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ROSA  作者: 藤 子
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崩 壊7

 気がつくと、見覚えのある光景が目に入った。

 ぼんやりと天蓋を見つめた後、ゆっくり辺りを見渡す。ティティーヌの部屋だった。


(俺は……)


 リュシアンは目覚めるまでの記憶を辿った。ヴィドックから手紙が届き、かっとなってコレットの血を飲んだところまでは覚えている。だが、それ以降の記憶は一切なかった。起き上がろうとすると、体に激痛が走って倒れ込む。その時、部屋の扉が開き、ある人物の声がした。


「目が覚めたのね」


 入ってきたのは、ティティーヌだった。お湯を張った洗面器を抱え、キティと一緒に入ってくる。リュシアンは信じがたい思いで見つめた。


「……ティティーヌ?」


 夢でも見ているのかと思った。彼女はヴィドックの元にいるはずだったのに。

 一体何がどうなっているのか、状況が掴めず動揺した。

 ティティーヌは洗面器を机に置くと、傍らのスツールに腰かける。


「気分はどう?」

「ああ……。悪くない……」

「良かった」


 微笑む彼女を呆然と見つめる。

 手を伸ばすと、彼女も手を差し出した。触れた感触は、確かに生身の人間だった。

 なかなか混乱を解けないでいるリュシアンに、ティティーヌは静かに話を切り出す。


「コレットは無事よ。まだ意識が戻らないけど、一命は取り留めたわ。今も隣で眠ってる。ヴィドックも命に別状はないそうよ。フィーナの代筆で手紙が届いたわ」


 彼女の話を聞いて、なんとなく状況が見えてきた。


「俺は……、暴走したのか」


 ティティーヌは小さく頷いた。


「記憶はないのね」

「……すまない」


 彼女の言葉から察するに、コレットの血を飲んで暴走した自分は、ヴィドックに襲い掛かったんだろう。そして狂った自分を止めたのは―――


「君が……、俺を止めたのか?」


 現状から考えると、そんな気がした。

 ティティーヌは弱々しく微笑んで頭を振る。


「あなたを止めたのはフランクさんたちよ」


 そう言って、彼女はキティを振り返った。つられてリュシアンも視線を移すと、キティは恭しく頭を下げる。


「出すぎた真似をしました。申し訳ございません」


 いまいち全容を把握できず、困惑した。すると、察したティティーヌがその後の経緯を説明してくれた。


「あなたの暴走を止めようとして、彼らが避難していた私のところに来たのよ」


 過去に暴走した時は、(しもべ)であるコウモリ人間にも多くの犠牲が出た。このままでは、また同じことを繰り返しかねない。暴走したリュシアンは、ヴィドックだけでなく多くの妖魔を傷つけるだろう。そして正気に戻った時、リュシアン自身も深く傷つくことになる。自分たちのためにも、主のためにも、この暴走を止めなければならない。そう判断したフランクは、キティや他の部下を共だって、ティティーヌを探した。暴走の原因になったのはティティーヌだ。彼女なら、リュシアンを止められるかもしれない。確信はないが、賭けに出た。そして事情を聞いたティティーヌも決心した。


