聖杯の効果
マルクト王国北方、平原にて。
最北端の雪原地帯からやや南下したこの地には、なだらかな平原が広がっている。近隣の山岳地帯から流れる川によって、肥沃な土と水が補給されているため、いくつかの小規模な農村が点在していた。
かつて魔族によって侵攻を受けたこの地であったが、現在はそれなりに復興が進んでいる。道路も整備され、西のマルクト王国や南のグラウス共和国に、とれたての野菜を供給していた。
だが今、牧歌的な平和を謳歌していたこの地に……再び悲劇が舞い降りた。
赤、赤、赤。
赤く燃えさかる家。大地にしみ込んだ鮮血。夕日に染まったかのようなその光景は、ただ眺めているだけで吐き気を催すほどに残虐だった。
ここは地獄か? 悪夢の世界か?
一般人が直視することは難しい、そんな恐るべき光景ではあるが、これは現実の出来事。
〈神軍〉。異教の軍が起こした、悲劇の事件であった。
「おいおい、こいつはすげーな」
元マルクト王国将軍、ヨーランはしかめっ面でそうぼやいた。歴戦の将軍である彼をもってしても、ここまで……残虐な光景は初めてだった。
戦いと勝利、そしてその名声をこよなく愛するヨーランにとって、敵を必要以上に殺したり痛めつけたりすることは無駄以外の何物でもない。どちらかと言えばリアリストな彼にとって、〈神軍〉の行いは明らかに異常と思えた。
「俺でもこりゃ……さすがにできねーわ。気が狂ってんだよなこいつら? 例の聖杯って奴は、こんな効果があったのか?」
「その通りだ」
答えるのはエリック。
すべては彼の仕業。といって〈神軍〉に虐殺しろとか命令したわけではない。ただ単に村を制圧しろといっただけだ。
にもかかわらず、〈神軍〉は村人を虐殺した。
〈神軍〉の中には人間もいるのだ。小悪党もそれなりにいたが、ここまで大虐殺に加担するほどではなかった。しかしそれが自主的に、ここまで暴れまわったのだ。
すべては、聖杯と呼ばれる例の赤い液体を飲んだため。それ以外に説明がつかなかった。
「俺ぁ、飲んだのに何も変化ないぜ?」
かつて、ヨーランはミカエラに勧められて聖杯を飲んだことがある。その恩恵を受けて、魔剣の力を強化することができたのは記憶に新しい。
もっとも、多少強くなった程度で下条匠に勝てることはなかったのだが。
「貴様が飲んだ量は少なった。おそらくミカエラが気を使ったのだろうな。自我を失わないほどに、自身の力を強化する程度」
ミカエラの優柔不断さが、ヨーランを救ったことになる。
「それにもともとが邪悪な人間には効果が薄い。心当たりはあるだろう?」
「…………」
邪悪、と言われてそうだと素直に頷けるほど、ヨーランは自分が極悪人だとは思っていない。
しかし、目的のために躊躇することはなく、時として人を死に至らしめてしまうことがあるのも事実だ。エリクシエル教がいてもいなくても、いつかは王国に対して反乱を仕掛けていたかもしれない。
悪人だとは思っていないが、野心のために悪事を行う勇気はある。
ヨーランは自分のことをそう称していた。傍から見れば悪人そのものかもしれないが、悪を行うことを優先しているわけでははないのだ。
「アッハハハハハハハハッ! 血! 血っ血血血! 肉肉肉!」
叫びながら村人肉を裂くのは〈神軍〉の隊長と呼ばれていた玉瀬美織。エリックを慕っていた様子だったが、裏切られたということだ。
同情はしない。ヨーランは弱いものや頭の悪いものは嫌いだ。騙す方ではなく騙される方が悪いのだから、安易に悲しんだりなどしない。
「飲まなかった奴らはどうすんだ? 追いかけなくていいのか?」
あの女には妹がいたはずだ。この場にいないところを見ると、聖杯の異常性を感じ取り逃げ出したのだろう。
「問題ない。所詮〈神軍〉など人間たちを脅すための前座に過ぎない。本当に必要な力は軍などではない。この天界一の軍人、エリックがいればすべて事足りること。逃げたい奴は逃げさせておけ」
このエリックという男にとって、〈神軍〉はそれほど重要でないらしい。そもそも人間それ自体にあまり関心がないように見える。
「んで、このままどうすんだ? 人間虐殺しまくってこの地上から根絶やしにする……っつーわけじゃないよな?」
「人間はエリクシエル様を称えるのに必要な奴隷。殺しはするが絶滅させる意味などない。国や世界を滅ぼしたりするつもりなどはない。むろん、貴様の命を取るような真似もな」
「…………」
「まずはグラウス共和国に向かう。勇者下条匠をこの手で打ち破り、この世界にエリクシエル様の偉大さを轟かせるのだ」
下条匠。
かつてヨーランを打ち破った勇者。多くの美しい妻を持ち、広い屋敷と絶対の名声を得た英雄。
それはヨーランが望んでも手に入らなかった、立ち位置であった。
「俺はゼオンを倒したあの男を下し、世界最強であることを証明してみせる! その後のことは何も考えていない。ヨーランよ、俺が下条匠を殺したのち、貴様に〈神軍〉の全権を授けよう。すべての人類がエリクシエル様を崇拝するよう、この世界の王となりエリクシエル教の布教に勤めるのだ」
「どのみち俺に逃げ場なんてねぇ。いいぜ、お飾りの王にでも操り人形にでもなってやるよ」
「ふん、期待しているぞ。さて、それでは次の町に向かうか」
エリックたちは虐殺を切り上げ、次の町へと向かった。
目指すは、グラウス共和国首都。
村を焼きながらであるから時間はかかるものの、少しずつ、そして確実に下条匠へと迫っている。




