セントグレアム修道院
アスキス神聖国聖都、セントグレアムにて。
聖女亞里亞は町を歩いていた。
この国の首都、セントグレアムはそれなりに広い都市だ。グラウス共和国の首都と違い教会などの宗教色が強い建物が多いものの、大都市という意味ではそれほど違いがないだろう。
にぎやかな場所。
実際、今日もまた人の声が多く聞こえる。
だが――
(……最近、妙に騒がしいですわね)
異邦人としてこの都市で過ごした期間が短い亞里亞ではあるが、最近のこの都市には何となく違和感を覚えている。
何かが、違う。
確かに、近々祭りが開かれることは聞いている。グラン・カーニバルと呼ばれるその祭りは、この聖都においてとても重要で大きな祭典らしい。
しかし祭りの前の浮かれ具合とはまったく別種の、怯えや不安のような空気を感じるのは気のせいだろうか?
(……聖下)
聖女亞里亞は両手を合わせた。何となく心を不安にさせる今の状況に、彼女は神の代弁者である教皇へと祈りをささげたのだ。
祈る先は、教皇の住まいとされる中央礼拝堂。丘の上にある巨大な建物だ。
そしてその建物の隣には、もう一つの施設が付随して建っている。
セントグレアム修道院。
若い女たちが集う、修行の場だと亞里亞は聞いている。
未だ若輩の身。いつかはあの修道院で修業を、というのが彼女の願いでもあった。
「せ、聖女様!」
一人のみすぼらしい男が、亞里亞に駆け寄ってきた。決死の形相を見る限り、何か重大な話があるに違いないだろう。
だが、彼が亞里亞の元へ近づくことは叶わない。
亞里亞の護衛である教会騎士の一人が、彼の行く手を塞いだからだ。
「このお方は聖女アリア様。教皇聖下の寵愛を受ける尊きお方。貴様のような怪しい者を近づけるわけにはいかん! 早々に立ち去れっ!」
教会騎士は剣を構えて男を威嚇する。その気になれば彼を殺すことも可能だろうが、この往来でさすがにそんなことはしないだろう。そしてなにより亞里亞がそれを許さない。
男はそれでもと亞里亞に手を伸ばすが、教会騎士は手を緩めない。
「騎士様……良いのです」
「聖女様?」
「わたくしが、彼とお話をいたしましょう」
これまでもこういうことは何度かあった。そのたびに騎士たちの言葉に従い、彼らの話を聞かないようにと思っていた。
自分は女。ならば男性である騎士たちの言葉に従うことが教義の上で最上。
しかし、今は少しだけ……考えが変わっていた。
「わたくしのことを思い、今日まで多くの殿方を退けてくださった件は感謝が絶えません。しかしわたくしはすべての男性に奉仕する存在。どのような格好、身分、体をした者でも受け入れなければならないのですわ。そう、これはきっと神が与えし試練」
「あ、ありがとうごぜぇますだ。聖女様」
教会騎士の動きが一瞬止まったその時、男は剣と鎧の壁をすり抜けて亞里亞に近寄った。そして修道服の裾を掴み、こちらを見上げた。
「貴様、それ以上は……」
「お、おらの村が、魔族に焼かれただ!」
魔族? と亞里亞は首を傾げた。
もちろん、知識としての魔族は存在する。かつて下条匠の屋敷で働いていた時、彼が戦うべき相手だということで小耳にはさんでいたのだ。
しかし今、この時まで、彼女が魔族に関する話題を耳にしたことはなかった。
「隣の村も、遠くの村も、みんなみんな焼かれただ! 息子は殺された! 聖女様のお力で、なんとか教皇様に掛け合ってくれねぇか? 兵隊さくれば、村の皆を守れるだ!」
亞里亞は心を矢で貫かれたかのような衝撃を受けた。
魔族が地方を荒らしているという話を、全く知らなかったからだ。
男が嘘を言っているようには見えない。素朴で、それでいて深い悲しみに包まれた彼の雰囲気は、とても人を騙しているようには見えなかった。
だが、教会騎士は慌てたように彼と男の間に割り込んだ。
「聖女様! これは何かの間違いです! 魔族がこの国を荒らしているなど、そんなことがあるはずはありません。悪霊につかれた不審者は、時として人を惑わす言葉を発すると聞きます。どうか、私の……」
「ありがとうございます」
亞里亞は涙を流しながら、教会騎士に感謝した。
「わたくしのためを思って、今日までずっと隠し続けてきたのですわね。ですがわたくしはもう子供でも未熟者でもありません。現実を見据えるだけの強い心を持っています」
男は嘘をついていない。
しかし教会騎士は彼を嘘つきだと言う。
この矛盾した状況を説明するため、亞里亞は己の心に一つの解を見出した。
心優しい教皇聖下は、亞里亞の繊細な心を心配、あるいは政治にかかわらせたくないという一心で真実から遠ざけた。すべては彼女を思ってのこと。
