ハーデス来い!
かりかりと、シャープペンのこすれる音が聞こえる。
教室だ。
今となっては懐かしい光景。目の前では小鳥が熱心にノートを取っている。今の小鳥とは違い、綺麗な制服に綺麗な体。ストレートでセミロングの赤髪は泥一つついておらず、ほのかにいい香りがする。
その周囲には俺、一紗、そして優や春樹など、なじみのクラスメイトが勢ぞろいだ。
誰も俺のことは見えていないらしい。小鳥の夢を覗き見ているような感覚、だろうか。
おそらく、俺が見ているのは幻だろう。かつてイグナートによって幻想世界に連れていかれたことを思い出す。
だがあの時とは違い、直前にベーゼが焦っているようにも感じた。奴は小鳥の体を御しきれていないようだったが、この光景は彼女が見せたささやかな抵抗の証である可能性もある。
ここに存在するが、登場人物に干渉できない俺は、ただこの光景を眺めることしかできなかった。
少女、草壁小鳥はノートを取っていた。もうすでに先生による授業は終わっているし、板書されたものが更新されることはない。それでもペンを動かしているのは、分かりやすくまとめようとしているためなんだと思う。
「こっ、とりー」
突然、一紗が小鳥に抱き着いた。
片や金髪ツーサイドアップの超美少女。片や大人しくて目立っていないが、こちらも赤毛の美少女。
美少女二人がじゃれ合ってる姿はそれだけで絵になる。近くにいる男子たちがちらちらと視線を送っり、時々頬を赤めていた。
一紗は当然それに気がついている。あいつは自分の可愛さを自覚しているからな。いざとなったら彼氏の優もいるし、むしろ自分の美少女ぶりをアピールしているようですらある。
しかし乃蒼ほどではないにしろ、小鳥はあまり社交的な方ではない。盛り上がるのは身内だけ、といった感じだ。多くの他人に眺められているこの光景には耐えられなかったらしく、頬を赤めながら唸っている。
そんな一紗は小鳥の腰元に抱き着きながら、顔をぐりぐりと擦りつけている。男だったら完全にセクハラだ。
まああいつは俺にもこんな感じで抱き着いてきたことあったからな。友達には誰にでもあんな感じなのだろう。
「小鳥はまじめね。そんなノートなんてとっても無駄よ無駄。だって教科書や参考書の方がよっぽど綺麗にまとめられてるもの。汚いおっさんの書いた汚い文字なんて覚えても、ちょー時間の浪費」
「一紗ちゃんみたいに、頭良くないからぁ。あはは」
一紗は頭がいいから後で教科書読んだだけでなんとかなるんだろうが、俺は小鳥に同意する。
引き続き、二人はじゃれ合っていたが――
「頼むっ!」
突然、教室に大声が響き渡った。
聞きなれたその声は――俺のもの。ここでこの光景を見ている『俺』ではなく、この幻想の登場人物としての俺。
俺は優とともに前側の席に座っていた。
スマホをつつきながらニヤニヤしている。隣のいる優と画面を見せながら、何か気合を入れているように見える。
当然ながら小鳥のように授業のノートも取ってない。あとで優か一紗に教えてもらうつもりなのだろう。
「ハーデス! ハーデス来い! 神様お願い。命賭ける! 俺命賭けるから!」
スマホを両手で掲げながら、どこかの原住民族のような踊りをしている俺。あまりの光景に、隣にいる優はドン引きだ。
スマホを神の像か何かのように拝み倒している。
思い出した、これは異世界に転移する少し前ぐらいの話だ。
俺はゲームのガチャを回していたのだ。
『ブルーストーリープロジェクト(略称ブルスト)』と呼ばれるこのスマホゲームは、現代日本にいた頃の俺が情熱を捧げていた遊びの一つだ。
無料ガチャには限界があるため、この時の俺は金を払ってガチャを回していた。有償であるため気合の入り方がハンパなかったということだ。
ちゃらりん♪ しゃららんらんらん~♪ とガチャの演出シーンが表示されている。ヤバイな、あれ見ると涎が止まらなくなって……っと、今はそれどころではなかったか。
「ああああぁああああああぁああああぁっ!」
目の前の俺が泣いた。
実際に起こった出来事なのでよく覚えているが、この時五回ぐらいガチャを回してもハーデス様はでなかったのだ。冥王強化週間で有償なら約20%の確率でハーデスSSRが出るというのに、なんと運の悪い事だろうか。
「か、神は死んだ……」
「た、匠、大丈夫だって。また半年後ぐらいにはキャンペーン来るだろ?」
優が一生懸命俺を慰めている。
しかしこの後聞いた話なのだが、優は無課金にも拘わらずすでにハーデスを手に入れていたらしい。勝者の余裕という奴だろう。かわいい彼女とハーデスを両手に抱いて、羨ましい男だ。
ハーデス手に入れたら闇属性の援護効果で俺のPT1.5倍ぐらい強くなるんだよな。覚醒させればその効果は約三倍まで跳ね上がって、現状最強ボスと呼ばれている『古代龍王』に迫れるまでだ。
唸るよな。ハーデス欲しかったなハーデス。もう6000円ぐらい突っ込めば手に入ったかな?
