ベーゼの声
レグルス迷宮、上層にて。
かつて魔族の居室であった巨大な部屋。そこで戦うのは、俺たちと小鳥。
ドン、と大気が爆発した。
小鳥の周囲に発生した黒い霧のような物質が、広い部屋の中に拡散しているのだ。避けることはできない。当たったところで害はないようだが、それでも妙なプレッシャーを感じる。
「小鳥!」
後ろで一紗が叫んだ。友を想うその心がひしひしと伝わってくる。
「あたしよ、一紗よ! お願い、正気に戻って!」
「……一紗ちゃん?」
ぴたり、と小鳥の殺気が消えた。必死に感情を乗せたその声が、呪い汚染されてしまった彼女の心に届いたのかもしれない。
「そうよ! あたしよ小鳥。一緒にあたしたちのところに帰って、お風呂に入りましょう。おいしいご飯もあるわ。そう、それに匠だって――」
「一紗ちゃんの肉、食べたいなぁ」
にちゃ、と涎を垂れ流した小鳥は、まるで極上のステーキを目の前にしたかのよううっとりとした表情をしている。親しい者を見る者の目じゃない。
「小鳥……」
もとより言葉が通じる状況でないことは十分承知していたが、理性の欠片もないその台詞には悲しくなるばかりだ。
「あはっ、あはっ、あはははははははははははっ!」
小鳥が、笑う。
その場を動かずただ笑っているだけだが、いつこちらに飛び込んできてもおかしくない様子だ。もとより戦う覚悟だった俺たちだが、改めて気を引き締めることにした。
〝――ァ!〟
……なんだ?
今、何か声が聞こえたような。
〝キヒャヒャヒャ! 〟
人を不快にさせるタイプの、男の笑い声だ。しかしこの部屋にいる男性は俺だけ。もう治療が終わった冒険者はこの部屋からいなくなったし、彼以外はもういないはずだ。
ならば一体、誰が?
「…………」
少し考えてすぐに答えへとたどり着いた。
魔剣だ。
小鳥と対峙することによって俺の感情が高ぶり、魔剣と話せる〈同調者〉としての能力が起動したのだ。
「今、笑ったのはお前か? 魔剣ベーゼ」
〝あん? おめー、俺様の声が聞こえてんのか?〟
「ああ、聞こえてる」
〝ヒャハハハ、こいつは驚いた。魔剣の声が聞こえるっつーことはあれか? 〈同調者〉とかいう能力者か。はぁー、生で見んの初めてだわ〟
本当に、魔剣ベーゼだったようだ。小鳥とはかなり距離があるのに、こうも簡単に会話できてしまうとは。やはりこの呪いの剣は、いろいろな意味で規格外ということか。
一紗たちも動きを止めた。一応俺の〈同調者〉としての能力は説明してあるが、一人で勝手にしゃべっているように見えるこの光景は彼女たちにとって奇妙に映ったのかもしれない。背後で少し動揺する気配がした。
「お前はなぜ小鳥に取りついてる! 彼女を解放してやってくれ。お前の勝手に付き合わせるな」
〝好きで取りついてると思うなよ〟
「は?」
返ってきた予想外の言葉に、俺は一瞬だけ臨戦態勢を解いてしまった。
「……意味が、分からない。これだけ小鳥を暴れさせておいて……お前の意思じゃないと?」
〝はあぁあぁああああ、正直マジしんどいんだわ。俺たち相性があまり良くなくてな。こういう『いい子ちゃん』を俺の思い通りに動かすのは、骨が折れるぜ。ま、剣になった今の俺に骨なんてねーけどな! キヒィヒヒヒ!〟
「そんなに嫌なら小鳥を解放してやってくれ! 一人でどっかの盗賊にでも取りついてりゃいいだろ!」
〝はぁ、分かってんだろ? そう都合よく魔剣使いが現れるかっつーの。まあ、なんだ。この女は運が悪かったってわけよ〟
こいつ!
