち着いてください! まだ間に合います。きっと……」
美織は必死に彼らを止めようとした。そうしなければ、勢い余って怪我してしまうかもしれないと思ったからだ。
「なんで俺たちの邪魔をするんだ! 逃げられたら困るのか?」
「くそっ、やっぱりこいつ……敵のスパイなんだ!」
今度は、みんなが明らかに美織を見ていた。
敵意だった。
(どうして……)
美織は悔しかった。
こんなことをするつもりはなかった。たとえ自分が罵られたとしても、少しでも避難の手助けになれればいいと思っていた。
それがまさか、自分自身が避難の妨げになってしまうとは……。
(あたしなんて……いない方がよかったのかな?)
そう、心の中で絶望した。
抵抗する気はなかった。すればするだけ疑われてしまうからだ。
「お姉ちゃん!」
ひよりは遠い。秩序なく動き回る大衆が、彼女の行動を邪魔しているからだ。
男の手が伸びるのを見て、美織は目を閉じた。何をされるか分からないという恐怖があったのかもしれない。
捕らえようとしているその手を、美織はただ受け止めようとして――
突然、体が浮くのを感じた。
「…………?」
誰かに、抱きかかえられている。
そう理解したときには、目を開いていた。
下条匠だった。
「……きりがないな。美織」
いわゆるお姫様だっこされている状況だった。
(下条君……)
美織は胸が高鳴るのを感じた。
「少しここから離れよう」
そう言って、匠はこの場から離れたのだった。




