エリクシエルとミカエラ
ここは天界。
人々が住む地上の遥か上、雲を超えたその先に存在する楽園。ここでは翼の生えた人――すなわち天使が暮らしている。
ミカエラはこの地に降り立った。
つい先日、下条匠のもとへ訪れていた時に起きた大事件。エリックが引き起こしたその暴挙を、主に報告するためであった。
この地でもっとも高貴なエリクシエル。彼女はいつも山頂の神殿で過ごしている。
ミカエラが降りたったのは、そんな彼女が過ごす神殿の中だった。
巨大水晶の前に立つエリクシエル。あれは地上を監視するときに使うものだ。ひょっとするとこれからミカエラが報告しようとしていることは、すでに彼女の耳にも入っているかもしれない。
それでもミカエラは言わなければならない。それが下条匠を……否、人類を救うために必要なことなのだから……。
「どうしたのですか、ミカエラ」
その声は可憐な旋律。
その美貌は輝く宝石。
創世神、エリクシエル。
ミカエラはエリクシエルのことが好きだった。
彼女のおかげで正天使になれた。天界の学園で劣等生として蔑まれていたあの日々を思い出すと、胸の奥からこみあげてくるものがある。
愚かなミカエラ。
クズのミカエラ。
陰口をたたかれていた、あの日々。
天使は二種類に分類される。
エリクシエルに認められた正天使。
エリクシエルに認められていない半天使。
その差は歴然。天界のあらゆる場面で効果を表す身分制度だ。彼女を正天使に引き上げてくれたエリクシエルは、母であり教師であり、そして神なのだ。
だが、そんなエリクシエルを崇拝するミカエラであっても、今、この時ばかりは思わずにはいられない。
かすかな、疑念。
奇跡の天使エリックはこの天界において有数の権力者だ。序列第一である創世神エリクシエルには及ばないものの、彼女を例外とすれば実質ナンバー2と言ってもいい。
そんな彼が、エリクシエルの意に反している。もし本当にそうならば、それはかなりの大ごとだ。到底ミカエラの手に負えることではない。
果たして、エリクシエルは一介の正天使である自分の主張に耳を傾けてくれるだろうか?
悩んでいても、仕方ない。
ミカエラは決断した。
「エリクシエル様は予言の成就を望んでいると仰いました。その気持ちは今でもお変わりありませんか?」
「何を言うかと思えば。何も……変わってはいませんが?」
「なら……報告したいことがあります」
ここからが、勝負。
「奇跡の正天使、エリック様の件です」
「エリック?」
「エリック様は下条匠を殺そうとしました。人間を差し向け、彼らを毒殺しようとしたのです。これは明らかに予言に反した行為です」
かつて、ミカエラはヨーランを扇動した。それはエリクシエルの命令であり、予言の成就を決定づけるための行動だ。
だがエリックの行動は明らかに予言に反している。結果的に下条匠は死ななかったが、もし死んでいれば未来の出来事が破綻してしまうのだ。
「しかも彼はこれから大きな戦を起こすつもりです。意味もなく人々が多く殺されてしまうかもしれません。エリクシエル様、どうかあなた様のお力でエリック様を止めていただけないでしょうか? 彼の率いる〈神軍〉はエリクシエル様に忠誠を誓う天界の軍。あなた様の命令があれば……きっと……」
「エリックも困った男ですね」
エリクシエルは深いため息をついた。
ミカエラはそれを見て、喜びを隠すことができなかった。
やはり、エリクシエル様はエリックの暴挙を知らなかったのだと。このまま彼の暴挙を包み隠さず報告すれば、必ず争いは回避できるのだと。
「お、仰る通りですエリクシエル様! 人間はあなた様を称える大切な信徒。むやみやたらに殺していいものでは……」
「……ミカエラ、あなたは勘違いをしています」
「えっ……」
一瞬、ミカエラは息をするのを忘れてしまった。
エリクシエルが何を言ったか理解できなかった。いや、本当は理解してるのかもしれない。ただ、心がそれを否定したがっているのだ。
「人間の命など我々天界の住人にとって野原に生える雑草程度。創世神である私のことを忘れてしまった愚か者は、特にね。傷つこうが死のうが一向に構いません。その断末魔の叫びで、私を楽しませてくれればそれがせめてもの罪滅ぼしでしょう」
「そ……そんな……」
邪悪ともとれるその発言に、ミカエラは顔が真っ青になっていくのを感じた。ほんの少しでも気を抜けば、そのまま気絶してしまうかもしれない。
「え……エリクシエル様。私に向けたその優しさを、ほんの少しだけでよいのです。地上に住む人々に……」
「ふふ……」
笑う。
「ふふ、ふふふははははははははは、あはははははははっ1」
エリクシエルが笑った。
ミカエラは動揺で心臓の鼓動が早まるのを感じた。エリクシエルは一体なぜ笑っているのだろうか? その原因に、全く心当たりがなかったのだ。
「以前から思っていましたが、ミカエラ。あなたは本当に愚か者なのですね」
「私……が、愚か? エリクシエル様、私の……どこが愚かなのですか?」
「…………」
すぅ、とエリクシエルは懐から一枚の絵を取り出した。
そこには……ミカエラとそっくりの天使が描かれていた。
「そう、これがあなた」
「こ……この絵はまさか、予言書……〈バイブル〉? でも私は、こんなもの見たことがない……」
「あなたに渡したものから抜き取っておいたのです」
「…………」
理解が進むにつれて、冷や汗が増していく。
「下条匠は〈バイブル〉に記されているから必要。ミカエラ、あなたも同じなのです。ここに記されているから、私はあなたが必要だった」
「エリクシエル様、私は……」
「あなたは私にとって予言を成就するために必要な存在だった。だから正天使に引き上げてあげたのですよ? まあ〈聖術〉が有能だったのは思いがけない誤算でしたが……」
「わ……私のことは……」
「無能な天使はあまり好きではありませんね。ミカエラ、あまり私に汚い言葉を吐かせないでください」
「…………」
気が付けば、ミカエラは涙を流していた。
「諸悪の根源を潰せば、未来は良い方向に向かう。エリックはそう考えたのです。いいですかミカエラ。優秀な頭脳を持つ者は、こうやって自分で考えて行動するのです。あなたのようにただ上から下へ命令を垂れ流すのは馬鹿のすることです」
「…………」
もう、ミカエラは何も言えなかった。
何かを口すると、倍になって悪意が戻ってくる。尊敬するエリクシエルの言葉に、ミカエラはもう耐えることができなかった。
「下条匠、彼は影響力を持ちすぎたのです。たしかに彼を生かしておけば私の勝利は揺るぎないかもしれません。しかし、だからと言って私に盾突く愚か者を生かしておくべきでないのは明らか」
「…………」
「ミカエラ、あなたがうまく下条匠に取り入っていれば、こうはならなかったのですよ? 少しは反省したらどうなのですか?」
「…………」
この後、しばらくエリクシエルからの小言が続いた。
最後には近くの半天使たちに引きずられ、神殿から追い出されてしまった。
気力を失ったミカエラは、ふらふらとしながら翼をはためかせ、地上へと向かった。




