獅子帝の戦略
結局、その日は夜が明けるまで鈴菜といた。
俺は浮気をしてしまった。
女の方から誘ってきたとか、それでも乃蒼を愛しているとか……そういう言い訳をすることはできる。でも俺自身が欲望に流されてしまったことは……変えることのできない事実だ。
俺は真実を乃蒼に打ち明けることにした。これが今の俺に出来る、ただ一つの誠意だ。
今は俺が借りた部屋の前に立っている。このドアの奥には……乃蒼がいるはずだ。
「君が気を張る必要はないんだ。すべては僕の責任……」
隣には鈴菜がいた。今日、乃蒼にこの話をすると言ったら、付いてきてしまったのだ。
「……鈴菜は黙っててくれ。これは俺の問題だ」
そうだ、彼女に口を開かせてはならない。本当ならここに連れてくること自体が許されないんだ。それでも傍にいたい、と言われて振りほどけなかった結果がこれなのだが……。
深呼吸をして、ドアノブに手をかける。
ドアを開けると、そこには乃蒼がいた。
「あ、匠君、お帰りなさい」
ぽん、と乃蒼が抱き着いてきた。
「あ……、大丸さん?」
乃蒼はすぐにドアで顔半分を隠し。恥ずかしがってるらしい。
「乃蒼、ちょっと話したいことがあるんだ。そこに座ってもらえるかな?」
乃蒼は俺の隣にいる鈴菜が気になっているようだったが、とりあえず近くのソファーへと腰かけた。
「昨日、鈴菜と寝た」
言い訳がましく、あれこれと無駄な話をするのは嫌だったから、ストレートにそう言った。
乃蒼は驚いた様子でうつむいてしまった。俺の言葉を、ゆっくりとかみ砕いているのかもしれない。
「……私の事、嫌い?」
「そんなことはないっ! 乃蒼のことは好きだ! でも……それでも俺は……」
何を言っていいか分からないからまごついていた俺の口を、乃蒼の人差し指がそっと塞いだ。
「私はね、匠君にいっぱいいっぱい助けてもらったの。匠君のためならなんでもしたいと思ってるし、きっとそれはね、大丸さんと同じ気持ちなの」
この言い方。俺が昨日鈴菜を助けたってことを、知ってるのか? 一紗あたりが伝えたのか?
「匠君、暖かいもんね」
乃蒼が俺の手を握った。
「私があったかくなって、大丸さんがあったかくなって、他の人もあったかくなったら、それってすごく幸せなことだと思うの」
「乃蒼……それは……」
「私の事は気にしなくていいから、大丸さんも抱いてね。そうじゃないと、皆幸せになれないから……」
俺にどこまでも都合のいい、彼女の考え方に感動してしまった。
同じように言葉を失っていた鈴菜が、そのまま乃蒼の手を握った。
「乃蒼ちゃん、君が匠の妻だ。どれだけ僕が彼を誘惑しても、体を重ねても……心に誓うよ」
「う、うん。大丸さんも、我慢しなくていいんだよ」
俺の悩みなど、乃蒼にとっては些細な事らしい。
「じゃあ、今日は三人でお話ししようね」
そう言って、乃蒼は手を叩いた。
俺たちは三人で話をした。教室の事、受験の事、魔法の事俺の事つぐみの事、話題が尽きることはなかった。
鈴菜と乃蒼は、予想以上に打ち解けたような気がする。
俺を通して乃蒼の人見知りが治る。そんな考え方は、少し自分勝手過ぎるだろうか。
マルクト王国近郊、マーリン区貴族亡命地にて。
屋敷の一室で、フェリクスは間者からの報告を聞いていた。グラウス共和国、大丸鈴菜と匠たちに関することの顛末だ。
すべてを聞き終えたフェリクスは、深いため息をついた。
「これまでか……」
一人、そう呟く。
おそらく、趨勢は決した。
〈プロモーター〉を爆発させ、民を扇動し国家を破たんに導く。このフェリクスが企てた計画は、どうやらうまくいきそうにないらしい。
もちろん、程よい嫌がらせになるから扇動は続行するつもりだ。しかしこの件は、もはや赤岩つぐみを切り崩すための決定打にはなり得ない。
つぐみの金銭保証。
匠の演説。
そして鈴菜は五体満足となり、やがては再びあの国に貢献し始めるだろう。
爆発事件は遠からず収束する。首都近郊に限定するなら、もはや解決したと言っても過言ではないだろう。
フェリクスは計画の件を一旦忘れることにした。上手くいかなかったことを悩んでいても仕方ない。
ドアを開け、隣の部屋に入った。
そこには、賢者と魔王レオンハルトがいた。
「…………」
杖を持った賢者は、怯えながらレオンハルトの様子を見ていた。
金髪の大男、レオンハルトはテーブルに置かれた水晶を覗いている。
「もう10時間、瞬き一つせずあの水晶を見ている。やはり魔王の魔力は人知を超えた神の領域。私ですら20秒ともたぬというのに……」
震える賢者は、畏怖を込めて魔王を眺めている。
かつて賢者の言っていたことを思い出す。異世界を覗く水晶の魔法は大変魔力を消費し、短期間しか行えないはずだった。
その驚きは、当然と言えば当然。
フェリクスは水晶を見た。レオンハルトが何を見ているのか気になったのだ。
無論、フェリクスに異世界の事など分かるはずがない。ただ理解できたのは、水晶の中で動き回っている人間の着ている服が、匠たちと全く同じだということだ。
「我は思うのだフェリクスよ。異世界というのは、実に興味深い」
「未知の世界ですからな」
「例えばこの学び舎、すべての子供たちが平等に勉強している」
「平等? 貴族の子弟が通っているのではないですかな?」
フェリクスの……否、この世界の人間の感覚であれば、学問を修める者は富める者高貴な者だけ。
「我も最初はそう思っておった。しかしこの学生たちの中には、明らかに貧しい者が含まれておる。平等なのだフェリクスよ。富める者貧しいもの、男女、分け隔てなく勉学の機会が与えられる。それがこの世界……いや、この国か」
にわかに、信じられない話だ。
これほどの建物、設備、教師と揃えられているのだ。それ相応の金がかけられているのだろう。
貧民も勉強しているというなら、一体誰がその金を出しているのだろうか? 貴族や富農が、慈善のためにこれだけの大金を放出したとでもいうのか?
驚きは、十分に理解できる。
だが、それだけだ。だから何だというのだ?
「失礼ながら、魔王様。遊びはお控えになっていただけませんか?」
異世界を眺めて満足感に浸るなど、享楽以外の何物ではない。そんなことをさせるために彼をここに呼んだのではないのだ。
しかし、フェリクスの指摘に獅子帝が笑う。
「我がそれほど愚か者に見えるか、フェリクスよ」
「い、いえ、決してそのような。しかし、この件と異世界人との戦いにどのような関係が?」
「お前たちは召喚する人間を違えたのだ……」
そもそもこんな機会がなければ会話などしなかった間柄だ。獅子帝は強い。それは彼の100を超える大昔から伝わるエピソードからも知られている事実ではあるが、それ以上の事となると情報は皆無だ。
強き者が愚かな頭脳であると誰が決めた?
「目には目を、歯には歯を。獅子帝レオンハルトが戦略、とくとご覧あれ」
獅子帝、レオンハルトがその犬歯をむき出しにして笑った。