小鳥をこんなにしておいて、運が悪かった? しんどい? ふざけるなよ! 俺が、そして一紗たちがどれだけ心配してると思ってるんだ。
だが不満ばかりではない。少しだけ有益な情報を得ることができた。
奴は小鳥に取りついているこの現状をあまり快く思っていないらしい。
「よく聞け、魔剣ベーゼ!」
俺は声を張り上げた。
「ここにいる乃蒼はかつて魔族によって聖剣にされた。その時手に入れた癒しの力は、聖剣・魔剣を元の人間に戻すことができる。つまり俺たちは、お前を元の姿に戻すことができる! お前が二度と悪事を働かないと約束してくれるなら、戻してやってもいい」
〝なにぃ?〟
「どうだ? 悪い話じゃないだろう?」
深い、沈黙が続いた。
魔剣ベーゼが悩んでいるのか、それともただ単に間を取っているだけなのかはよく分からない。しかしこの緊迫した停滞は、あまり長く続いて欲しくないと思った。
〝答えは、NO〟
くっ。
「なぜだ! なぜ小鳥から離れない! お前はなぜ血を欲しがる、肉を食らう。そして生き物を殺すんだ!」
〝俺様ぁな、これでも昔は英雄だった〟
英雄?
意味が分からない。こいつは大悪党なんじゃなかったのか?
〝大きな戦争があった。気の遠くなるような昔だ。魔族と、そして俺様たちの果てしない戦いだ〟
「魔族との戦い?」
〝その時俺様は正義だった。絶対だった。俺様は『祝福』を受けた選ばれし存在。皆がこっちに従ってれば、世界が救われた〟
駄目だ。
俺に語り掛けているというより、思い出に浸っているような独り言だ。問いかけに答えてくれそうもない。
〝だが俺は負けだ。裏切りだ。あのクソ神父が、酒に酔った俺をレグルス迷宮に放り込んだ〟
レグルス迷宮? ここのことか?
〝武器も鎧もねぇ。道もわかんねぇ。俺は迷った。迷って……そしてついに動けなくなった。飢えて、飢えて飢えて飢えて飢えて。肉が食いたい、血が足りない。心の中でそう叫んだ〟
こいつ。迷宮で迷ったなんて……魔族に殺されなかったのか? まあ、そこで死んでたらこの魔剣は生まれなかったと思うが。
〝んで、その声があの魔族に届いて、勝手に魔剣にされちまったわけだ。はっ、こっちは頼んでねーっつーの。しかも俺の呪いを見るや否や、失敗扱いして手放しやがって〟
「魔剣にされた? ゼオンの〈剣成〉のことか?」
〝とにかくんなわけで俺様は裏切られたわけだ。その時悟ったね。人ってやつは腐ってるわ〟
誰かに裏切られて剣にされたことを恨んでいる? 怨恨の対象がやがては人類全体に? とても理性的とは思えない。情報が少なすぎてよく分からないが、とりあえずこいつが簡単に説得されそうにないということだけは理解できた。
〝俺様は人を切る。魔族も切る。この世の中を腐らせてんのは、いつの世も生物だ。俺はあの糞ったれ魔族に魔剣にされたが、その点だけは感謝してるぜ〟
すぅ、と小鳥が呼吸を正した。
魔剣ベーゼを中段に構え、そのまま静止。明らかな戦闘態勢を見て、俺たち全員に緊張が走る。
〝――俺様がこの世界を正してやるよ。腐った人類も、魔族も、俺の渇きを潤す贄となれ〟
それが、魔剣ベーゼの答え。
誰もが、沈黙した。
駄目だ……。
こんな奴を野放しになんかできない。魔剣は心悪しき者とかつてゼオンは言っていたが、なるほど確かにこいつは手を付けられた大悪党だ。人を殺すことを正しいと思っているらしい。
小鳥が剣を構えたまま突撃した。
俺たちの、戦いが始まった。




