赤い天使1
戸棚に入っていた酒を全て取り出して叩き割る。
甘っとろいワインの匂いが、部屋中に充満した。絨毯は大量の酒を含み、歩くと水音がする。粉々に砕け散ったガラスの破片が、蝋燭の明かりに照らされてきらきらと光った。息が乱れ、肩で呼吸を繰り返す。これで良かったのだと思う反面、後悔もしていた。
今すぐにでも言葉を撤回し、彼女を連れ戻しに行きたい。もう一度この手で抱きしめ、温もりを感じたい。だが連れ戻したところで、きっと同じことを繰り返すだけだ。ティティーヌはいつまででもヴィドックを想い、リュシアンの想いが成就することはないだろう。
狂いそうになる心を、抑えるのに苦労した。フランクを呼び出して新しい酒を運ばせる。受け取るなり、リュシアンは一気に飲み干した。そして両手に瓶を抱え、おぼつかない足取りで温室に向かう。当然のことながら、ティティーヌの姿はもうなかった。
彼女がいつも座っていたガーデンチェアに、崩れ落ちるようにして座るとまた酒を飲む。
「ティティーヌ……、ティティーヌ……」
顔を伏せ、うわ言のようにつぶやいた。
その時、誰かがそっと肩に触れた。
「ティティー……」
戻ってきてくれたのかと顔を上げたリュシアンの瞳に、映ったのはコレットだった。
「あなたには……、私がいます」
真剣な眼差しで、彼女は言った。
「私なら……、あなただけのものになれる。絶対に裏切らないわ」
リュシアンは目を見開いた。
「あの人の代わりでもいいから……、私を見て」
今にも泣きそうな顔で訴える彼女に息を呑む。
「それでは……もっと君を傷つけてしまう」
「それでもいいわ」
忘れられるよりは。
隣にいるのに、まるでいないみたいに扱われ、漏れてくる嬌声を聞いていた。その日に咲いた一番美しい花はティティーヌに届けられ、自分の部屋には枯れかけた花が何日も置かれた。ティティーヌに促されてようやく顔を見せる程度の扱いに屈辱を感じた。もうあきらめて故郷に帰ろうとも考えた。だけど嫉妬も怒りも長くは続かず、気づいた時には彼が顔を見せてくれるだけで嬉しいと思うようになっていた。
彼が会いにきてくれる。それだけのことがどれほど嬉しいか。たとえそれがほんの五分でも、十分でも、自分のところに足を運んでくれるということがコレットにとっては喜びだった。それだけで満たされた一日を過ごせるほど救われた。
やっぱり私には彼しかいないのだ。
「私を見て、微笑んで……?」
それだけでいいから。
「あなたになら……、殺されたって幸せだから」
たまらず、リュシアンは抱き寄せた。
「すまない……」
コレットには、本当に辛い思いばかりさせてしまっている。
「俺は、君をティティーヌの代わりにしてしまう」
「いいのよ。それでもいいの」
「ティティーヌと呼ばれても……?」
「それであなたの気が楽になれるなら、かまわないわ」
包み込んでくれたコレットの優しさに、リュシアンは溺れた。
きつく抱きしめ、彼女の胸に顔をうずめる。コレットはそっと頭を撫でてくれた。
「君がいてくれて良かった……」
心から感謝して告げたが、
「ティティーヌ……、いなくなっちゃったの?」
ガラスの向こうに、呆然と立ち尽くすアンリがいた。
「お前にも……、謝らなきゃならんな」
リュシアンは体を起こし、アンリに言った。
「ティティーヌはヴィドックの元に行かせた」
「……戻って、こないの……?」
「ああ。彼女がここに戻ることはもうないだろう」
最近では、アンリもティティーヌと打ち解けてよくここで会っていた。
その彼女に会えないとなれば、きっと泣くだろうと思ったが。
「……そう」
アンリは短く答えただけだった。
「寂しくないのか?」
意外に思ったリュシアンに、彼は答える。
「寂しいよ。でも僕約束したんだ」
「……約束?」
アンリの顔は、淡々としていた。
「一人前になるまではガラス越しでしか会わないって。もうガラス越しでも会えなくなっちゃったけど、でも一人前になれたらまた会えるから、だから大丈夫だよ」
いっぱい勉強して、立派なヴァンパイアになったら会いに行くから。
直接会ったら、ティティーヌはきっと褒めて、抱きしめてくれるはず。
マークにしていたみたいに、僕のことも抱きしめて喜んでくれるはずだ。
だから今は、会えなくなっても大丈夫。
「そうか……」
