黒の虫
町を襲う半天使たちを追いかけていた俺の前に現れた、忍者風のおっさん。
黄泉、と名乗るこの男は俺を邪魔した上に、俺を殺すと豪語している。
「お前、魔族じゃないよな? たぶん天使でもない。どうして俺の邪魔をするんだ? 早くしないと、あの天使たちが町を……」
「…………」
どうやらあまり話をしてくれるタイプの敵ではないらしい。
俺も時間がない。こんな奴と悠長に話をしている暇なんてないほどに。
「〈白刃〉っ!」
躊躇している暇はない。
俺は男に聖剣の技――〈白刃〉を放った。
「……っ!」
避けられた?
さすがに殺してはまずいと思って足のあたりを狙ったのだが、こうも鮮やかに避けられてしまうとは……。〈白刃〉って相当な速度だぞ?
人間もなかなか侮れないな。舐めてかかってたら殺されてしまうかもしれない。
俺は警戒を強めた。
謎の男――黄泉はそんな俺の警戒を知ってか知らずか、近づいてくる気配はない。片手で小刀を構えたまま、そっと懐からあるものを取り出した。
それは、黒い色の液体が入った瓶だった。
煙幕? いや……まさか毒か?
脳裏によぎった、つい先日の暗殺未遂事件。
忍者が暗殺者なんてできすぎてて苦笑いしてしまうが、もし、この男が例の事件の犯人だったとしたら?
この男はエリクシエルの協力者か? 〈黄昏〉とは一体……。
黄泉は無言のままその瓶を地面に投げつけた。すると中の液体が飛び散り――
「なっ!」
予想外の光景に、俺は思わず驚きの声を上げてしまった。
割れた瓶から飛び出した黒い液体は、すぐに煙となって空に舞っていった。しかもその煙は正確に俺の元へと向かってきている。
かつての魔剣ベーゼを思い出して身構えた俺だったが、どうやら予想をはるかに超える現実が待っていたようだ。
これは、液体でもなければ煙でもない。
虫だ。
アリよりも小さな、羽根を持った小さな黒い虫。液体のように密着し、煙のように拡散する。
「――秘薬〈黒虫〉。我ら〈黄昏〉の秘儀をもって逝け、勇者よ」
遠くからは液体のように見えたその物質は、小さな虫の集合体だったらしい。訓練されているのか、俺のもとへ集まってくる。
じょ……冗談じゃないぞ! あんな気持ち悪いものにかまれたり刺されたりしたら、それだけで死んでしまうっ!
「〈白王刃〉っ!」
俺は聖剣ヴァイスの技、〈白王刃〉を放った。
いくつも重なった光の刃が壁となり、敵である虫たちを倒してくれる。
と思ったのだが……刃と虫は相性が悪い。奴らは小さな隙間をすり抜けて、俺のもとへまだ迫ってきている。
ま……まずい。
「ふ……〈炎の大壁〉」
とっさに俺が唱えたのは、火の魔法だった。
高ランク魔法に位置するこの〈炎の大壁〉は、周囲に防壁のような炎の壁を張り巡らす技である。
〈白王刃〉のように隙間は存在しない。虫は焼け死ぬはず。
「……嘘だろ」
確かに多くの虫が焼け落ちて死んだ。
百匹程度であれば、この方法で十分だったかもしれない。しかしおそらく千を超えるであろうこの虫たちの一部は、炎の壁が到達していないほど遥か上空を迂回して、俺の体めがけて降下をしかけてきた。
正面からぶつかって焼けた虫は五百匹程度。
迂回しきれず力尽きた虫は四百匹程度。
しかし俺の元に迫ってくる虫たちは、まだ二百匹程度残っている。
ヴァイスは効かない。
魔法は詠唱が間に合わない。
〈千刃翼〉も間に合わない。
馬鹿な……。
こんな、魔族でも天使でもない人間に……俺が。
死ぬ……のか……?
おびただしい数の黒い虫が迫るのを見て、俺は死を覚悟した。
「うおっ……」
虫が到達した。俺は剣で薙ぎ払ったり手で振り払ったりしようとするが、こいつらはまるですすか何かのようにこびりつき、俺から離れようとしない。
肌に、鼻に……そしてやがては口に侵入してくる黒い虫たち。俺は息もできず、瞬きもできず苦しむしかなかった。
そして激しい痛みとともに、俺は意識を失った。
………………。
………………。
………………。
*************
下条匠が虫の毒によって倒れたちょうどその時、この場に現れた者がいた。
日隠月夜である。
「…………」
遅かった。
すべての敵を振り払い、ここまで駆けつけた。だが下条匠はすでに毒によって侵されてしまっている。
彼は多くの人を救った英雄だ。その死は世界を揺るがし、悲しみの慟哭は天に響くだろう。殺した黄泉はもとより、無関係な月夜とて逆恨みの矛先を向けられるかもしれない。
「まだ……」
「もはや手遅れよ頭領。その男は我らの秘薬によって死の境にいる。そして我がここにいる限り、解毒も不可能」
答えるのは〈黄昏〉の副頭領黄泉。匠を殺そうとしている男。
「成敗っ!」
月夜は小刀を両手に構え、黄泉に肉薄した。その動きは電光のように素早く、そして機械のように正確。何の障害もなく敵の急所を突く……はずだった。
「……っ」
手ごたえは、ない。
黄泉は月夜の攻撃を避けようとはしなかった。ただ。彼の前に現れた怪しげな人物が、光の魔法を使って刃物を弾いたのだ。
「頭領は知らぬだろうな。彼女たちは天界の使い。我の依頼人よ」
彼女の前に現れたのは半天使。
先ほど下条匠たちと争い、町を攻撃すると宣言していたあの天使たちだった。