「どれだけ教皇聖下に目をかけられていようと、わたくしは聖女。皆の苦しみを知らずして何が聖女でしょうか?」
「…………聖女様」
「陳情があったのは事実。ならばそれは聖下に伝えるのが、聖女としてのわたくしの責務。このお方の必死なお姿を見ますところ、事態は一刻の猶予もないですわね。聖下が思っている以上に……」
男の陳情を聞き、亞里亞は決意した。
教皇は礼拝堂にいるはずだ。多忙であり面会できない時もあるが、亞里亞の話であれば必ず聞いてくれるはずだ。
「……アリア様のご決断、確かに理解いたしました」
教会騎士が、その兜を脱ぎ捨て頭を下げた。
「教皇聖下には私から伝えておきます。ご自分で仰りたいというのであれば、すぐにでも面会の機会を設けましょう。それでよろしいですかな?」
「ええ、お願いしますわ」
亞里亞は泣き崩れる男を介抱し、大通りを歩いてく。どこか彼を休ませる場所を探しているのだ。
連絡役の教会騎士一人は礼拝堂へと向かい、他の騎士たちは彼女についていった。
********
――セントグレアム修道院にて。
「ははははははっ! ほら、何をしているのですかお前たち! もっと余を楽しませるのです! 奉仕が足りませんよ!」
ここは修道院の一室。
薄く湯の張られた浴槽には、教皇と彼を取り巻く若い女たちがいた。
ここはセントグレアム修道院。アスキス教において女性が禁欲と信仰を守るため、修練を積む場所。……と、下位の信者や亞里亞には伝えられている。
しかしそれは、表向きの姿。
セントグレアム修道院には別称がある。
後宮、と。
ここは後宮。国中から集めた若い女たちが、教皇に奉仕する場所なのだ。
「一番余を悦ばせた者には、金貨を一枚授けましょう。ほらほら、早い者がちですよ。何をしているのですか!」
「ああぁん、教皇聖下」
「神の……神の子種をください」
彼女たちは教皇が好きなわけではない。親の願い、身に余る莫大な借金、あるいは何かの大罪、そして故郷を魔族に追われる。何らかの負い目がありこの場所にやってきている。
教皇の子を孕んだ者には特別な報酬が与えられる。それは大金であったり、あるいは懲役刑の帳消しであったり、地方における一族の優遇であったり様々だ。この国は教皇と、それを取り巻く血縁者たちによってすべてが回っている。
(……すばらしいですね)
昨今の女たちは美女ぞろい。魔族侵攻によって地方から大量の女性が流入し、教皇は自らの性的嗜好に合わせて1000人程度を選別した。残りはすべて司教や枢機卿に分け与えている。
確かに、魔族侵攻は一大事。
しかし歴史のひもを解いてみても、魔族が首都まで侵攻してきたことはない。秩序だって攻めてくることがない彼らは、たいてい荒らすことに満足したらすぐに迷宮へと戻っていくのだから。
自分は安全、そして女たちが全国各地から送られてくる。教皇にとってこれほどうれしいことはない。
「教皇聖下!」
教皇はむさくるしい男の声を聞いて顔をしかめた。部屋の入り口には、この地にふさわしくない鎧姿の男が立っている。
「も、申し訳ございません聖下」
「…………」
教皇は激しく気分を害した。女と戯れているときは邪魔するなと、きつく命令してあるはずなのだ。
そもそもここは仮にも男子禁制の修道院。うわべだけの設定であることは教皇も重々承知ではあるが、自分以外の男がやってくることに関してはあまり快く思っていない。
「聖女アリアに、例の魔族の件を気付かれてしまいました。わが身の至らなさを呪うばかり! どうか、どうかお許しをっ!」
教会騎士は亞里亞の護衛であると同時に監視役でもある。余計な情報を与えないため、陳情者を葬ったり有力者に金を握らせたり、彼女の目には映らない汚い仕事をやってきていた。
田舎の地域とはいえ、国の領土を魔族に荒らされていることを亞里亞に伝えてはならない。心優しい彼女はそれに心を痛めるだろうし、何より教皇である自分が無策を貫き通していることに気がつかれたくなかった。
今はまだ、心優しい教皇の仮面を捨てるべきでないのだ。
そう、思っていた。
「……良いでしょう」
だが、教皇は彼を許した。本来であればこの男を嬲り殺してもよいぐらいだが、ちょうどいいタイミングだとすら思っていた。
「これもまた、神の意思でしょう。……青いうちに果実を貪り食うのも一興。その時が来たということでしょう。祭りの日も近いですからね」
「で、では……」
「二日後、聖女アリアを礼拝堂に連れてきなさい」
「は、ははっっ!」
教会騎士は恭しく一礼をし、部屋の外へと出て行った。
教皇は再び浴槽の中に飛び込み、女たちの奉仕を受けた。
魔族の侵攻、教皇の決断。
その身に迫る脅威を、亞里亞はまだ知らない。
ここで大妖狐編は終わりになります。




