時任春樹と大丸鈴菜
父は、政治家だった。
過去に閣僚入りしたこともあり、通行人十人に名前を聞けば四・五人は覚えているであろう有名人。政界ではその名を轟かせ、党内ではその名を知らぬ者はいない。
派閥を超えた交渉力から、『政界の交渉人』の異名をとる。そんな偉大な父だ。
曾祖父は明治時代に県の知事を務めていたらしく、祖父も閣僚入りしている。いわゆる世襲政治家という奴だ。
――春樹、お前は自由に生きなさい。
長男、しかも一人っ子である俺に対して、父は後継者になれとは言わなかった。
自分の将来は自分で決めろ。父さんは全力でサポートする。家のことは気にするな。
そんな優しい声に励まされて、健やかに育っていった。
俺がそれに気が付いたのは、中学を卒業する頃だった。
学校の成績が良く、生徒会長を務めていた俺。
ある日進路志望調査の面談があったので、教室で先生と二人、話をすることになった。
担任は進路志望調査票を机の上に置いた。
そこに書かれていた内容は、俺の字と似ていたが俺の書いたものではなかった。
誰かが用紙をすり替えたのだ。
心無い生徒のいたずらだったらしい。控えめに言っても優秀な俺だ。仲間や友人も多かったが、時として嫉妬やあらぬ誤解から誰かと激しく対立することもあった。
書かれている内容は、俺が実際書いたものと同じ進学志望。ただし志望先が俺の望む私立ではなく、少し離れた場所にある別の公立進学校になっていた。
距離が自宅から少し離れているため、通学は多少不便になるだろう。しかしそちらの進学校に行く友人も多いため、書かれる内容としては不自然なものではない。
やれやれ、と思いながら担任にかける言葉を考えていた俺は、すぐに彼の様子がおかしいことに気が付いた。
――時任、勘弁してくれ。頼むから……考え直してくれぇ……。
先生が涙を流していた。
もちろん、俺にその気などなかったし、少し話せばすぐに誤解も解けただろう。しかしまるで暗殺者に怯えるようなその担任の顔を見て、俺は少なからず動揺した。
父の圧力だった。
後で知った話だが、父は学校にも担任にも志望校にも手を回していた。私立の理事に賄賂を渡し、担任にも校長からその話が行っていた。
むろん、学力レベルで言っても俺の推薦入試には何の疑いもない。要するに将来家業――政治家に仕立て上げるためだった。
思えば、思い当たることはいくつもあった。
毎年恒例、有力者への挨拶回り。
事務所のボランティア。
ひいては父の手伝い。
冷静に見てみれば、俺は議員秘書のような仕事をしていた。父はあれをやれこれをやれとは言わないが、薦めてくることや話しかけてくることは……何らかの形で政治に関係している。
俺も、気分が良かった。
先生に褒められた。名も知れぬ政治家や大臣から『末は総理大臣か』と煽てられた。
俺は父が好きだったから、困ってる父を助けることに何の疑念も抱かなった。感謝の言葉に何の疑念も抱かなかった。
おだてられて、その気になっていた。
俺は、父の手のひらで踊っていたのだ。
誰にも知らせず、物分かりのいい親ぶって、その実……俺の将来を決めていた。
なんてことはない。俺もまた偉大な父の交渉力によってその気にさせられた、愚かなピエロだったのだ。
今となってはもはや手遅れだ。
父の根回しは完璧だ。聞いた話では、約十年後の衆議院選挙において、俺がこの選挙区で立候補することは確定路線らしい。俺が知らないのに何を言ってるんだ、という話だが、対立候補の調整や党の重鎮への挨拶は済みで、もはや野党の議員でさえ諦めている状態だ。
父はやれとは言わない。外堀を埋めていき、偽善者ぶって『お前もやりたいよな?』と言うのだ。例の志望校の件も、もとはといえば選挙区を離れることを嫌がった父の圧力だった。
何より、俺自身もそういう将来に対して悪い気がしていない。今更教師になるとか、ミュージシャンになるとか、学者になるとか言えないし思いもしない。そうなるように
育てられた……というべきか。
ここで非行に走ればストレスを発散できたかもしれないが、俺の頭脳がそんな非効率的で無駄な作業を許さなかった。腐ったのは心だけだった。
そんな暗澹とした心のまま、俺は父の希望通りの進学先に進んだ。
そう、あれは今の学園に進学したときの話だ。
六月に、入学して最初に行われた中間テストがあった。
俺は学園二位だった。
