崩 壊8
「でね、バーンズは泡だらけになって浴場の端まで滑っていっちゃったんだ」
地べたに座り、ガラス越しにアンリの話を聞いてティティーヌは笑う。
あれ以来、アンリは勉強の合間を縫って、よく温室を訪れていた。そんな彼に、ティティーヌも快く付き合った。ひとりでいると、どうしても『彼』のことを考えてしまうから。アンリのお陰で沈みかけた気持ちが和らぎ、ティティーヌ自身も救われていた。しかし、そこにやってきたリュシアンがアンリを見て顔をしかめる。
「なぜここにいる」
ティティーヌに会うのを許可した覚えはないと、叱られたアンリは寂しそうにうなだれた。
「部屋に戻れ。ほかにやるべきことがあるだろう」
「リュシアン」
問答無用で追い払おうとする彼に、ティティーヌが口をはさむ。
「私がいいって言ったのよ。ガラス越しでしか会ってないから、問題はないわ」
真っ直ぐ見上げてくる彼女の目に、リュシアンは押し黙る。気まずい空気を感じたアンリは、立ち上がって言った。
「僕は戻るよ。二人の邪魔をしちゃ悪いから」
取ってつけたような笑顔を浮かべ、彼はそそくさと戻っていく。その後ろ姿を切なく見つめ、ティティーヌは再度言った。
「リュシアン……」
咎めるような口調に、今度はリュシアンがうなだれた。
「分かった。今のは俺が悪かったよ」
ティティーヌが立ち上がって近くのイスに座り直すと、リュシアンは淹れたての熱い紅茶を差し出した。素直に礼を告げると、リュシアンも微笑んで向かいのイスに腰を下ろす。
「体の具合は大丈夫?」
「ああ。傷は順調に治ってきてるよ」
えぐられた肩も、すでに包帯がとれて傷痕が残るだけになったらしい。ヴィドックと喧嘩をした日から、まだ五日しか経っていないのに。人間のティティーヌには考えられない回復の早さだった。現に、コレットは昏睡状態のままちっとも目覚める兆しがない。これがヴァンパイアや人狼なら、今頃とっくに起きているだろうに。
「本を読んでいたのかい?」
聞かれ、ティティーヌはぎこちなくうなずいた。テーブルに置かれた本は、開かれていない。それはリュシアンも分かっているはずだ。だが本を読んでいたことにしないと、都合が悪かった。アンリの休憩時間は三十分足らずだし、ほかの時間に何もしていなかったとなると、本当は考え事をしていたことが露になる。今の状況でティティーヌが考えることと言えば、ヴィドックのことしかなかった。しかし、それを躊躇いなく言えるような雰囲気ではない。今のウィケット邸では、ヴィドックの名は禁句になっていた。リュシアン自身がそう言ったわけではないが、なんとなく彼の名を口に出せない空気が漂っていた。それは、紛れもなくリュシアンがティティーヌを繋ぎとめるためのものだ。ティティーヌの気持ちを知りながらも、あきらめきれないリュシアンが自らそんな空気を放っている。ヴィドックの話題を口にしないことで、ティティーヌの本心から目を逸らし、気づかないふりをする。いつまでもそばに置いておきたいという願望のために、先日の出来事などなかったように振る舞い、不自然な演技を続けていた。
そしてティティーヌも、悪夢を繰り返さないために覚悟して戻ってきた以上、このやり取りに付き合っている。明らかにぎこちない空気が流れても、誰も指摘する者はいなかった。当たり障りのない上辺だけの会話が交わされ、核心に触れようとはしない。
「ずっと読みかけだったの。なかなか進まなくて」
「もしかして俺はお邪魔かな?」
「いいのよ。本はいつでも読めるんだから」
そうやって芝居じみたやり取りを続け、ティティーヌは詰まった息をアンリに会うことで抜く。こんな日々が、しばらく続いた。
途中、十日ほどして目覚めたコレットに、リュシアンは優しく接した。心から謝り、今まで以上に顔を見せて声をかけた。彼女を大切に扱うことは、ティティーヌの機嫌取りになったから。一見、普通に振舞っているようでも、リュシアンはささいなことに怯え、ティティーヌの反応に過敏だった。ティティーヌの顔色を窺い、望みを叶えることに神経を削った。ティティーヌが全ての軸になっていた。ヴィドックのこと以外は。
