神聖国の教皇聖下
アスキス神聖国首都、セントグレアムにて。
アスキス神聖国はアスキス教を国教とし、神権政治を敷いている。
国主にして教主たる教皇、各教区最高の宗教指導者である枢機卿、その傘下にある教会の主である司祭、さらにはそれを補佐する助祭、そして一般の男性信者、そして最後に女性信者の順番で序列が存在する。
そして今、この地には7つの教区を収める枢機卿と、最高指導者である教皇が集まっている。
三か月に一回、首都セントグレアムの中央礼拝堂で開かれる会議である。
ガラス質のテーブルには神話をモチーフにした細密な宗教画が描かれ、周囲の窓、壁、天井に至るまで汚れ一つ存在しない。ある種の芸術品とも言っていいその部屋は、常人であれば息をすることすら躊躇してしまうかもしれない。
テーブルのそばには玉座にも似た豪華絢爛な椅子が置かれ、そこには八人が座っている。
その最も豪華な椅子に座る、一人の中年男性。
錫杖を持ち、冠を身に着けた荘厳な出で立ち。やや白髪の混じった灰色の髪を持つ、恰幅の良い男。
教皇、ホーリーランド三世である。
「魔族、ですかな?」
教皇は、これまでずっと兵士の話を聞いていた。緊急の要件ということで、報告を受けた。
魔族が転移門から出現し、地方を蹂躙しているという話だ。
「はっ、すでに近隣の村にまで被害が出ております。聖下、これは国家を揺るがす一大事でございます。都市、国境に張り付いた兵士たちを向かわせ、領内の魔族を一掃することを進言いたします」
「この地に魔族が侵入していると?」
「今のところ、この地域での出現情報はありません。しかし今も、転移門周辺の村々が被害に……」
「ならば問題ありません」
教皇は心地よく笑った。
「過去の歴史を紐解いても、魔族が都市の奥深くまで侵入してきたことはまれ。ましてや首都が被害を受けた例など皆無。数日田舎村を食い荒らせば、飽きて帰ってしまうでしょう。無学で卑しい農夫が死んでも、数のうちに入りませんからね」
「聖下……しかし、それでは……」
兵士が震えている。
教皇は疑問に思いながら深く考える。彼はなぜ肩を震わせているのだろうか? 自分は何か間違ったことを言ったのだろうか? まったく理解ができない。
もっとも、一介の兵士風情が教皇たる自分に物申したとしたら……それは重罪に相当する行為だ。慈悲深い教皇は兵士が『考える』ことまでは許すが、『口にする』ことまでは許さない。
兵士もそれを知っているのだろう。それ以上は何も言おうとしなかった。
教皇が思案していることを察したのか、枢機卿の一人がしたり顔で声をかけてきた。
「聖下、お忘れですかな? このアスキス神聖国は神の祝福を受けた歴史ある大国。領地には偉大なる聖人の遺跡、聖遺物が散在しております。たとえ田舎と言えど、むやみやたらに荒らされても困るのです」
「おお……余としたことが忘れていました。確かにそれは一大事。尊き我らが先祖の足跡を、野蛮な者たちに汚されるわけにはいきませんね。はてさて、どうすれば?」
「農夫どもを囮にしてみては? 遺跡も遺物もない、田舎村に集めるのです。兵士たちに魔族を誘導させ、その地へ釘付けにするのです」
「はっはっはっ」と教皇が笑いながら拍手をした。枢機卿の提案に納得したのだ。
「素晴らしいですね。男と、醜い女は全員集めましょう。そして家族を失った美しい女には、余から格別の慈悲を与えることを約束しましょう」
「……聖下のハーレムは留まることを知りませぬな。後宮の建物がまた一つ増えますぞ。稀代の傑物ですな」
「聖人アントニヌスの記録を塗り替えますな。歴史的偉業かと……」
口々に自らをほめたたえる枢機卿たちの様子を見て、教皇は気分が良くなった。
「…………」
「そこの兵士、追って命令は下します。下がりなさい」
兵士は頷き、無言のまま会議室から退出した。
すると、それまで曲がりなりにも肩ひじを張っていた枢機卿たちが、ため息をつくように体を弛緩させた。ポキポキと関節を鳴らしている者までいる。
「やれやれ、魔族だの村だの堅苦しい話は疲れますな。女、女の話をしましょう」
「思い出しましたぞ。聖下がいつも連れているあの女、『異邦人の聖女』と呼ばれている異世界人、聖女アリア。ヴェール越しに顔を見たことがあるが、なんと美しきことか。私は聖下が羨ましい。彼女はそろそろ聖下のお子を……」
「ふふ、何を言うかと思えばアリアのことですか。子? 私は何もしていませんよ。彼女はまだ処女です」
ざわり、と枢機卿たちがどよめきだった。
「……なんと、あの女はまだ処女なのですか?」
「にわかに信じられない話ですな。聖下のおそばにいて手を付けられなかった女を見たことがありませぬ。一体どうなされた?」
「ふふ……ふふふふ……」
教皇は笑う。
それは、神に愛され万人の上に立つ者とは思えないほどに、欲深く醜悪な笑みだった。
「……最近、余のことを知らぬ者など国内には誰もいません。寄ってくる女は、誰も神の子を産みたいと強請るばかり。本音を言いますと……飽きてきているのです」
「…………」
「その点、彼女はまだ何も知らない。余に奉仕することを喜びとしながらも、余のことを全く疑っていない。純情無垢、汚れを知らない聖女をこの手で抱きたい! それが余の大願!」
枢機卿たちは小さく笑っている。
またこの教皇は、とでも思っているのだろうか。
主に対して少々不躾ではあるが、教皇自身はその程度のことで彼らを裁こうとは思わない。適当な権力、財、女を与えれば十分に働いてくれる人材だ。代えは利きにくいため重宝している。
「言うまでもないとは思いますが、聖女アリアに手を出すことは許しません。あなた方は枢機卿の身分にありますが、余に逆らえばどうなるか……知らないわけではないでしょう?」
それは、この欲望と権力渦巻く神聖国の頂点に立つ男が発した――怒気。
枢機卿たちは体を震わせた。
「ご、ご冗談を聖下」
「……我ら神の輩、神の下僕。神の代弁者たる教皇聖下に、なぜ逆らうことがありましょうか」
枢機卿たちは手で十字を切り、信仰の表現をする。
「よろしいのです」
教皇が頷いた。
その後、とりとめのない話をして会議は終了した。
辺境の地で魔族に苦しむ農民の救済策は、一度として話題に上がらなかった。




