つぐみの劣情
グラウス共和国官邸、旧王城にて。
赤岩つぐみは執務室で書類を整理していた。
大統領は様々な場面で決断を求められる。地方からの陳情、大規模な公共事業の認可、特別税に関する許可、他国に関する報告や軍の動向。一つ一つが、下手をすれば国家に重大な被害を与えるかもしれない案件だ。
つぐみにはつぐみの思惑がある。彼女の意向に沿っていない部分は詳しく追及しなければならない。
独裁者だ、と罵られればその通りだと言うしかない。しかし真の平等と繁栄をもたらすためには多少の無茶も必要になってくる。
外はすでに暗い。深夜というほどではないが、それなりの時間だ。
「疲れた」
一人、そんなことを呟きながら赤毛を弄った。それなりに手入れをしているつもりだが、どうにも癖が強くてうまくまとまらない。少しコンプレックスなのだが、それを周囲に漏らさないようにしている。
(匠はこういった髪質の女は嫌いだろうか?)
最近何かと世話になっている下条匠のことを思い出したが、すぐに頭を振って否定する。これではまるで恋する乙女のようではないか。
彼の事は信頼しているが、二人の女と同居しているという事実は決して受け入れられない。女性はモノではないのだ。夫婦とは二人で一対。
どうすれば彼を正しい状態に戻せるだろうか? などと考えすぐにやめた。今は仕事の時間。大統領としての職務を全うする時だ。
いろいろなことを思いながら、書類にサインをしたり、時には後で問い詰めようと判断したりしていた。
ふと、扉が開く音が聞こえた。
「璃々か?」
ノックもせず無断で入ってくるのは彼女しかいない。そう思って深く考えることもせずに出た言葉だった。
だがすぐに気が付いた。足音が彼女と違うのだ。
顔を上げると、そこには意外な人物がいた。
「よぉ、赤岩」
加藤達也。
刈り上げた金髪を持つ、不良。クラスメイトなら誰しも知っている、かかわりあいたくない男だ。
だが学校の風紀を乱す者をつぐみが許せるはずがない。これまで、衝突してきた回数は数えきれないほどだ。
「加藤……か」
つぐみは驚いた。
旧貴族の亡命地には、つぐみが放った間者が何人かいる。本来であれば、異世界召喚された人間はすぐに報告されていないとおかしい。
しかし、つぐみはそういった報告を受けていなかった。聞いていたのは、『最近奇妙な男が貴族たちに囲われて生活している』という情報であった。
変わった人間が来た、という報告があってもそれが加藤と結びつくことはなかったというわけだ。
うかつだった、とつぐみは自らの判断を嘆いた。
異世界召喚は貴族たちだけの特権。つぐみの間者は平民のメイドや農民。加藤の容姿もこの世界の人々とそう違うわけではないから、見分けがつかないのは当然だ。
ともあれ、過去の判断を悔やんでも仕方ない。
問題は、今、この場に加藤が立っているというその事実。
「何をしに来た? いや、そもそもどうやってここに入ってきた。許可証は持っているのか?」
「許可証? へへっ、寂しいこと言うなや。俺とお前の仲だろ?」
「何を馬鹿なことを言っている……」
そもそも璃々たち兵士は何をしているのか? 明らかに不審者であるこの男を、放置しておく必要などないはずだ。
などと、一瞬考えていたから気が付かなかった。加藤が距離を詰めてきている、そのことに。
つぐみは急いで椅子から立ち上がった、が、加藤の方が早い。迫りくるその手を……避けることはできなかった。
加藤はつぐみの両胸を弄った。下着の上から、という布一枚を挟んだ状況であっても激しい嫌悪感は吐き気を催すほどだった。
「…………っ!」
つぐみの顔は羞恥に歪んだ。が、次の瞬間加藤の腕を掴んで、懐に入り込み一気にその体を投げた。
背負い投げだ。
彼女は元の世界で柔道を習っていたため、こうしたことができる。
つぐみは両胸を押さえながら、加藤から距離を取った。
「貴様っ! 相変わらず最低な男だな。この国では……いや日本でも女性に対する淫行は処罰される。誰か、誰かいないかっ! この男を捕らえ――」
「誰もいねぇよ」
そんなことは重々承知だ。だから、大声で遠くにいるであろう兵士たちに呼びかけているのだから。
「全員、俺が眠らせたからな」
「何っ!」
つぐみは心の中で舌打ちした。
