燕の太刀
勇者の屋敷近郊、森に囲まれた道にて。
日隠月夜は考えていた。
〈黒虫〉と呼ばれる毒薬を受けた下条匠は、地面に倒れこんだままだ。この毒はそれほど即効性を持たないものの、一~二時間以内に確実に標的を死に至らしめる。
高度に濃縮された毒を、小さな羽虫に塗りたくる。この虫は何代もかけて交配を重ね、目標に向けて飛んでいくように設計されている。
毒は虫であり、虫は毒なのだ。有機物独特の動きで敵に迫る、小さな死神。逃れる術は……ない。
下条匠の近くには三人の人物がいる。頭領の意思に逆らい下条匠を暗殺しようとしている男――黄泉。そして彼の仲間らしき、翼の生えた人間二人。
月夜は知らない。彼女たちがなんであるかを。先ほど黄泉が言った天界とは何であるのかを。
だがごく一般的な日本人としての常識に当てはめるのなら、白い翼の生えた人間は天使。魔族とも人間とも違う、第三の異世界人。天界はおそらく彼らが住む世界であり、月夜が今まで知らなかった第三勢力。
黄泉は彼女たちの助力を得ていた。
「天使に協力を仰いだのは我。アジトの場所を彼女たちに教えたのも我。金を用意したのも仲間を殺したのも、すべて我の策」
「…………なぜ?」
月夜は疑問だった。
黄泉の協力があるとすれば、これまで〈黄昏〉に起こった不幸な出来事はすべて説明がつく。だがしかしそこまでして得たいものは一体なんであるのか? 月夜には分からなかった。
「我こそが、〈黄昏〉の頂点に立つべきであった。先代頭領は間違えたのだ。このような小娘に、誉れ高き暗殺集団の長を任せるなどとは……」
「……裏切り者」
「なんとでも言え。もはや変革の時は始まっているのだ」
黄泉は空を見上げながら、恍惚に酔った表情をしている。
「我はこの方たちの助力を得て、暗殺者の頂点に立つ。〈黄昏〉のように浮き草の集団ではない。もっと強く、もっと気高く、神に仕える至高の存在! よく聞け小娘! 天界は我を必要としているのだっ! この勇者の死をもって、我は天界にその実力を証明して見せようぞ!」
「愚かなり……」
黄泉は小刀を構えた。
そして月夜は苦無を構える。
一対一、ではない。黄泉の隣には天使らしき女が二人控えている。その実力は未知数。武闘派のようには見えないが、さきほど魔法のような技を使っていた。油断は禁物だ。
あの二人が介入してくれば三対一。勝機はかなり薄くなる。
だが、ここで逃げれば下条匠が死ぬ。
彼はクラスの女子たちを助けてくれた恩人。その中の一人である月夜としても、思うところがある。
そして彼の死は〈黄昏〉の敗北。並ぶもののない英雄を殺したのが〈黄昏〉となってしまっては、未来永劫悪役として語り継がれることになるだろう。
月夜は改めて追われる身となる。味方は永遠に誰もいない。そんな人生は、死んでしまうのと同じだ。
逃げるわけにはいかない。たとえ、どのように不利な状況であったとしても。
「――〈燕の太刀〉っ!」
まず最初に動いたのは黄泉だった。
〈燕の太刀〉。
小刀を構えたまま脚の力で跳躍。周囲の木々を利用しながら、まるで空を飛んでいるかのように天上を支配下に置いた。
その姿、まさに空を舞う燕のよう。
「…………」
じわり、と月夜は額に汗がにじむのを感じた。
〈黄昏〉副頭領黄泉。
黄泉は副頭領を任された紛れもない実力者。『自分が頭領にふさわしい』という主張は、決してうぬぼれているだけの発言ではない。中でも体を使った体術は、先代頭領からも一目置かれていた。
〈燕の太刀〉とは、目にも止まらぬ速さで敵を翻弄し瞬殺する暗殺術。そのあまりの速さにターゲットやその護衛が暗殺者の存在に気付かず、野鳥か何かと勘違いしてしまうほど。
中でも黄泉の放つ〈燕の太刀〉は超一流。これまで数多くのターゲットが、彼の技に倒れてきた。
だが――
「秘儀――〈蝙蝠の舞〉」
対する月夜が動き出す。
〈蝙蝠の舞〉。
これもまた〈燕の太刀〉と同様に高速で相手を殺す暗殺術。ただし両者には、決定的な違いが存在する。
日の下に生きる燕。
闇に生きる蝙蝠。
「な、何っ! 姿が消え……」
狼狽した黄泉の声が響く。
闇夜に溶け込む蝙蝠のように、月夜は己の姿を消失させた。息、体温、汗、五感から感じ取れるあらゆる情報を完全にシャットアウトし、森の木々、その下にできた影と完全に一体化した。
蝙蝠は忍び寄り、そして――牙を立てる。
「ぐああああああっ!」
背後に回った月夜は、黄泉の首に苦無を叩きつけた。
確かに黄泉の体術は超一流だったかもしれない。しかしそれでもなお、月夜は頭領であり優秀な暗殺者なのだ。
黄泉は認めたがらないであろうが……その実力差は明らかだった。
「なぜだ……なぜ……我を、助けない……」
瀕死の黄泉は、すがるように天使たちに手を伸ばしている。
「天使……殿……」
「…………」
天使は黄泉の様子を気に留めることもなく、空へ立ち去ってしまった。黄泉を助ける様子はない。
黄泉は致命傷を負った。
本来であれば即死させるのが暗殺者としての技であるが、黄泉ほどの実力者を完全に殺しきることはできなかった。しかしあの傷では、おそらくもう二分ももたないだろう。
「くくく……さすがは、頭領。これだけの力があるとは、やはり、我は……負けたのだな」
「…………」
「だが、もう毒は放たれた後。下条匠は死に、世界中がお前たち〈黄昏〉を恨むだろう」
「…………」
「解毒する方法はたった一つだけ。くく……くくくくくて……くく……」
黄泉は息絶えた。
「……南無」
天使は去り、黄泉は死んだ。
月夜はすぐに下条匠へと駆け寄った。息はあるがかなり弱い。毒はすでに回りきっているに違いない。
「…………」
悩むまでもない。すぐに解毒しなければならないのだ。
月夜は下条匠を背負い、森の中を駆けて行った。
次ノクタかな?(ネタバレ)