……はぁ、もうこの世界にはスマホもネットもないんだ。在りし日のソシャゲに思いを馳せるのはむなしくなるだけ。
……と、ゲームの話を忘れて俺は改めて現状を認識することにした。
ブルストに一喜一憂している俺たちを眺めている一紗と小鳥。まあこの時に俺は目立っていたから、クラスのほとんどが目線を移していたかもしれないが。
「馬鹿じゃないの?」
一紗が冷静にそう呟いた。何を失礼な、とその場にいた俺が聞いたら思ったかもしれないが、傍から見ていると確かにアホにしか見えない。
なんだか恥ずかしくなってきた。
「一紗ちゃん、下条君と幼馴染なんだよねぇ~?」
「うっ、やめてよ小鳥。思い出させないで」
一紗がゴミを見るような目で俺を見た。がそれも一瞬、すぐに隣で俺を慰めているイケメンを見て頬を緩める。
「あのね、一紗ちゃん。耳、貸してぇ」
「何? 小鳥もアイツの悪口言いたくなった? いいわよ、ここなら誰にも聞こえないから、存分に吐き出しなさい」
一紗がそっと耳を差し出す。そんな彼女に近づいた小鳥は、両手を口元に近づけて、そっと一紗に耳打ちする。
遠くから見ればキスしているように見えるかもしれない。
俺は耳を近づけて、その耳打ちを盗み聞いた。
好奇心、が絶対ないとは言えないが、現状ここに閉じ込められている俺は……彼女の真意を知る必要がある。心を覗き見るようで申し訳ないが、戦いの最中に妥協するつもりはない……。
「……なの」
「え? 何小鳥、聞こえない」
「……あの、ねぇ。私、下条君のこと好き、なの」
「え、マジで?」
戦慄の一紗が、小鳥のノートや筆記用具を床に落としてしまった。何もそこまでショックを受けることはないだろうが……。俺は珍獣か何かか?
「う……」
一紗は、両手で口元を押さえそして――
「うぷぷぷ」
笑った。
否、口元を押さえ、必死に笑いをこらえている。しかしそれでもこらえきることができなかったらしく、両手で顔を押さえたまま床に座り込んでしまった。
時間にして、十秒ほどだろうか。笑いをこらえすぎて涙目になっていた一紗が、ゆっくりと立ち上がった。
「ちょ、待って。やっぱりおかしいわそれ。あまりのおかしさに笑っちゃったけど、絶対おかしいわ。し、信じらんないもの。あいつに惚れるもの好きがいるなんて……」
こいつ本当に失礼な奴だな。未来のお前は俺ともうすぐ結婚式を開くんだぜ、と伝えたらどんな顔をするだろうか。きっとこの世の終わりかと思うに違いない。
「ってかさ、なんで! 小鳥どーしちゃったの! あいつに変な薬物でもかがされたの?」
「この間のぉ……宿泊研修」
宿泊研修。
この学園では入学早々に宿泊研修があった。森の中で自然に触れあいながら同じ学年同士親交を深めつつ勉強する謎の行事だ。
俺はひたすらめんどうだった記憶しかない。小鳥と話したような……話さなかったような気もする。そもそもあの時、クラスの女子の顔はそれほど覚えていなかった。幼馴染である一紗は当然知っていた
が、せいぜいその程度だ。加藤や御影などごく一部を除く男子たちと遊んだ記憶しかない。
と、悩んでいると周囲に変化が起きた。話をしていた小鳥と一紗、そして優たちがビデオを一時停止したかのように動きを止めたのだ。
そして、窓の外から激しい光を放つ渦のようなものが出現した。ブラックホールが白くなったような感じだから、ホワイトホール? それじゃあ別の意味になってしまうような気もするが、とにかくそんな感じの見た目だ。
どうやら、夢が新たなステージへと進むらしい。
誰かに説明を受けたわけではないが、なんとなくそう感じる。
それに、この光は浴びていて心地よい。ベーゼの闇とは対極的だ。小鳥の優しさを体現したかのようなこいつに、悪意なんて感じなかった。
俺は躊躇なくその光の中に飛び込んだ。