誰もが息苦しさを感じたが、現実から目を逸らし続けた。コレットは追い出されるのを恐れて口を閉ざし、リュシアンはティティーヌを失いたくなくて気を遣い続ける。そして、ティティーヌもまたリュシアンの暴走に怯え、黙って現状を受け入れた。次第にぎこちない日々が日常となり、それが普通になっていく。ヴィドックそのものの存在が消し去られ、気づけばティティーヌの中だけに生きる幻となっていた。
冬は峠を越え、寒さも少しずつ和らいでいく。温室内でも、ちらほらと虫の姿を見るようになった。春の訪れが近い証拠だ。
サーガとフィーナがやってきたのは、その頃だった。
「元気そうで何よりだわ」
にっこりと艶のある笑みを浮かべるフィーナに、リュシアンは控えめに微笑んだ。
「君も、相変わらず美しいね」
自室で挨拶を交わしながら、リュシアンはメデューサ兄妹がなぜ来たのか考えていた。今までのように、彼らはただ遊びに来たわけじゃない。目的はきっとひとつだ。
気づきながらも、あえて自分からは言わなかった。
「飲み物は温室に運ばせよう。せっかくだからティティーヌと一緒に話そうじゃないか。君達の顔を見たら、彼女も喜ぶだろうからね」
そう言って温室に移動しようとしたが、フィーナが早速切り出した。
「手紙。届いてるんでしょう?」
リュシアンの足が止まる。
「もちろんあなたも出席するわよね?」
向き直ると、首に巻きついた蛇を撫でながら、流し目で彼女がこちらを見ていた。
「おめでとうと、言うべきかしら」
リュシアンは、ちらりと机に目をやった。引き出しの中には、先日届いたヴィドックからの手紙が入っていた。内容は、継承式と懇談会の知らせだ。いよいよヴィドックが正式な頭首になるのだ。継承式は人狼族のみで行われるが、その後の懇談会はほかの種族も招待される。ここで新しい頭首の顔を覚えてもらうためだ。だが今回に限っては、それだけではなかった。
「これでティティーヌはあなたのものね」
フィーナは、見下すような目をして言った。
届いた手紙には、ヴィドックが再婚することも書き添えられていた。人狼は男女それぞれに縦社会がある種族だ。一族をまとめるためには、やはり頭首の妻として女社会のトップに立つ存在が必要だと判断され、新しい伴侶が宛がわれたらしい。
「腹の内では、さぞかし喜んでることでしょうねぇ」
結果的に、リュシアンはコレットとティティーヌの両方を手に入れたのだから。
「あなたも結婚のご予定はあるのかしら。もし二人とも妻にするつもりなら、式は一度にして欲しいわ。面倒だもの」
悪びれもなく言い捨てられたが、リュシアンは微笑んだ。
「覚えておくよ」
そして温室に移ろうと言って歩き出す。
様子を見守っていたサーガが、見かねて口を開いた。
「本当にこれでいいのか?」
リュシアンの足が、また止まる。
「……何のことだ?」
「とぼけんじゃねえよ。いくらティティーヌちゃんが好きでも、こんなの間違ってるだろ」
「……何を言ってるのか」
「ヴィドックだって大事な友達だろ? 奴が今までどんなに苦労してきたか、お前だって分かってるはずだろ?」
生まれながらに頭首の運命を背負い、常に強く、孤独であり続けてきた彼の苦労を。
もちろん知っている。元々領地が近いことから、幼いうちに知り合い、親しくなり、彼の苦労もずっと見てきた。多分、友人の中ではリュシアンが一番ヴィドックを理解していると思う。証拠に、ヴィドックも何かにつけてリュシアンと会っていた。彼が息抜きの場に選んだのもリュシアンの邸宅だ。一見馴れ合いはなかったが、互いに気が合い、よく酒も交わした。
「これ以上二人を苦しめるなよ」
苦しめていると分かっても、やめられない。
「温室に行こう」
「リュシアン!」
聞き流して歩き出したリュシアンの肩を、サーガが掴んだ。
