黒の巨人
旧アスキス神聖国、南方。
かつて強大な宗教国家として北方に君臨したこの国は、先の刀神ゼオンとの戦いによって壊滅的な打撃を受けた。
その後は隣国を主体とする連合軍の占領を受け、緩やかにではあるが前時代的な神権政治からは離れている。
政教分離が促され、助祭以上の宗教指導者は国政から追放された。地方では人材不足の観点から村の司祭が村長を兼ねていることもあるが、それほど権力はない。
決定権を持たない教皇が王を兼ねる立憲君主制か、あるいは君主を排して共和・連邦制を敷くか。それは占領の解かれた十年後、選挙によって決定されることとなっている。
そんな復興と政治体制変革の狭間にある、神聖国の南方。
ゼオンによる侵攻は全土にわたって深い傷を残した。魔族たちによって壊滅的な被害を受けた首都近郊、そして教皇の失政と魔族のダブルパンチで深い傷を残した南部の農村。
人材、そして環境の両面において劣悪な状況にあるといっても過言ではない。
降伏魔族、ブリューニングはそんな南部の農地を開拓していた。
いわゆる戦地復興の一環だ。新しい農地を生み出したり、放置され荒れ果てた農地を直したり、必要な建物を建てたり、水路を直したりなどなど。
自分たちがしでかした罪を償う。それが彼の決意であり、今となっては地上で生きていくための目標でもあった。
「ふぅ……」
ブリューニングは額の汗を拭った。髪の毛一本ない彼の頭部は、太陽光にそのままさらされている。これが人間であったなら、日射病か何かで倒れているかもしれない。
「ブリューニングさん、休憩にしようや。水だべ」
見ると、一緒に作業していた農夫が水の入ったコップを持っていた。
「助かる」
ブリューニングはそれを受け取ると、すぐに口へ含み喉を潤した。
人間に比べ強靭な肉体を持つブリューニングにとって、力仕事自体はそれほど苦痛に感じない。しかし空から燦燦と降り注ぐ太陽はレグルス迷宮になかったものであり、容赦なく彼の水分を奪っていく。別段炎に耐性を持つ魔族ではないので、水分補給を怠たれば体が弱ってしまう。
「助かった。労働後の水分補給は格別だな」
「んだべ」
手で汗を拭ったブリューニングは、周囲を見渡した。
延々と続く田畑。規則的に引かれた水路から、新鮮な水が常に供給されている。
「この周辺はだいぶ片付いたか。そろそろ隣の村を手伝いに行こうと思う。あそこの村は火で燃やされて、かなりの部分が焼け野原になっていたからな」
「ブリューニングさんにはホント感謝してるだ。あんたのこと、オラたちは一生わすれねーべ」
「ははっ、そんな大げさに感謝しなくてもいいさ。もとはといえば、俺たちが原因なんだから」
魔族大侵攻には、ゼオンの配下であるブリューニングも参加している。
極力人は傷つけないようにしたし、建物も壊さないようにした。だがどれだけ気を使っても、部下が先走ってしまったり、偶発的な事故が起こったりと多少の被害は与えてしまった。
これは彼にとっての贖罪なのだ。
また、次の村へ向かおう。
ブリューニングはそう思い、鍬を片手に歩きだそうとした。
瞬間――
「な、なんだっ!」
地面が揺れた。
この地方……というよりこの大陸ではしばしば地震が起こる。地下のレグルス迷宮にいるブリューニングも、当然ながら床が揺れるこの現象を幾度となく経験した。
しかし、この地震は規格外だ。まるで地面の蓋が開こうとしているかのように激しい揺れ。
ブリューニングは農夫をかばいながら、ケガをしないように地面に伏せていた。
「おさまった……か?」
やっと揺れが止まったのを感じ、ブリューニングは顔を上げた。
「……なっ!」
前方森の奥。
そこにそびえたつ、異形。
抉れた地面から生えたのは、黒い柱。否、それはあまりの巨体に足首が柱に見えてしまうほどの……巨人だった。
巨漢と称せるほど人間離れした体を持つブリューニングであるが、この巨人はその次元を超えている。
雲を貫くというのは言い過ぎだが、今の二倍ほど背が高ければ雲を超える……そんな山のような生き物であった。
「ブオオオオオオオオオオオッ!」
巨人が吠えた。その叫びはすさまじい衝撃波となって、周囲に木々をなぎ倒していく。
ブリューニングは先ほどあった地震の時以上に体を縮めた。地面に這っていないと、はるか遠くまで吹き飛ばされてしまいそうだったからだ。
巨人が走り始めた。一つ一つの足音が、まるで落雷のように鼓膜を貫く。
「お……オラたちの村に向かってるべ!」
確かに、黒い巨人はこちらへ向かっている。この村が目的なのか、それともその先に用があるのかはわからないが、明らかにこの地は通過する。
木々をなぎ倒す巨大な質量を持つ巨人だ。苦労して拵えた水田や、建て直した建物が壊されてしまう。
「うおおおおおおおおおおおおっ!」
ブリューニングは駆け出した。これまでの努力を台無しにしてしまうあの巨人は、まぎれもなく彼の敵であった。
「――〈万壊〉っ!」
手持ちの鍬に、得意の強化魔法をかける。
ブリューニングは鍬を巨人の足に突き刺した。
(……浅いっ!)
ブリューニングは心中で舌打ちをした。あらゆる装甲を貫き、敵の肉を引き裂く武器強化魔法――〈万壊〉。しかしそれはあくまで人や魔族レベルの肉体を持つ敵を相手にした場合の話であり、山ほどの大きさを持つ巨体を前にしては、〈万壊〉など少し伸ばした爪でひっかいたようなもの。致命傷どころか足止めすらままならない。
「う、ぐ……おおおおおおおっ!」
巨体を支える脚力に、ブリューニングは競り負けた。腕が引きちぎれそうなほどの圧力を感じたため、武器を手放してしまったのだ。
「ぶ、ブリューニングさん! 大丈夫だべか?」
「大丈夫だ」
駆け寄ってきた農夫に支えられ、ブリューニングは立ち上がった。
巨人の目的はブリューニングでも村でもなかったらしい。すでにこの村を通り抜けて、南の村へ向かっているのが見える。
その方向に、ブリューニングは心当たりがあった。
(あの方向は……グラウス共和国?)
かつて迷宮で出会い、そして刃を交えた一人の男を思い出す。
彼に危機が迫っているかもしれない。
(どうする? 俺が走って間に合う速さじゃないぞ?)
ブリューニングは考えた。
(仕方がない……)
あまり得意ではないが、一つだけ妙案を思いついた。
ブリューニングはそのアイデアを実行するため、準備を始めたのだった。
ここからは黒の巨人編です。