つぐみは馬鹿ではないから、先ほど気が付いている。加藤がここまで来るのを助けたツールは、異世界人の男が持つ固有スキルに他ならない。
しかし、『兵士を眠らせて』というのは、つぐみにとって最も受け入れがたい最悪の結果だ。加藤は兵士たちに太刀打ちできるほどのスキルをもっているということだ。それはきっと、匠が持つ〈操心術〉に引けを取らないものなのだろう。
思ったよりもはるかに危機的な状況だ。
加藤はマントに張り付いた埃を払いながら、ゆっくりと立ち上がった。そして、懐からあるものを取り出す。
瓶だ。中には茶色い液体が入っている。
「体がしびれて昏睡状態になる薬だぜ。嗅げば一日中目を覚まさねぇ。てめぇの取り巻き連中は、今頃のんきに夢の世界だろうよ」
「それが貴様のスキルというわけか。まったく、なぜこのような男が……」
つぐみは、言葉を続けることができなかった。体に異変を感じたからだ。
(なんだ……これは……)
体が熱くなっていくのを感じる。変な汗が出ている。呼吸は乱れ、頭が高熱にうなされているかのようにぼんやりとしてきた。
「あ……ふぁ……」
耐えられなくなり、思わず変な声を上げてしまった。胸の奥からこみ上げる劣情を、抑えることができない。
「分かるかぁ、赤岩」
近づいてくる加藤の手を、振り払うことができなかった。
加藤の息が、つぐみの顔に当たる。
それはどんな砂糖菓子よりも甘く、そして魅力的に感じた。
彼と唇を重ね、一夜を共にしたらどれだけ幸せになれるだろうか。
つぐみはすぐに己の妄想を打ち消した。そんなことがあってはならない。絶対に許されない事態だ。
「……他の奴等は全員眠らせただけ。この媚薬を使ったのはてめぇが初めてだ」
どうやら、この状態は薬のせいらしい。
つぐみは少しだけ安堵した。しかし原因がわかっても体の異変が消えるわけではない。
「何の……ために」
「公開処刑してやるよ。大統領閣下が変態女だって、国民に教えてやらねぇとな。媚薬をばら撒くのはその後。てめぇに恥をかかせてからだっ!」
加藤の手が、つぐみの肩に触れた。
彼に触れられるたび、電流でも流れたかのような刺激が体中を駆け巡った。
彼が欲しい。
もっと欲しい。
「はな、せ」
「はっ、女の顔になってきたじゃねーか赤岩」
それでも、大統領として強靭な精神力をもった彼女だ。ありったけの理性を振り絞り、彼の手を振り払う。
しかしそこが限界。つぐみは劣情の奔流に耐えることができず、床に倒れてしまった。
加藤はそんな彼女に触れもせず、しかし離れもせずずっとその場に立っていた。
「おらぁ、ねだってみろよ赤岩! 我慢できねぇんだろ。『加藤様の奴隷になります』だ! 俺の靴、犬みてぇに舐めて忠誠を誓え」
加藤は何もしない。
つぐみは我慢する。
どれだけ、その状態が続いただろうか。一時間かもしれない。あるいは10分程度かもしれない。
つぐみは耐えた。ひたすらに耐えた。
この世界に来た時のことを思い出した。
メイドとして、匠のもとで働いていた時のことを思い出した。
革命を起こした時のことを思い出した。
大統領になった時のことを思い出した。
匠に助けられた時のことを思い出した。
これまで、この世界で積み重ねてきた様々な出来事が、急に頭の中に浮かんできた。
それはまるで、死にゆくものの走馬燈のように。
この時が、つぐみの限界だったのかもかもしれない。
つぐみは這うようにして、ゆっくりと加藤のもとに近づいた。楽になりたかった。快楽に身を委ね、イヌやネコのように何も考えたくなかった。
「か……加藤……さ……ま……」
つぐみは涙を流していた。
くやしかった。
もう終わりだ。
これから自分は加藤たちの慰み者にされてしまう。貴族たちに革命を起こした自分だ。普通の奴隷以下の扱いを受けることは間違いない。
そんな絶望的な未来を想像してもなお、興奮に身を震わせている自分の体が許せなかった。
「奴……隷……に……」
「つぐみっ!」
その瞬間、時が止まった。
加藤、そしてつぐみは扉の方を見た。
そこには、剣を構えた少年が立っていた。
取り立てて特徴のない、中肉中背の黒髪少年。しかしその瞳に灯る正義の心だけは、他の誰よりも強く輝いている。
彼はつぐみが、今、この場で最も望んでいた人物。
下条匠。
「〈白王刃〉っ!」
瞬間、100を超える白い刃が加藤へと迫った。




