避難の遅延
ミカエラとの軽いひと悶着ののち、エリックはすぐに首都への歩みを再開した。
俺を退け、鈴菜を退けたエリックに恐れる者など何もなかった。
兵士たちが散発的に攻撃を仕掛けたが、足止めが精いっぱいだった。それも奴の攻撃反射が自動的なため、効果は薄い。
兵士たちにその場を任せ、俺は一足先に首都へと戻ってきた。
もはや敗北は必死。ならば避難民を誘導するためにと、こうしてここに戻ってきてしまった。
逃げ帰ってきた、と言ってしまえばそれまでだった。しかし俺の攻撃が通じないと分かった以上、わざわざ戦場にいる意味は薄い。
それに、つぐみから是非避難誘導を手伝って欲しいと頼まれていた。なぜ俺にその役が回ってきたのかは知らないが、わざわざ言ってくるということはそれなりに厳しい状況なんだと思う。
断る理由もない。
首都の防壁近くにやってきた俺。
「どういうことだ?」
俺は驚きのあまり思わず立ち止ってしまった。
あまりに、人が多すぎる。
はっきり言ってエリックはもう目と鼻の先だ。俺だってここに来るまで走って三時間程度だった。足止めはしてるからもう少し時間を稼げるとは思うけど、日が落ちるまでには奴がここに到達する。
避難とはそれほど時間のかかるものなのだろうか?
俺は門の前に長蛇の列を作ってる人たちへと近寄った。
入口が混雑しているのかと思ったが、どうやらそうではない。綺麗に整列はできているし、喧嘩や騒動も起きていない。
ただ、皆が異様に遅い。
笑いあったり、あくびをしたり、平和そうだと言ってしまえばいい事のように思えるが、緊急事態における人間の態度としては……問題があると思った。
「そこの人」
俺は列の中で雑談をしている男たちに話しかけた。
彼らは話に集中して一歩も動かず、それゆえに列の進行に支障をきたしていた。それでも余計な騒動に発展してないのは、この緩慢とした平和な空気のせいなんだと思う。
喧嘩がないのはいいことなんだけど、みんなもっと真剣に避難してくれないか?
「あんたたちさ、もっと真剣に逃げようと思わないのか? もうすぐ敵がやってくるって話は聞いてるだろ? 殺されたりしたらどうするんだ?」
「はぁ、あんた知らないのか?」
この男、冗談を言っている様子はない。本当に俺に対して呆れているようだった。
「勇者様が戦ってくれてるんだ。こんな急いで外に出ても無駄無駄」
流れ者か? 俺の顔を知らないらしい。
「……勇者なら俺だ」
「なーんだ、もうやっつけたのか。安心した」
と、何やら変な勘違いをさせてしまったらしい。
ここで、『歯が立たず倒せませんでした』なんて不安をあおり過ぎても困るな。適当に言葉を濁して……。
「確かに敵軍の一部は倒したけど、残った天使がこっちにやってきてるんだ。頼むから真剣に避難してくれないか? 命に係わることだぞ?」
「聞いた聞いた。この間の巨人の騒動の時も同じことを聞いた。でも俺たち大丈夫だったっしょ? 勇者様心配性過ぎ」
「巨人の時はぎりぎりの戦いだった。本当ならもっと多く被害が出てたかもしれないんだ」
「でもほとんど死人でなかったんだろ? 勇者様がいれば世界は救われるんだ」
「…………」
「今度の敵はなんだ? 天使って聞いたぞ。はははは、魔族でもでっかい怪物でもない、ただの羽根の生えた人間に何ができるんだ? なんなら俺が矢で射殺してやろうか?」
…………なんてことだ。
俺はこれまで何度もこの国の危機を救った。そのたびに人々は救われ、安心して生活できるようになっていった。
しかし平和な時代が、人々の感覚を鈍らせた。口でどれだけ言っても、脅威が伝わっていない。
ましてや今回攻めてくるのは、天使のエリックだ。一目でその異様さを理解できた巨人とは違い、奴はここから見ることのできないほどの小さい存在だ。しかも魔法や攻撃反射といった奴の力は、恐怖を煽りにくい。
せめてテレビか何かがあれば、この脅威を迅速に伝えられたかもしれない。兵士の多くがケガを負ったこと、暴れまわっていた〈神軍〉のこと、そして奴は聖剣・魔剣も魔法も使えるという事実。巨人ほどの脅威ではないが、まず間違いなく多数の死者がでる規模だ。
ダメだ、この人は話にならない。
他の人を……。
「おい、あんた」
俺が次に目を付けたのは、大きな荷車を引く老人だった。
人力だが、小さな屋台程度の大きさがある。いうまでもなく引いてくるのは重労働だろう。何よりその大きさが通行の邪魔になっている。
「その大きな荷物、どうにかならないのか?」
「わしゃ、行商じゃけーのぉ。この荷車がなけりゃ一文無しじゃ」
「命の危機だぞ! 財産とか心配してる場合じゃないだろ? 家に置いとけなかったのか?」
「じゃけども、泥棒がのぅ……」
……埒が明かなかった。
他にも、多くの人と話をした。
大型動物を連れてきている者。
巨大な家具を抱えている者。
酒に酔った男。
子供や親を探す者。
悪気がない者、ある者千差万別。ただ共通しているのは、危機意識の欠如。
……つぐみが避難誘導を手伝って欲しいと言っていた理由が分かった。
つぐみは勇者である俺なら彼らを説得できると思ったのかもしれない。だけど彼らは俺の言うことを聞いてくれない。
いったい、どうすれば……。
「……東の門で暴動だってよ」
悩む俺の耳に届いたのは、人々が話しているそんなうわさ話だった。
「確か勇者様と同郷の女の子がいた場所だよな。この前まで敵の軍で働いてたっていう」
美織とひより?
二人は避難を手伝っていると聞いていた。これまで〈神軍〉として悪事を働いてきたことへの罪悪感からなのか、この仕事を買って出てくれたらしい。今は近衛隊と一緒になって行動しているはずだが……。
まさか、暴徒に襲われたりしてないよな?
俺は急に不安になってしまった。
「…………」
どちらにしろ、ここにいても何も変わらない。ならば事件が起こっている向こうを手伝いに行くのも……選択肢の一つか。
俺は美織たちのもとへと向かうことにした。




