一紗の妊娠
巨人フェリクスを倒してから、三か月の月日が流れた。
数日続いていたお祭り騒ぎも、すっかり忘れ去られてしまった。人が働かなければ作物は育たない、建物も建たないし物も買えない。いつまでも休日というわけにいかないのだ。
人々は日常へと帰り、仕事を始めた。そしてそれは俺たちも同様だった。
つぐみは通常業務へ復帰した。といってももうすぐ出産を控える彼女であるから、体の負担は最小限に抑えてもらうつもりだ。
璃々は産前休暇に入った。つぐみ肝いりで集められた女性のみの近衛隊は、産前産後のサポート体制が充実している。これを利用したのだ。
乃蒼と子猫は屋敷で、鈴菜は研究室で働いている。この辺りは平常運転。
亞里亞は謎宗教関係でよくいなくなる。
さて、問題は戦闘要員のその後だ。魔族がいなくなり、国家間の諍いがなくなってしまった今となっては無用の長物。
将軍、エリナは暇そうにしている。軍団がなくなってしまったわけではないが、治安維持に関する仕事が激減したのだ。彼女は時々軍団に呼ばれて訓練や大規模な盗賊団をつぶしているらしいが、その程度。屋敷を出ることは少ない。
そして小鳥、雫、りんご、一紗、俺。
勇者とは魔王と戦うためレグルス迷宮に潜って魔族と戦う者。敵となる魔族がいなくなった今となっては、存在意義が消失してしまっている。
あまり大きな声では言えないが、俺たちは国から莫大な金をもらっている。それは魔族を倒した功績であり、国難を救った功績であり、この国に雇われている報酬だ。
あまりに金額が大きすぎて断りたいのはやまやまだが、そうすると逆に困る人が多いみたいだから難しい。
要するに働かなくても金があるわけだが、だからといって屋敷でいつもぼんやりとしているのは人としてどうかと思う。
俺たちは冒険者ギルドで働くことになった。
それほど依頼が多いわけではないが、いくつかの雑用を受け入れながら人の役に立っている。これで俺はニートじゃない、と胸を張れるわけだ。
いろいろあったが、ゆっくりと日常が回り始めている……そんな中。
一紗が妊娠した。
発覚は突然、というわけではなかった。
これまで健康そのものだった一紗が、急に吐き気を訴えるようになったのだ。俺にしても一紗にしても、そんな兆候に十分心当たりがあったわけだから、すぐに結論に行きついた。
現状、ギルドの依頼に激しく体を動かすものや命の危険が迫るものは存在しない。したがって働きながら生活できなくもないのだが、そもそも金は十分にあるのだからゆっくりと休んでも全く問題はない。この辺りは一紗次第といったところだ。
今日の一紗は屋敷で過ごしている。もともとこの日は休日だったらしく、何も予定はなかったらしい。昼まで寝るつもりだったのだろうか? 自堕落な奴……といつもなら切り捨てるところだが、お腹の子供のことを考えるとそうも言ってられない。
勇者の屋敷、一紗の自室にて。
夜を俺の部屋で過ごしている一紗にとって、この部屋は物置のようになっている。
服。
服。
服。
冬物、夏物、アウターインナーそれに靴。派手さを見せつけるものから大人しめにつつましいものまで、その種類は千差万別。一人で二十四時間ファッションショーできるぐらいだ。
ちなみにこれを片付けているのは乃蒼だ。こいつは生活能力がないくせに物ばっかり買うから、ひとりだと際限なく服や靴が散乱して部屋がカオス状態になるらしい。りんごから聞いた。
これだけいろんな服に恵まれながらも、今の一紗はパジャマ姿。家の中、特に午前中は全く着飾るつもりはないらしく、ぼんやりとしていることが多い。
なんてだらしない奴だ。優が見たら泣くぞ?
「まさか、あんたの子供産むことになるなんてね」
幼馴染であり、そして優の彼氏であった一紗。まさかこんな関係になるなんて……思ってもみなかったな。
「俺もお前と子供作ることになるなんて思ってなかった」
「何よそれ。あんた自分がこの子の親になるって自覚あるの? もう親なのに……」
「安心しろよ、俺がお前もお腹の子のこと守ってやるから」
「ホントに~。なーんか頼りないのよね。調子のいいことばっかり言って……はぁ」
「ん……どうした? 疲れてるのか?」
「ごめん、ちょっと……」
一紗が席を立った。
おそらくトイレに向かうのだろう。
「大丈夫か? 付き合うぞ」
「すぐ隣よ、大丈夫だからここにいて」
苦しそうな彼女にこれ以上声を出させるわけにはいかず、俺は一紗に言われた通りここで待つことにした。
つわりだ。
妊娠したのは一紗で五人目。つまり俺はこれまで四人の妊婦を見てきたわけだ。しかしこれほどつわりの強い症状を見たのは初めてだ。
それは俺に対して自然な姿を見せる一紗の性格のせいでもあり、体質的な問題があるのかもしれない。いずれにしてもつらそうな彼女を見ていると、こっちまで気持ち悪くなってしまいそうだ。
しばらくして一紗が戻ってきた。げっそりとした表情のまま、ベッドに崩れ落ちた。まだ収まってはいないようだ。
「背中、さすろうか?」
「お願い」
俺は彼女の背中をさすった。強くしても意味がないが、彼女の気分がよくなる程度の加減にしなければならない。
時間は十分にある。一紗が文句を言わないなら、今日はとことん付き合うつもりだ。
「……ごめん、ありがと」
しばらくのち、一紗が調子を取り戻した。
もう、普通に話しても大丈夫そうだな。
「冒険者ギルドの仕事、俺が引き受けようか? 何か依頼もらってるか?」
「ううん、別に何も。昨日で全部終わった」
「そうか……」
この体調不良ではそんなに仕事もできないだろうからな。意図的に減らしていたのかもしれない。
「あーしんどい。ねえ、これいつまで続くの? ホントやになっちゃうわ」
「俺も妊娠したことはないからな。鈴菜あたりに聞いてみたらどうだ? 聞きにくいなら俺が聞くけど」
「優しいわね。改めて美少女一紗ちゃんの可愛さに惚れちゃったかしら?」
「ばーか、誰が美少女だ。もうお母さんになるんだぞ?」
「…………そうよね」
体調不良の一紗にあまりしゃべらせるわけにもいかず、俺は時々少しの会話を挟みながらこの部屋で過ごした。
特に急ぎの仕事があるわけでもなく、誰かに会う約束があるわけでもない。
俺は一紗としばらく過ごすことにした。
ここからが護衛編になります。
何編にしようか悩みぬいた結果この命名です。




