ミカエラの戦い
エリックは傷を癒した。
確率操作、と言っていた奴の『奇跡』の聖術は、あらゆる可能性から自分にとって都合の良いものを選択し、現実のものとする能力。
たとえどれだけ荒唐無稽でも、屁理屈でも不可能でも、ほんの少しでも可能性があれば……実現可能だということだ。
訳が分からない。そんなこと言い始めたら、やろうと思えば何でもできてしまうじゃないか。
もう、誰もエリックを止めることができない。
俺たちは絶望に打ちひしがれていた。
「そこをどけ」
動くことのできない俺たちに、エリックはそう言い放った。
「お前たちは殺さないでおいてやるが、邪魔をするというなら容赦はしない。抵抗する気力がないならさっさと道をあけろ」
く……。
このまま、素直に道を譲るしか方法がないのか?
いや、少しでも避難の時間を稼いでおきたい。なんでもいい、奴の注意を引き付けるような話題があれば……あるいは。
「お、お前は――」
何か適当なことを口走ろうとしていた俺だったが、最後まで言い切ることはできなかった。
上空から鳥のように舞い降りた天使が、俺とエリックの間に割って入ったからだった。
ミカエラだ。
以前彼女が言っていたことを思い出す。おそらく、エリックに踏みとどまるよう説得してくれるんだと思う。
「…………」
他人である俺の目から見ても、明らかに不機嫌になっていくエリック。とても他人の話を聞いてくれるようには見えない。
止めた方がいいのか?
いや、そもそも俺が止めてどうなる? 人間が庇うような真似をするのは、火に油を注ぐようなもの。裏切り者だとさらに罵られてしまうのは目に見えている。
俺たちは黙って様子を見守ることしかできない。
もし、命の危険が迫っていると判断したときには……助けるしかないと思うが。
「エリック……」
「…………」
「この争いを、止めることはできませんか?」
ブチッ、とエリックの血管が切れる音がしたような気がした。
もちろんただの気のせいだ。でもそう思わせられるほどに、奴の殺気が膨れ上がった。
……逃げろ、ミカエラ。
ここは勇気を出すべき時じゃない。お前が何を言っても、この男は絶対に止められない。
頼む! それ以上何も言うな! 空気を読んでここから立ち去ってくれ。
「エリクシエル様の偉大さを諭すためとはいえ、わたしたちは焦り過ぎたのです。もっと時間をかけて、ゆっくりと人々と対話して、手を取り合って布教を進めるべきです。暴力や暴言は憎しみや怒りしか生みません。エリック、どうか私の言葉に耳を傾けてください。これまで死んでいった人々にも、涙を流してくれる者たちが――」
「黙れえええええええええええええええっ!」
ツーン、と鼓膜がしびれるような感覚。怒りに震えたエリックの声は、激しく空気を振動させるような声を上げた。
一瞬、俺は頭を殴られたのかと錯覚してしまった。それほどまでに、ひどく大きな声だったのっだ。
「くだらんっ! 貴様それでも誇り高き正天使か! 曲がりなりにもエリクシエル様から聖術を賜りし正天使が、何をバカげたことを言っている! 愚か者もここまでくれば哀れでしかないわっ!」
「し……しかしエリック!」
「人間であればなぶり殺しにしているものを……。同族を殺すのは軍人にあるまじき行為であるゆえ、自重はする。だが……これ以上俺を怒らせるな。……自分で、止められそうにない」
「…………」
ミカエラは、完全に黙り込んでしまった。
まさかここまで怒鳴られるとは思っていなかったのだろうか?
彼女もある程度は決意していたに違いない。しかしこのエリックという男は、軍人を自称するだけあって……叱ることも一流らしい。全く関係ない俺でも気圧されているほどだ。直接その怒りを浴びているミカエラは……意識を保っているだけでも立派だと思う。
「……なんだ、これは?」
不機嫌なエリックが次に目を付けたのは、ミカエラの胸元に身に付けられたネックレスだった。
あれは……確かモコからもらった骨を使って作ったものだよな?
見るからに手作りのそれを見て、エリックは何を察したのだろうか?
「これはなんだ? ……雑な作りだ、売り物ではないな?」
「も……もらい……ました」
「誰に?」
「…………」
ここで名前を出せば、万が一ではあるがモコに危害が及ぶ可能性もある。
そう思ったのか、ミカエラは何も言わなかった。
「この愚か者があああああああああああああああ!」
そんなミカエラの態度に激怒したエリックは、ミカエラの頬を叩いた。
「我ら天使は天界に住まう尊き種族。それが人間などと友情だと愛情だのを育むとは……聞いたことがない! 貴様は自分がどれほど非常識で卑しい行動をしているか自覚しているか!」
怒りに震えるエリックは、ミカエラのネックレスを奪い取った。
「あ……」
ぶちっ、と千切れた留め具の音が、周囲に響く。
ちぎれたネックレスを懐にしまったエリックは、怒りに震える拳を木に叩きつけた。
「惰弱な貴様の心は、一から鍛えなおさねばならんっ! これは貴様が改心するまで預かっておく! 猛省しておけ!」
「か、返してください!」
ミカエラは必死にネックレスを取り戻そうとした。しかし身長も筋力も何もかも上のエリックから物を取り戻すことは、不可能に近い。
子供が大人にあしらわれるようだ。
「…………」
瞬間、エリックが息を止めた。
血だ。
暴れまわるミカエラの爪が、エリックの頬を傷つけてしまったのだ。
「……ふんっ」
エリックがミカエラを蹴り飛ばした。
「俺はこの先の町を滅ぼしに行く。邪魔をするな。俺の意思はエリクシエル様の意思。逆らえば……同族と言えど命の保証はできない」
「あ……ぅ……」
みぞおちに完璧なクリーンヒットを決めた一撃だ。悶絶気味のミカエラは、起きることすらできず地面にうずくまっている。
こうして、俺たちは何もできないまま……ミカエラとエリックの話し合いは終わった。
一方的な展開に、俺はただただ後味の悪い気持ちでいっぱいだった。
その隣で……。
「…………」
エリックの顔をずっと見ている、鈴菜の目が少しだけ気になった。