 キティたちを守るために。

 ヴィドックを守るために。


 コウモリ人間の手を借りて森に移動すると、危険を覚悟でリュシアンに飛び込んだ。その後は彼を落ち着かせることに成功し、一緒にウィケット邸へ戻ってきたのだ。


「ここに着くなり、あなたはすぐに意識を失って、丸三日眠っていたわ」


 話しながら、ティティーヌは落ちていたタオルを拾い、新しいタオルをリュシアンの額に乗せる。


「正気に戻ったようで、良かったわ」


 そう言った彼女の手を再び掴み、リュシアンは顔を伏せた。


「……すまない」


 会わせる顔がなかった。


「俺は……」


 きつく目を閉じて、言葉を絞り出す。


「そばにいてくれ……」


 ティティーヌじゃなきゃ駄目だ。彼女を失いたくない。


「君の気持ちがヴィドックにあったとしても……、それでも俺は――」


 この手を放したくない。彼女の温もりを感じていたい。

 もう、一人には戻れない。

 ティティーヌは微笑んで頷いた。


「そばにいるわ」


 乱れていた布団をかけ直し、リュシアンの手を握り直してたたみかける。


「これからはずっとそばにいるから」


 脳裏には、森で見た光景が焼きついていた。

 血にまみれ、瀕死になっていたヴィドックとリュシアンの二人。

 もう二度と、あんな光景は見たくなかった。

 苦しそうに顔を歪め、すがりついてくる彼の髪を撫でる。


「もう少し休んだ方がいいわ。私はどこにもいかないから、安心して」


 言い聞かせて優しく撫でると、リュシアンは目を閉じる。まだ体の疲れが溜まっているらしく、彼はすぐに寝息を立てた。その寝顔をしばらく見つめた後、ティティーヌはそっと立ち上がる。彼を起こさないよう、静かにリビングに移ると、ソファーに座ってため息をこぼした。


「申し訳ありません……」


 キティが頭を下げる。

 ティティーヌは弱々しく微笑み、頭を振った。


「あなたたちは悪くないわ。これは私が決めたんだから」


 キティたちのせいじゃない。

 そこに、食事を持ったフランクが現れた。


「ご主人様は……」


 キティから知らせを受けて、食事の用意をしたらしいが。


「また寝ちゃったわ」


 肩をすくめて答えると、彼は頷いてトレイをテーブルに置いた。


「では、お嬢様だけでも召し上がって下さい」


 ティティーヌは苦笑した。


「私の好物ね」


 ビーフシチューのパイ包み。故郷で暮らしていた時は、こんな凝った料理は食べたことがなかった。この屋敷に来て初めて食べて以来、好物になったのだ。生地を崩していくのが、まるでプレゼントの箱を開ける時のようにわくわくして、食べるのが楽しかった。中のシチューもおいしくて、とても幸せな気分になれるメニューだった。


「申し訳ございません……」


 改めてフランクからも謝られ、眉尻が下がる。


「頭を上げて下さい」


 ここまでされては、責める気持ちも湧いてこない。


「一応、ヴィドックに連絡を入れてくれますか。リュシアンの意識が戻って、状態も落ち着いたということを。それから……、ヴィドックには当分こっちに来ないようにと」

「……承知しました」


 下がっていくフランクを見届け、ティティーヌはスプーンを手に取った。パイを崩し、中のシチューをすくって食べる。


「やっぱりおいしいわね」


 微笑んだが、キティは応えてくれなかった。もどかしそうに見つめられ、また苦笑した。




 ◇◇◇




「どけ」

「……駄目だ」


 睨みを利かせるヴィドックに、サーガがたじたじになって行く手をふさぐ。


「そんな体で行かせられるわけねえだろ」


 やっと起き上がれるようになったばかりなのに。


「あんまり我が侭言ってると石にしちゃうわよ」


 口をはさんだフィーナは、言いながら一通の手紙をひらひらと振って見せる。


「ティティーヌも来るなって言ってるわ」


 軽い口調で言った彼女から、ヴィドックは乱暴に手紙を奪い取る。内容を読むなり、すぐに破り捨てた。そして再びサーガを睨む。


「どけ」


 彼の気迫に押され、サーガは後ずさりしつつ必死に対抗した。


「駄目なもんは駄目って言ってるだろ! 本当に石化しちまうぞ! いいのか!? そしたら治りも遅くなるんだぞ!? なあ、ポール!? ほら見ろ! ポールだって肯いてるぞ!」


 激しく火花を散らし合う二人に、フィーナは大袈裟にため息をついてイスに座る。


「ヴィドック。少し落ち着きなさいよ。あなたの気持ちは分かるけど、今は大人しくしてるべきよ。ほとぼりが冷めるまでね」

「それまで何もするなと?」


 そんな悠長なことを言っていたら、ティティーヌは今度こそリュシアンのものになってしまう。

 ヴィドックは拳を握った。


 まだ、彼女に触れた感触を覚えている。

 ひとつに溶け合い、熱情の海に深く沈んだあの時間。

 彼女は心から幸せそうに気持ちを打ち明けてくれた。

 なのに。

 別れを告げたティティーヌを思い出す。微笑んでいるのに、泣きそうだった。

 彼女はもう、二度と戻らないつもりなのだ。


 俺を守るために。


 それが分かっていて、黙って見過ごせと?