「何剥きになってんだよ! もうちっと冷静に考えろよ。こんな方法でティティーヌちゃんを手に入れたって本当に手に入れたことにはなんねえんだぞ? それくらい、お前だって分かるだろ?」
「彼女は……俺を受け入れてくれてる」
「そんなの上辺だけだろうが。なあ、今ならまだ間に合う。彼女をヴィドックに返してやれよ」
「……返す?」
サーガのその言葉に、リュシアンが反応した。
「何か誤解しているようだな、サーガ。返してもらったのはこの俺だ。彼女はここに帰ってきたんだ。この屋敷こそが彼女の家なんだよ」
元々、ティティーヌはリュシアンのものだ。大怪我を負い、拾って手当てをしたのはリュシアンだ。リュシアンの下で、彼女を大事に守ってきた。ヴィドックはただ協力したにすぎない。最初から、ティティーヌの居場所はこのウィケット邸だった。
「でも――」
「用件はそれだけか? なら俺からはもう言うことはない。帰ってくれ」
「リュシアン!」
これ以上話しても何も変わらない。
「フランク。二人はお帰りだ。丁重にお見送りしろ」
「……御意」
話すだけ無駄に思えて、フランクに指示を出したリュシアンはひとりで歩き出した。温室に続く扉を開け、階段を下りていく。
「本当にいいのかよ⁉」
サーガの声が小さくなっていく。
「ヴィドックに二度も愛のない結婚をさせる気か? 第二のマークを作らせてもいいのか? 後になって後悔したって……っ!」
温室に入ると、彼の声は聞こえなくなった。
いつものガーデンチェアに、ティティーヌの姿がある。ひとりで本を読んでいた彼女は、リュシアンに気づくと控えめに微笑んだ。
「どうしたの? そんなところでぼーっとして」
リュシアンは歩み寄り、座っているティティーヌの腿に跪いて顔を寄せた。腰に腕を回し、すがりつく。
「リュシアン?」
頭上から聞こえる彼女の声に、耳を澄ました。
「どうかしたの?」
優しく頭を撫でられ、感触に浸る。
この温もりを失いたくはなかった。
「何でもないよ」
◇◇◇
式は、六日後に迫っていた。
今回決まったヴィドックの再婚相手は、去年から候補として上がっていたひとりだ。基本的に、一族の行く末に関わる事柄は、大抵ヴィドックに決定権がある。が、結婚だけは別だ。彼にもっとも相応しい伴侶を宛てがうべく、候補は一族の重鎮たちによって客観的な意見の下に決められる。元々、人狼の頭首の結婚に気持ちは考慮されない。重要視されるのは、優れた子孫を残すための体と能力に加え、社会をまとめられる器かどうかだった。それによって、数人の候補が挙げられた。しかし、前回のことがあるだけに、重鎮たちはいつにも増して慎重になった。精神面も合わせて検討され、話し合いを重ねた結果、ひとりの女が選ばれた。が、本人の気持ちはやはり考慮されなかった。
ヴィドックは、バルコニーに出て酒を飲んでいた。今夜は星も月も見えない。風は無風に近く、重い雲が広がっていた。まるで今の自分の心を表しているようで、皮肉に思う。ぼんやりと夜空を眺めながら、一度目の結婚を思い出した。ヴィドックの妻となり、マークを産んだのは、ニナリアという名の女だった。ニーナという愛称で周囲から慕われ、美人だが容姿に驕らず、真面目な性格をしていた。恋愛はしても結婚はしない人狼が多い中、彼女は真剣に結婚を考えていたらしい。それほど相手の男に惚れていた。しかし、彼女はヴィドックの伴侶として選ばれた。何度となく辞退を申し出て、棄却された。結婚式の前日には駆け落ちをしようとして失敗し、当日は頑なに拒んだため眠らせて式を行った。正式な夫婦になると、その日から一ヶ月、二人は寝所に篭もって子作りに専念する。そこまで持ち込んでしまえば、彼女もあきらめて受け入れるだろう。一族のためを思えば、与えられた使命を全うしてくれるだろうと、考えた重鎮たちが甘かった。夫婦になった後も彼女は変わらず、前向きになるどころか犯される毎日に精神を病んでしまった。
