王国の守護者
彼には兄がいた。
記憶に残る最も幼い頃の記憶は、兄が父親に叱られている姿だった。王太子であり次代の王としてのふるまいを求められる長男と、次男の自分。もちろん兄のほうが厳しく育てられていたかもしれないが、彼は一度として兄に同情などしなかった。
あまりに無能過ぎたからだ。
言葉を覚えられない、単純な計算問題ができない、物をなくす、人を傷つける、嘘をつく。おまけに何かを失敗すると、すぐに他人のせいにする。単純に頭が悪いだけでなく、人としても問題のある男だ。
当時五歳であった彼がそう思うのだから、周りの大人たちはさらにそう感じていたかもしれない。
無能なくせに、兄は威張り散らす。王だからと、兄であるからと何度も理不尽な命令を発した。
それは幼い彼にとって、ひどく苦痛で煩わしい出来事。
腹が立ち、とうとう彼は父親である国王に問うた。
『父上、なぜ私ではなくあの男を王太子にしたのですか?」、と。
壮年の国王はゆっくりと目を瞑り、あごひげを撫でながら彼に語り掛けた。
――息子よ。
世界には決まりがある。
子は親を敬い。
弟は兄を敬い。
そして女は男を敬う。
法を犯せば罰せられ、秩序を乱せば日常が崩壊する。
心せよ。
我ら王族は人の上に立つ者なり。
弁えよ。
それを問うてはならない。
と、国王は強い口調で言った。説教のつもりだったのかもしれない。
日頃優秀であった彼であるから、このように説教を受けたのは生まれて初めてだった。だがだからこそ、彼には父である国王の言葉がよく理解できた。
なぜ兄が王なのか、とは突き詰めれば王位を簒奪することにつながる。王位に関するルールの乱れは、まわりまわって血筋の尊さを否定することになりかねない。
血は尊く、王位継承法は絶対。ゆえにどれだけ暗愚な兄であろうとも、その王位を否定してはならないのだ。
彼はその事実を受け入れた。次代の王である兄のことをではない。この国を、そしてこの世界を受け入れたのだ。
むろん兄のことは軽蔑したままだ。『事故死してくれないか』とか、『病死してくれないか』などとは考えていたが、しかし一方で彼が兄を害するつもりはなかった。それは敬愛する父の言葉を守るためでもあり、王権の維持に腐心しようという決意の表れでもあった。
彼は暗躍した。
王である兄の忠臣ではない。守るべきものは兄ではなく、この国。この世界!
表向きは善人、慈善家のように振舞いながらも、多くの政敵を蹴落とした。持ち前の優秀さで、ほかの貴族たちからの信頼も勝ち取った。王になる資質は完全に備わっていたと自負しているが、それでも彼は国を守ることに腐心した。
彼――フェリクス公爵はこの王国そのものであった。
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「…………」
無人の洞窟に足音が響く。
ここはレグルス迷宮。かつて魔族たちがひしめき合い、人類の脅威として恐れられていた……地獄。
フェリクス公爵はこの地に足を踏み入れいてた。
歩きながら、彼は考え事をしていた。
今は亡き先王、すなわち父のことであった。
(父上……)
あの時、もっと強く言っていれば……国を正しく導けたかもしれない。
フェリクスの心中は後悔でいっぱいだった。ヨーラン将軍に利用されたこと、時任春樹に出し抜かれたこと、魔族と手を組んだこと、下条匠を利用したこと、異世界召喚を国王に任せてしまったこと、そして自らが王にならなかったこと。今となっては、すべてが悪手だと分かる。
あの時、ああしていれば。フェリクスは妄想した。
しかしどれだけバラ色の夢を想像しても、現実とのギャップにやがては絶望する。そんなものは逃避でしかない。
「イグナート殿! いらっしゃいませんか! イグナート殿」
フェリクスは叫んだ。
悪魔王イグナートは魔王とフェリクス公爵を引き合わせた仲介人である。魔族の大幹部として歴史に名を残す彼には、連絡役としても随分と世話になった。
フェリクスがこの地にやってきたのは、再び魔族の助力を得るためである。
だが、どれだけ声を上げても……返事は帰ってこなかった。むしろ不必要な魔物を呼び寄せてしまう始末だ。
魔剣を持つフェリクスにとって、知性のない魔物などさして恐怖ではない。しかし夢も希望もないこの状況では、いちいち邪魔者を追い払うことすらうっとおしい。
そしてなにより――
(……まさか……本当に?)
突きつけられる、現実。
かつてヨーラン将軍が主張していたことを思い出す。魔族大侵攻は終結し、世界中から魔族が駆逐されたというのだ。
フェリクスはその事実を受け入れられなかった。あの強大な魔族が、こうも簡単に敗北してしまうものなのか? 何らかの作戦で、ただ単に戦略的撤退を果たしただけではないか?
そういった願望を胸に、フェリクスはレグルス迷宮へとやってきたのだ。ここに来れば、かつてと同じように魔族の幹部と話せると思った。
だが、現実は無情。
魔族は、死んだのだ。
フェリクスは受け入れなければならなかった。もはやこの世界に自分たちの味方はいないのだ。賭けに勝ち、こうして生きながらえることができたのは……果たして幸運だったのか? 不幸だったのか? 一瞬の痛みと引き換えで早々に死んでしまった、サルディニア伯爵の方が幸せだったのでは?
そう思うと、むなしさが募るばかりだった。
〝――〟
不意に、フェリクスは顔を上げた。
何かが、聞こえる。
〝――っ!〟
幻聴ではない。何か自分を呼ぶような、誰かが助けを求めるような……そんな声が聞こえるのだ。
フェリクスは声のする方向へと走った。そこに希望があるとは限らない。しかしそれでも、目的を見失った彼にとってその声は唯一の希望だった。
迷宮の土を踏みしめ走り抜けると、その先には扉があった。武具を身に着けた男二人が、周囲を警戒しながら門番のように立っている。
おそらく、それなりに腕の立つ冒険者だろう。
「止まってください。この先は危険です! 我々はグラウス共和国所属の冒険者――」
「待て、この男――見覚えがあるぞ。確か……貴族、そう貴族の中にこんな男が……」
フェリクスは剣を構えた。
「解放、魔剣フルス!」
狭い通路を、濁流が圧し潰す。
フルスは水を操る魔剣である。フェリクスが呼び寄せた大量の水は、有無を言わさず冒険者たちに襲い掛かった。
即死だ。
「…………」
気が付かれてしまったからには、生かしておくわけにはいかない。追っ手を差し向けられれば厄介だから。
「さて……と」
死体を尻目に、フェリクスはその扉を開けた。
広い部屋だ。
おそらくはかつて魔族の棲みかとして使っていたのだろう。ぼろぼろの布や干からびた果実が残っている。
そして何より、あちこちに残る血の跡と抉れた地面が目立つ。おそらく……ここでかなり凄惨な戦いが繰り広げられたのだろう。
そして、その中央。
一本の黒い剣が突き刺さっていた。
「う……」
フェリクスは思わず一歩後ずさってしまった。他愛のない一本の剣であるはずのそれから、恐るべき邪悪なプレッシャーを感じたのだ。海千山千、時には魔王とすら対話したことのあるフェリクスであっても、身震いしてしまうほどだった。
だが、いったん冷静にその剣を見て……すぐに理解した。
禍々しいその剣の名は……そう。
「これは、魔剣……ベーゼかね?」
〝よぉ、おっさん〟
魔剣ベーゼとフェリクス公爵。
奇しくも下条匠たちに敗れた者同士。運命の邂逅であった。