真っ直ぐ向けられたアンリの瞳には、固い決意が秘められていた。ずっと危なっかしい子どもだと思っていたが、今の彼には幼さが感じられない。いつの間にか、自分の進むべき道を見出していたらしい。子どもの殻を脱ぎ捨て、大人びた雰囲気をまとい始めた彼に、リュシアンは内心驚いた。見た目はまだまだ幼いが、ひと皮剥けたアンリは引き締まった顔つきをしていた。
同じ屋敷に住んでいて、今頃気づくなんて。
こんなことなら、もっといっぱいティティーヌに会わせてやれば良かった。ガラス越しなら危ないことなんてなかったのに。いつでも冷静でいるつもりが、実は周りが見えなくなっていたのだと痛感する。コレットのことも、アンリのことも、見ているようで見えてなかった。
「……アンリ。今日からは一緒に食事を摂ろう。バーンズに言っておけ」
これからはもっと話をしよう。ちゃんと向き合って、顔を合わせて、アンリの話もいっぱい聞いてやろう。
「コレットの部屋も変えないとな。あそこは今日から君だけのものだ。食事が済んだら早速模様替えをさせよう」
気持ちを新たに言うと、アンリもコレットも嬉しそうにうなずいた。
しかし――――。
「おや。久しぶりにティティーヌを見れるかと思ったんだが、いつの間にほかの人間と入れ替わったんだい?」
聞き覚えのある声がした。
アンリの顔が強張り、無意識に後ずさる。
リュシアンもコレットを抱きしめ、一気に表情を険しくした。
「……なぜお前がここにいる」
庭先からやってきたのは、クレイだった。
「久しぶりだね、リュシアン」
「……ここに来ることは禁じたはずだぞ」
警戒して低く告げると、ガラスの向こうでクレイは笑う。
傍らのアンリに視線を落とすと、彼はにっこり微笑んだ。
「アンリも久しぶりだなぁ。ちょっと見ないうちに顔つきが変わったね」
親しげに話しかけられても、アンリは無言だった。鋭い眼差しで睨みつけている。
「……何の用?」
冷たく聞かれ、クレイは苦笑した。
「参ったな。すっかり嫌われてしまったようだね」
過去の一件を思えば仕方がないかと、納得する彼にリュシアンが言った。
「用件はなんだ。ただ遊びに来たわけじゃないんだろう?」
屋敷への出入りを禁止されたにも関わらず、こうしてやってきたのにはわけがある。それも、手紙をよこさずに自ら出向いてきたということは、それだけ重要なことかもしれない。
「相変わらず、君は勘がいいね。嬉しいよ」
クレイはうっとりと目を細めた。だが次には、その目が切迫したものに変わる。
「君には、伝えておこうと思ってね」
手紙よりも、確実に自分の口で知らせた方がいいと思った。
「ハンターに気をつけて。特に、赤羽根の連中にはね」
それだけ言うと、クレイは長居をせずに立ち去った。
彼は右足を引きずっていた。
◇◇◇
目が覚めて、体を起こしたティティーヌは辺りを見回した。年季の入った古い木造の部屋だった。見覚えがある。自分が寝ているベッドも、傍らに置かれたチェストも。その先にある小さな机には、昔弟が描いたらくがきが薄く残っていた。机の隣にある本棚には、ティティーヌがこつこつとお金を貯めては買い溜めしていた本がびっしりと収められている。ここは間違いなく自分の部屋だった。ウィケット邸で使っていた部屋じゃない。故郷にある、実家の自室だ。
夢でも見ているのだろうか。久しぶりの我が家は、持ち主がいなくなってしばらく経っているとは思えないほどきれいだった。どこにも埃は溜まっていない。きちんと掃除がされている。なぜかおいしそうな食事の匂いが流れてきて、ティティーヌは立ち上がった。
部屋を出て、ふらふらと匂いを辿って廊下を歩く。食材を刻む音が軽快に聞こえていた。誰かいるらしい。キッチンに行こうとして手前のリビングに入ると、ひとりの男が椅子に座っていた。ティティーヌと同じ茶色がかった黒髪。少しくせっ毛だ。背は座っているのでよく分からないが、リュシアンより少し低いくらいだろうか。細身だが、よく鍛えられた無駄のない体つきだ。銀の胸当てをしていて、腰元には銃を装着している。よれた生成りのシャツは、襟元に赤い羽根の刺繍が入っていた。もしかしたら、ハンターかもしれない。男はこちらに気づくと、目を見開いて音を立てて立ち上がった。対するティティーヌも、彼の顔を見て目を丸くした。
