雫の頼み事
ここは、かつて勇者たちが四人で住んでいた家。
革命の余波によって下条匠が追放された後、長部一紗がその役割を引き継いだ。彼女は自らの友人三人とともに迷宮へと潜り、多くの魔物をその剣で屠った。
しかし、呪いの魔剣によって小鳥が消え、一紗自身も匠のもとへ身を寄せ、そして雫もまた同様に家からいなくなった。
首都の一等地に建ったこの家の住民は、今ではたった一人。
森村りんごはケーキを作っていた。
しっとりとしたスポンジ生地にはチョコレートのコーティングがほどこされ、その上にはラズベリーのジャムが垂らしてある。
「うんうん、我ながら良い出来ですな」
一人で、明るめにそう呟いた。
実際、ケーキはよくできていると思う。もしここに一紗や雫がいれば、我らがパティシエールの偉業を讃えていただろう。
しかし今、リアクションを取る者はこの部屋にいない。
寂しいかと問われれば寂しい。ここにはかつて一紗がいた、雫がいた、そして……小鳥もいた。それは過ぎ去りし日の思い出で、もう二度と戻って来ない。
「…………」
寂しい気分を払しょくするように、りんごは首を振った。
ケーキを一人で食べる……ことができなくもないが、それでは栄養が偏るし何より太るからいやだ。これは友人である一紗や雫の分。タイミングが合えば匠にだってあげてもいい。
屋敷へ向かうため、ケーキを入れる容器を何にすべきか思案しているちょうどその時、ドアを叩く音が聞こえた。
「りんご……」
ドアの前に、銀髪ツインテールの少女――雫が立っていた。身に着けているデニムっぽいワンピースは、かつて一紗とりんごが彼女にプレゼントしたものだ。
「しずしず?」
ぎゅ、っと腰のあたりに抱き着いてくる雫。りんごの身に着けているエプロンはチョコレートで少し汚れているのだが、そんなことは彼女にとってどうでも良いらしい。
雫はあまりコミュニケーションが得意な方ではない。
ただ、どちらかと言えば強がってることが多い雫なので、こんな風に甘えた態度を示してくること自体が異常だった。
「どうしたのしずしず、何かあったの?」
「た……匠が……その……」
「たっくん? 昨日はたっくんの屋敷にいたんだよね?」
「…………」
伏し目がちに頷く雫を見ていると、思わず抱きしめたくなってしまう。
「ああそこは私のいるところ……じゃない」
あわあわと、何か言いたいがうまく言い表せないと言った様子で、雫は途切れ途切れに言葉を紡いでいった。
「あああああ、あいつ。あんな……部屋に、女をいっぱい連れ込んで。し、信じられないものを見た。もう私は、何を信じていいか分からない」
りんごに抱き着きながら、取り乱す雫。
どうやら、事態は思った以上に深刻なようだ。
「たっくん……そんな人だったなんて。しずしずのこと、何も考えてくれてないんだね……」
「ち、違う! あいつはちゃんと私のことを考えてくれる。この前一緒のベッドで寝たときだって、私にすごく優しくしてくれて……。私のこと好きだって! 愛してるって! 何度もキスしてくれた!」
(うわぁ……)
りんごは複雑な気持ちになった。雫と匠の間に何が起こったか、それは火を見るよりも明らかだ。
かわいがってかわいがって、愛でていた雫が匠のもとに行ってしまった。
娘の結婚を報告された母親とはこのような気持ちなのだろうか。
「だからりんご、私のために一緒に来てくれないか?」
「一緒に?」
「あの屋敷で、一緒に住んで欲しいんだ」
これが漫画の一コマなら、りんごの頭に『?』マークが浮いてると思う。そんな顔をしていた。
「え、りんごが?」
「確かに、私はあの屋敷はちょっと怖い。あまり話をしない人がいっぱいいるし……。でも私はあいつのことが好きなんだ! りんごがそばにいればきっと頑張れる! 耐えられる! 匠の寝室まで来て欲しいなんて言わない。ただ、あの屋敷に私の居場所を作りたいんだ。だから頼む!」
要するに、アウェーだから応援が欲しいと言っているのだ。その理屈は理解できる。
しかし……。
「……うーん」
本音を言うと、りんごとて匠の屋敷に向かうのは抵抗がある。
りんごは雫に比べてはるかに社交的ではあるが、それでも今やこの国の大統領であるつぐみと会話をするのは若干緊張する。そしてなにより、かの地は匠とその愛人たちの愛の巣。匠に好意を持ちつつも、愛しているというわけではないりんごにとっては少し敷居が高すぎた。
うーん、とうなりながらどう返答しようかと思案しているりんごを見て、雫は不安になったらしい。まるで涙を拭うように、りんごの腰に頭をこすりつけながら、上目遣いで声を上げた。
「りんごぉ、私はりんごがいないとダメなんだ! 一紗はあいつのことが好きすぎてこっちのことを見てない! 私はだって、あ、あいつのこと、好きなんだ。一緒にいたいんだ。りんごの力が必要なんだ。もうどんな髪型にされてもどんな服着せられても文句言わないから、私と一緒にあの屋敷で暮らしてほしい」
捨てられた猫のようにすがりついてくる雫を見て、りんごの胸は高鳴った。
かわいい……。
こんな愛くるしい小動物が、肉球を押し付けながら自分に迫ってくるのだ。とてもではないが、耐えられるものではない。
確かに、りんごにとって匠が暮らす勇者の屋敷は魔境にも等しい。
しかしそれでもりんごは決断した。
「わかったよしずしず! この恋のキューピット、エンジェルりんごに一切合切お任せあれ!」
「……りんご」
縋りつく雫を見ながら、りんごは思った。
この子を、守らなければならない。
こうして、森村りんごは勇者の屋敷へと向かうことになった。
表向きは、一人で暮らしていて寂しくなったから一緒に暮らしたい、という当たり障りのない理由。
だがすべては、慣れない環境で苦しんでいる雫の心を、少しでも助けるため。