この結果には驚いた。中学時代、俺は常にではないが上位をキープしていたし、調子がいいと感じたときは必ず一位だった。今回の手ごたえは最良と言ってもよく、実際二問以外すべて問題を解けたのだから自惚れとも言えない。
一位は同じクラスの大丸鈴菜という女。満点だった。
この結果を見て、俺は心の中で一位の彼女を嘲笑った。
俺は最も効率的かつ効果的な方法でテストの点を取得する。俗っぽく言えば、『コスパ』の良い勉強をしているというわけだ。
このレベルの点を取るためには、もはや教科書を丸暗記するだけでは済まされない。大学レベルの参考書と、専門書のどうでもいい歴史を学ぶほどの覚悟が必要だ。
つまりは、非効率的で対価が合わない愚かな行い。見栄っ張りの教師が出題する悪問に付き合う必要はない。
低レベルなテストの点を取って悦に浸っている、愚かな女だ。この狭い学園で天才ともてはやされるがいい。真の勝者は時間の使い方を心得ているのだよ。
などと考え、自分を慰めていた。
それは、ある日の化学授業での話だ。
この化学教師は良くない授業をする。大学では化学の研究をしていたらしく、その内容をペラペラと口にするのだ。
理解しやすくかみ砕いてくれればいいのだが、この教師はそんなことをしない。高校生に理解できない用語を、マシンガンのように喋り通すだけ。要するに自慢したいだけなのだ。
説明もなしにアキシアル位とかエカトリアエル位の話をされる高校生の心情を理解してほしい。このレベルならまだ俺も理解が及ぶが、それ以上のこととなると意味不明だ。
そんな訳の分からないストーリーをペラペラと喋る教師を、件の大丸鈴菜が堂々と指摘した。
――先生、その引用論文は取り下げられました。
サイエンスの論文取り下げに関する指摘だった。
教師は狼狽した。優や他の生徒たちは唖然としている。
俺はすぐにスマホを使って、話題の論文を確かめた。指摘通り、データ不備により取り下げがあったということだった。
あの指摘の速さ、俺のようにネットで確認したのではないだろう。こんなことは、普段から科学雑誌を読んでいなければできない。
それからも、彼女の快進撃が続いた。
俺は彼女を、大丸鈴菜を理解していなかった。
彼女はテストのために努力しているのではない。あらゆる知をどん欲に欲している、ただそれだけなのだ。
真の実力者は、悪問すらも退けるのか。
彼女の天才ぶりを見て、俺はむきになっていた。
父に言われ、周りに褒められ効率と能率を重視していただけの俺だったが、いつしか彼女に対抗するように学ぶことを重ねた。
その想いに気がついたのは、いつ頃だっただろうか?
反抗心はやがて崇拝に代わり、俺は彼女を『知の女神』として崇めるようになっていた。
俺は彼女に告白した。
学園のツートップとしてうわさされる俺たちだ。もちろん多少なりとも話をしたこともあるし、互いのことを悪く思っているはずがない。俺の優秀さは彼女も理解してるし、彼女の優秀さは俺も理解している。
ただ、俺の方が少し劣っていたことは認めざるを得ないが。
ともあれ、俺は彼女から返答をもらった。
――自分より頭の良い人と付き合いたい。
ショックだった。
後で知った話だが、こう言われたのは俺だけじゃない。彼女は頭だけでなく顔もいい。何人もの男からそれとなく言い寄られ、同じ返答をしたらしい。
未練がましいことは重々承知だが、俺はこの返答にチャンスを見出した。彼女は待っているのだ。自分を超える逸材が現れるのを。
ならば俺がその役を担おう。
偉大なあなた様の横に立つ、一人の男になると誓おう。
俺は鈴菜様を手に入れてみせる!
……目標に向け確かな努力を重ねていく情熱的な俺とは対照的に、政治家気質の冷静な俺は傍らでこんなことを考える。
愛とは不確かな感情だ。
永遠の愛など存在しないように、ここで鈴菜様が仰った主張……すなわち『自分より馬鹿な男と付き合わない』という話も気が変わる可能性すらある。別に公約ではないのだから、それは罪でもなんでもないのだが……。
その時はどうするか? 答えは決まっている。
かつて、そして今なお父が俺にしているようにすればいい。誘導し、交渉し、金とコネと能力で望む状況を作り上げる。
俺にはその能力がある!
もっとも、それは最後の手段だ。俺にだって良心はある。彼女の感情を無視して行動するなんて、不本意だからな。
ともあれ、今は努力が必要だ。
今もまだ、俺の戦いは続いている。