長い睫毛。生気に満ちた澄んだ瞳。鼻筋は通り、童顔だが聡明そうな面立ちだった。
「……アドリアン……?」
目の前にいるのは、死んだはずの弟だった。
「姉さん! 気がついたんだね!?」
彼はすぐに駆け寄ると、直前で止まってそっと頬に触れる。
「熱はないね? 気分はどう? 顔色が良くないな。食事はすぐに摂れそう?」
矢継ぎ早に尋ねてくる彼に、ティティーヌは混乱して言葉が出ない。そこに少し高めの、明るい声が響いた。
「起きたのかい? 良かったね! アドリアン!!」
キッチンから満面の笑みで出てきたのは、向かいの家に住むクレアおばさんだった。一体どうなっているのか。ティティーヌは意識を失う前のことを考えた。
ウィケット邸を出た後、まとめた荷物と一緒に巨大化したミシェルの口に入れてもらった。そして一気にヴィドックのところへ行こうと、早い速度で森を進んだ。ミシェルの口内でティティーヌは、絡みついてくる彼女の唾液と強烈な匂いに耐えながら、今か今かと到着を待っていたのだ。石化してもらえたらもっと楽だったのに、と密かに思ったが、フィーナはいないのだから仕方がない。ほかの妖魔の危険を避けるためだと自分に言い聞かせ、贅沢は禁物だと我慢していた。ところが、到着する前にティティーヌを思わぬ出来事が襲った。
まるで谷底にでも落下したかのような強い衝撃に全身を打ちつけ、何が起きたのかと混乱していたところに喉の奥から大量の血が溢れ出したのだ。ティティーヌはミシェルの血の波に呑まれ、外に吐き出されて意識を失った。
「そうだわ……。ミシェル……、ミシェルは?」
「ミシェル?」
「赤と黒のまだら模様の蛇よ。私を運んでいたの。ミシェルはどこ!?」
思い出すなり、不安が押し寄せて問い詰めると、アドリアンが真顔で答える。
「その蛇なら、そこに……」
最後まで聞かず、ティティーヌは彼が指差した木箱に駆け寄った。被せられていた布をはずすと、猫が一匹入るくらいの大きさの箱に、血にまみれてぐったりしている蛇がいた。
「ミシェル!」
胴体の一部に、小指が通るくらいの穴が開いている。銃弾が貫通した跡だった。瞬時に、ティティーヌの脳裏に死がよぎる。震える手を伸ばし、そっと触れようとしたらアドリアンに止められた。
「まだ生きてる。触るのは危険だよ」
その言葉に、安堵と悲しみがこみ上げる。ティティーヌは顔を歪めて頭を振った。
「違う……。違うのよ、アドリアン……」
ティティーヌはミシェルに襲われたわけじゃない。さらわれたわけじゃないし、食べられようとしていたわけでもない。彼女は、ほかの妖魔から守りながらヴィドックのところに運ぼううとしてくれていただけなのに。
ティティーヌは立ち上がり、手当ての道具を取り出した。
「姉さん……、何を――」
信じ難い顔で見つめる彼に答えず、黙々とミシェルの手当てを始める。人間用の手当てで大丈夫かは分からないが、何もしないよりはましだと思った。
「ごめんね、ミシェル……」
小声でつぶやく。優しく包帯を巻いてやると、木箱にはタオルを敷き詰めてから寝かせてやった。
「お腹はすいてない? 何か食べる?」
聞いても彼女は答えない。反応はなく、眠っているようだった。
ティティーヌは木箱を抱え上げる。
「姉さん。それをどうする気?」
神妙な面持ちで尋ねてくる弟に、淡々と答えた。
「私の部屋に連れていくわ」
「駄目だ。いくら瀕死とはいえ そいつは妖魔だ。危険だよ」
強い口調で反対する彼の後ろで、クレアおばさんの顔からも笑みが消えていた。
「この子は敵じゃない。私を守ってくれてたのよ」
「姉さん……。姉さんは騙されてたんだよ」
「違うわ……。ミシェルは違うのよ」
心から訴えても、信じてはもらなかった。
「妖魔が人間の味方をするなんてあり得ないんだ」
危害を加えられる前に救えて良かったとさえ言われ、もどかしさに苦しくなる。
「……とにかく、この子は私の部屋に連れて行くわ」
「姉さん……」
「絶対に手出ししないで」
静かだが、強い口調で告げると、ティティーヌはミシェルを自室に移した。すると弟も無言でついてくる。思わず、声もなく苦笑した。
「……心配しなくても、この子が私を襲うことはないわよ」
だがアドリアンの瞳には、警戒の色がはっきりと浮かんでいる。
「……きっと、私が何を言っても無駄なのね」