あの悲劇を、また繰り返すのだろうか。考えただけで気が重い。すでに跡継ぎはいるのだから、子作りの必要はないと思ったが、どうやら今回も避けられそうにない。頭首の妻という地位を確実なものにするため、やはり子作りは必要だと判断された。このことを知って、マークは更にひねくれている。日頃から気に入った人だけを相手にし、ほかの人は無視するという排他的なところがあったが、最近益々その傾向に走っている。目の前でティティーヌに去られたことがよほどショックだったんだろう。先日会った時は、なんで助けに行かないんだと責められた。マークがヴィドックを非難するなんて、初めてだった。
重いため息がこぼれる。結婚はあくまでも義務であり、仕事のひとつだと割り切っている。妻ができたところで、愛のない形だけの関係だ。ティティーヌをあきらめる気など更々ないが、ティティーヌ自身の気持ちを考えるとやり切れなかった。このことを知ったら、彼女はきっとショックを受けるだろう。泣いてしまうかもしれない。何があっても信じろとは伝えていたが、もう二度と戻らない覚悟でリュシアンを選んだ彼女を思うと、これがヴィドックを切り捨てる決定打となってしまう予感がした。
考えながら飲んでいると、ひとつの足音が自分の部屋に近づいていることに気づく。漂う無数の匂いから、それが誰なのか嗅ぎ分けた。間もなくして、ノックの音が響く。
「入れ」
遠く離れたバルコニーから答えると、ひとりの男が入ってきた。適度に引き締まり、均整のとれた美しい体。姿勢が良く、きびきびと歩く姿は凛々しく見える。肩につくかつかないかの銀髪は、ひとつに束ねて後ろで無造作にしばっていた。直線の眉は意志の強さを感じさせ、揺るがない瞳は宝石のようだった。口は引き結び、硬い表情からは男らしさがにじみ出ている。
「……ザックか」
ヴィドックの従兄弟、アイザックだった。
「当日の予定表です。目を通しておいて下さい」
感情の削げ落ちた表情で淡々と言い、持ってきた書類を差し出す。受け取ったヴィドックは、興味がなさそうに傍らのテーブルに投げた。そしてアイザックを見上げる。
「お前は……、嬉しいか?」
ヴィドックの問いかけに、彼は無表情だった。
「一族の長が決まることは、我々にとって喜ばしいことです」
心の伴わない返事だった。誰がどう見ても、それが上辺だけの言葉だと分かる。
「まだ俺が憎いか?」
「憎むべきは人狼の悪しきしきたりです」
「正直に言え」
「憎いです」
アイザックは、ニナリアの恋人だった。結婚前日に駆け落ちをしようとして失敗し、結婚後も彼女がひたすらに求めた相手だ。恋人を奪われたアイザックは、ヴィドックに深い恨みを持っている。精神の病にかかった彼女に会わせてもらうこともできず、復讐に燃えていた。何度か決闘も申し込まれたが、結果は全てヴィドックが勝っている。一族の運命を背負っている以上、ヴィドックも簡単に負けるわけにはいかなかった。
「でも今は、あなたに同情してもいます」
所詮ヴィドックも、一族のために使われる駒にすぎない。自分の意思とは関係なく、勝手に決められた相手と結婚し、愛のない情交を行う。どんなにその気がなくても、相手に拒まれたとしても、長の義務としてやらなければいけない。
「……ニーナと俺はもう夫婦じゃない。今なら会えるだろう」
「俺もそう思って面会を頼みましたが無理でした。大御所たちは頭が固いですね」
「……そうか」
おそらく、ここで許可してしまうと、自分たちの面子が潰れることになるからだろう。重鎮たちは長を支えると同時に導く重要な役を担っている。その地位を汚してはいけないという凝り固まったプライドのせいで、過去の過ちを認められないのだ。
「……年明けに、人間の女を連れて来たことがありましたね」
「ああ」
「恋人ですか?」
「……まあな」
「これで少しは、あなたにもニーナの気持ちが分かるでしょう」
愛し合う相手がいるのに、別の相手と婚姻を結ばなければならない辛さ。当時ニーナが味わった苦しみを、今度はヴィドックが味わおうとしている。
「相手はきっと泣いてるでしょうね」
