地方の農夫
マルクト王国首都、マルクスにて。
夜、王城は珍しく喧噪に包まれていた。
玉座の間に侵入者が現れたのだ。
平時は重鎮と特別な来賓しか訪れることのないこの部屋であるが、今、ここには国王の望まぬ侵入者が現れていた。
「ぬぅん!」
剣を一振り。ただそれだけで屈強な護衛十人が吹き飛んだ。
魔族、刀神ゼオンである。
国王アウグスティン八世は激しく狼狽した。確かに、かの魔族がグラウス共和国を訪れたという報告は入っていた。しかしまさか、この地に……よりにもよってこの玉座の間へ侵入するとは思ってもみなかったのだ。
「…………あ、あぁ……ぁ」
「陛下っ! ここはお逃げになって。ここはわたくしが……」
「で、でも……」
国王は何もできない。彼は武人ではないし、何より体がそれほど強いわけではないのだ。ひょっとすると咲よりも弱いかもしれない。
だがそれでも、愛する伴侶である咲を守ろうと、飾りの剣を構えて必死に前に出た。構えが定まらないのは当然の事、軽く風が吹けば飛んでいきそうな弱々しさが出ていることは知っている。剣の重さに、手がプルプルと震えている。
ブォン、と風を切る音がした。
瞬きをしたその瞬間、ゼオンの姿が視界から消失した。
「なっ!」
国王は狼狽した。武人ではない彼ではあるが、まさか敵の姿を見逃すとは思っていなかったからだ。
慌てて周囲を見渡すと、隣に立っていた咲の背後に……ゼオンの姿が。
ゼオンは咲の首へ手刀を打ち込み、気絶させる。
力を失った彼女の体を、ゼオンは抱きかかえた。
「王よ、この女はそれがしが頂いていく」
「うああああああああっ!」
国王は一生懸命剣を振るった。だが素人であり力もない自分の剣技は、老人にすら劣っていたのかもしれない。ゼオンは難なく彼の剣を蹴り飛ばした。
「……児戯にも等しき剣さばき。己の弱さを呪うがいい」
ゼオンは、それだけ言うとこの部屋から立ち去った。
国王は殺されなかった。否、敵とすら認識されていなかったのかもしれない。別にそのこと自体は悔しくもなんともないが、最愛の伴侶を失った悲しみは彼の心に深い傷を刻んだ。
「咲……」
虚空に一人、呟く。
無残に殺された護衛の兵士たちが周囲に散っている。今やこの荘厳な玉座の間は、巨大な墓場であり地獄。
かつて隣にいたはずの妃は、もうどこにもいない。
「咲いいいいいいいいいいいいいいいっ!」
静かな玉座の間に、国王の声が木霊した。
*********
アスキス神聖国、南部にて。
神聖国は、大きく分けて四つのエリアが存在する。
首都たる北部。
グラウス共和国側から続く巨大な山脈のそびえる東部。
マルクト王国との交易が盛んな西部。
そして、現在魔族の侵攻を最も受けている穀倉地帯……南部である。
南部には刀神ゼオンの配下が散らばり、それぞれが人類との戦いに従事している。
第八階層迷宮伯爵、万懐のブリューニングもそのうちの一体である。
迷宮において伯爵位を授かった彼は、自らの手足となる配下五十人を引き連れて地上へと侵攻した。
心躍る戦い、兵士たちとの命と命の削り合いが最上。そうまで行かずとも、百人の兵士を自分一人で倒せば相当爽快感が得られるかもしれない。
とにかく、ブリューニングはそんな英雄譚のような戦いを妄想していた。
だが現実は……あまりに残酷だった。
「ちっ」
彼がやってきたのは、とある町だった。
周囲を田園地帯に囲まれたこの町は、恐らくこの農村地帯の中心に位置している。収穫物を集める倉庫や、食堂や教会。一通りの設備が整った、そんな地方都市と言っても差し支えのない町である。
夕日に照らされた田畑は美しく芸術的だ。あまりこういった情緒に関心のないブリューニングでも、思わず感嘆の声を上げてしまうほど。
背後に田園地帯を控える、町の門。門と言っても背の丈程度の木製扉が付いているだけだ。周囲に張り巡らされた柵は、クマや人間レベルであれば容易に乗り越えることができる。おそらく猪対策だろう。
そして、ブリューニングらと相対している人間がいる。
やせこけた農夫だ。
金属ですらない、木製の鍬を持って魔族と対峙している。魔族どころか猪すら倒せるかどうか怪しい装備だ。
(……なんなんだよこいつらは?)
ブリューニングはあきれるのを通り越して哀れさを覚えてていた。彼らは明らかに戦闘員ではないし、戦うのには不向きだ。
この町は規模で言うなら千人を超えている。そしてブリューニングは、比較的ゆっくりと自らの存在を誇示するようにこの町まで進軍していた。途中で見張りのような者を見つけても見逃していたし、派手に魔法を使ったりもしていた。
本来であれば兵士が集まっていないとおかしい。そしてたとえ兵士が集まらなかったとして、逃げていなければならないはずだ。
ブリューニングは騎士道精神のようなものを持っているわけではないが、戦いは戦士のものであると理解している。人間を殺すことはあっても、それは戦いの結果であり目的ではないのだ。
農夫だけを虐殺する。それは戦闘狂の彼にとってもっともつまらなく、そして不快な結果だった。
(……王は何をしている? 兵士は?)
ブリューニングは人間の専門家ではない。しかし彼らには王がいて、その配下に兵士がいることは理解している。
だからこそ、困惑していた。
「お、オラたちの土地から出てけ!」
農夫が鍬を構えて魔族を威嚇する。しかしそんなものはブリューニングにとって何の障害にもならない。
「お前たち、本当にそれで俺たちに勝つつもりか? 武器を持った兵士を呼ばないのか?」
「兵士は来ねぇ。お役人様も逃げた! オラたちは見捨てられた!」
「…………」
「土地がなくなりゃオレたちは終わり! 逃げ場なんてねぇ!」
やはりか、とブリューニングは眉間に皺を寄せた。
許せなかった。
農夫を犠牲にし、戦いをせず逃げ出す指導者などクズ以外の何者ではない。
――夕日が目に刺さった。
「行くぞ」
ブリューニングは武器を構えて歩き始めた。
背後、すなわち町とは真逆の方向へと。
「……しかし、ゼオン様の命令が」
配下の魔族が苦言を呈す。
歯向かう人間を、すべて殺せ。それが彼の上司にして魔族三巨頭であるゼオンの命令。
逆らうことは許されない。
「見えねぇな」
だが、ブリューニングは否定する。
「俺たちは薄暗い迷宮生活が長かったからな。夕日がまぶしすぎて、何も見えない。俺には人間なんて誰も見えない。お前たちはどうだ?」
「…………」
配下の魔族は熟考したが、やがては口を開いた。
「私も……見えません」
「俺も……」
皆が、ブリューニングを肯定した。
考えていることは同じなのだ。こんなことをしても何もならない。戦士は戦士と戦うべきなのだ。
こんなものは、戦いではない。
こうして、ブリューニングに見逃された町の一つは難を逃れた。
ただし、これはあくまでレアケース。
多くの地方では、ゼオンの命令に従った魔族たちによって……農夫がなぶり殺しにされていた。