どんなに大丈夫だと言っても、彼らにとって妖魔は危険以外の何者でもないのだ。
「それでも……、私がこうして生きているのは、妖魔のお陰なのよ」
リュシアンに拾われ、手当てを受けて、面倒を看てもらっていたのは事実だ。
部屋に入ると、ティティーヌはベッド脇に木箱を置いた。
「ここで、ゆっくり休んでね……」
声をかけ、静かに布をかぶせる。
振り返ると、アドリアンが切実な表情を向けていた。
ティティーヌは彼の頬にそっと手を添える。
「てっきり……、死んでしまったんだと思ってたわ」
「姉さんこそ……、妖魔に連れ去られて、もう死んでるかもって思ってたよ。でもこの前、ヴァンパイアと一緒にいる姉さんを見たって言う仲間がいて、それからずっと探してた」
「……どういうこと?」
いまいち話が読めず、尋ねるとアドリアンは一度うなずいてから話してくれた。
「教会で襲われた時、俺は意識がなくなる寸前に姉さんが妖魔に連れ去られるのを見たんだ。化け物に引きずられていく姉さんを見ながら、動けなかった……。首を切られたせいでかなり出血していて、体が動かなかったんだ。でもその後、運良く心ある人に助けられて、なんとか生き延びることができた。傷が治ってからは、妖魔を駆除するために体を鍛えた。今は正式なハンターとして活動してるんだよ」
そもそも、自分達が教会で襲われたのは妖魔のせいだ。奴らが条約を無視して人間の領域に踏み入るから、手に負えなくなった教会が責められるという事態にまで発展したのだ。全ての元凶は妖魔にある。
「もともと、妖魔と話し合いなんて無理だったんだ。奴らに理性なんて存在しない。連中の立場を尊重して、対等に手を結ぼうとした人間が甘かったんだよ。弱みを見せれば付け込まれるだけだ。最初からさっさと駆除してしまえば、俺たちのような被害者も出ずに済んでいたんだ」
当然のように彼は言う。その瞳に、迷いはなかった。
ティティーヌは力なく肩を落とし、眉尻を下げた。
「私たち人間は妖魔を知らない……。本当は彼らも、私たちと同じなのよ……」
傷つくことも、傷つけることも望んではいない。
そもそも、ミックスの暴走は妖魔を乱獲した人間の責任でもあるのに。
「姉さん……。姉さんはきっとヴァンパイアに洗脳されたんだよ。しばらくはここで休んだ方がいいな。外には出ちゃいけないよ。姉さんを洗脳したヴァンパイアは、簡単に姉さんを見つけられてしまうからね」
「アドリアン……。そうじゃないのよ」
「大丈夫。妖魔から離れてゆっくり体を休めれば、きっと元に戻れるさ」
ティティーヌがどんなに訴えても、アドリアンの心には届かない。自分の道を信じて突き進む彼は、どことなく底知れない恐ろしさを感じた。
部屋に一人残されたティティーヌは、床に膝をついてうなだれる。布をかぶせた木箱をそっと撫で、顔を歪めた。
「ごめんね、ミシェル……」
繰り返し小声でつぶやく。なんとか助かって欲しい。持ちこたえて欲しいと願いながら、かぶせた布に涙を落とした。
なぜ、今になって。
弟が無事だったことは嬉しい。でもまさか、彼がハンターになっていたなんて。今まで何度も求めた故郷が、これではちっとも喜べない。当然だ。帰りたいと願ったのは過去のことで、今のティティーヌは妖魔界の住人なのだから。
もう少しで、ヴィドックに会えるところだったのだから。
リュシアンがティティーヌを手放すことにどれほど苦悩したか。ヴァンパイアとしての性に苦しみ、愛に苦しみ、それでも最終的に決意したのは、友であるヴィドックのためだった。
――どうかあいつを……、ヴィドックを救ってやってくれ。
彼から託された思いを、裏切りたくない。何よりティティーヌ自身が、ヴィドックのそばにいたいと願っていた。それは決して洗脳なんかじゃない。いつだって彼らはティティーヌの言葉に耳を傾け、尊重してくれた。命をかけて守ってくれた。しかしどんなにティティーヌがそのことを説明しても、弟には伝わらない。人間にとって妖魔は悪であり、敵なのだ。
「早く元気になってね……」
物音ひとつ立てない木箱に、そっとささやく。
「フィーナもきっと心配してるわ。怪我が治ったら、一緒に帰ろう」
なんとかして、帰る方法を見つけなければいけない。このままここにいたら、ミシェルは危険だ。脳裏をよぎった悪い予感に、ティティーヌは涙を拭って顔を上げた。