「……かもな」
「これが分かれば、少しはニーナも救われます」
ヴィドックは、決してティティーヌを妻にはできない。愛していない女とばかり結婚をさせられ、本当に求める女とはうまくいかない。そう思うとアイザックの気も晴れ、ヴィドックを哀れにさえ思った。
「結局、あなたも俺もニーナも、一族の礎にされたということですね。まあでも、幸いあなたの後妻はこの運命を受け入れているようですし、第二の俺たちが生まれることはないでしょう。せいぜい恋人を苦しめて、あなたも苦しんで下さい」
同情はしても、許すことはできない。彼がそう伝えているのが分かり、ヴィドックは黙って酒を飲んだ。話の終わりを悟ったアイザックは、軽く一礼して部屋から出て行く。遠ざかる足音を聞きながら、静かに長いため息をついた。空を見上げると、相変わらずどんよりとした重い雲が広がっている。この空を、ティティ-ヌも見ているだろうか。今頃彼女はどうしているんだろうか。考えれば考えるほど自分が情けなく、もどかしくなるだけだった。
◇◇◇
数日後、ヴィドックの結婚はティティーヌの耳にも入った。
正確には、フィーナがこっそりミシェルに届けさせた手紙で。
リュシアンもキティもいないタイミングで、手紙を受け取ったティティーヌはすぐに開封し、中身を読んだ。もしかしたら、ヴィドックの近況が書かれているんじゃないかと思って。確かに、彼の近況は書かれていた。怪我が完治し、元気でいることも。しかし継承式や懇談会に加え結婚の事実も知ると、安堵を衝撃が呑み込んだ。
一気にいろんな感情がこみ上げて、言葉が出なかった。跡継ぎのマークがいるのに、まさか彼が再婚するなんて。考えもしなかった。勝手にあきらめて別れを告げたくせに、ショックを隠せない自分がいる。
「これじゃあ……、リュシアンにも失礼ね」
自ら彼を選んだのに、心はヴィドックに向けたままだなんて。もう戻らないと決めて来た以上、いい加減気持ちの整理をしなくては。脳裏に、血にまみれたリュシアンとヴィドックがよぎる。
あんなことを、繰り返してはいけない。
今更、心の迷いを見せてはいけない。中途半端な行動をとれば、また誰かを傷つける。覚悟を決めて、ヴィドックの再婚も受け止めなければ。彼だって、ティティーヌの選択を受け入れたからこそ今回の結婚に踏み切ったのかもしれない。もうティティーヌのことは忘れて、新しい幸せを掴もうとしているのかもしれないじゃないか。
「これで、いいのよね……」
自分はリュシアンと、ヴィドックは新しい女性と。それならリュシアンとヴィドックの関係もいつか修復できるだろう。これで全ては丸く収まる。あとはティティーヌが気持ちを捨てればいいだけだ。
これでいい。
何度も、心の中でつぶやいた。これが最良の判断だと。
なのにそう思えば思うほど、ヴィドックに言われた言葉が頭に響いた。
――俺を信じろ……
信じたところで、どうにもならないのに。こうするしかなかった。これが最良だった。だからもうこれでいいのだ。
(ヴィドック……)
彼には幸せになって欲しい。相手はどんな人なんだろうか。彼の妻に選ばれるくらいだから、きっと素敵な女性だと思う。その人なら、頭首の重圧を抱える彼を支えてあげることもできるだろう。同じ人狼なら、種族間の問題もない。マークだって、あの子はとても優しい子だ。きっと打ち解けてうまく――――。
「ヴィドック……」
つぶやいた小声は、震えていた。
「ヴィドック……」
こみ上げる涙を堰き止めようとして、きつく目を閉じる。今まで隠してきた気持ちが、一気に溢れ出ていた。考えないようにしていた分、反動が大きくて。
気持ちの整理なんて、できるわけがない。
彼の結婚なんて、祝えるはずがない。
あの優しい眼差しで、ほかの誰かを見つめるなんて。
あの逞しい腕に、ほかの誰かが抱かれるなんて。
考えただけで息が詰まってしまうのに。
「ヴィドック……」
彼に会いたい。
夢や想像の中じゃなく、本物の彼に会いたかった。