「俺に腑抜けになれと言うのか」


 互いの想いを確かめ合ったあの時間を、一夜の夢になんてする気はなかった。


「あなたでも剥きになることがあるのね。少しだけ見直したわ」


 いつもは、何があっても冷静で落ち着いているのに。


「ふざけるな」

「ふざけてなんかないわよ。よく考えてみなさい。今はあなたもリュシアンも熱くなってる。こんな時にまた顔を合わせれば、どうなるかなんて目に見えてるじゃない。せっかくティティーヌが決死の覚悟でリュシアンを止めたっていうのに、あの子の苦労を台無しにする気?」


 ティティーヌは今リュシアンのところにいるのだ。もし彼がヴィドックに対抗意識を燃やし、再びかっとなったら、今度こそコレットは死ぬだろう。それどころか、ティティーヌの身も危ない。


「ヴァンパイアの人間に対する執着が異常なのはあなたもよく知ってるでしょう。おまけに今のリュシアンは奪われるかもしれない危機感を抱いて、ティティーヌ個人への執着がより強くなってる」


 同じ人間であるコレットを利用するほどに。


「彼は周りが見えなくなってるのよ。こんな時は何を言っても無駄だわ。相手があなたなら尚更。彼の独占欲を煽るだけよ。違う?」


 問いかけられ、ヴィドックは答えられなかった。全てフィーナの言う通りだった。

 彼女は息をつき、仕方なさそうに言葉を続ける。


「リュシアンの暴走は想定外だったわね」


 過去の事件があるだけに、血を飲むことに関しては慎重だと思ったのに。


「とにかく、こうなってしまった以上、辛抱するしかないわ。あなたの代わりに私が様子を見に行ってあげるから、ここで大人しくしてるのね」


 ぴしゃりと言い伏せられ、ヴィドックは踵を返した。


「一人にしてくれ」


 戸棚から酒を取り出し、絨毯に腰を下ろす。

 どうしたものかと顔色を窺ってきたサーガに、フィーナは言った。


「行きましょ。彼はここまで言って分からないほど馬鹿じゃないわ」


 扉の閉まる音が重々しく響き、部屋に静けさが広がる。


 この部屋に、ティティーヌは来たのに。


 ヴィドックが作った酒に舌鼓を打ち、ヴィドックの酒を飲んでむせていた。

 柔らかい唇だった。滑らかで、しっとりした白肌だった。苦しそうに喘ぎ、息を切らして甘い声を上げていた。


――ヴィドック……


 自分を呼ぶティティーヌの声が、耳から離れない。

 やっと手に入れたと思ったのに。


――ヴィドック……


 彼女の声が、ヴィドックの心を追い詰める。

 酒瓶を持つ手に力がこもった。守るどころか、守られた自分がひどく情けない。腹立たしささえ感じ、一気に酒を煽った。空になった瓶を手放すと、立てた片膝に顔を伏せた。




 ◇◇◇




 天窓から、そよそよと冷たい風が流れてくる。温かい大判のストールを体に巻きつけ、ティティーヌは温室のガーデンチェアに座ってぼんやりとしていた。テーブルに置いた本は、一度もページをめくっていない。そういえば、ヴィドックの部屋にも大量の本があったと、思い出して一人でゆるく頭を振って自嘲した。ふとした時に、気づけば彼のことを考えている。想いを打ち明け、結ばれた今となっては、考えるなという方が無理なのだ。覚悟を決めて戻ってはきたものの、心は彼のところに置き去りだった。


(ヴィドック……)


 体は大丈夫だろうか。あんなにも血だらけになって倒れていたのだ。姿を見た瞬間、血の気が引いてこっちまで倒れそうになった。いくら回復力が優れているとは言え、そう簡単に完治するとは思えなかった。人狼の治癒能力というのは、どれほどのものなんだろうか。ヴァンパイアと同じだとするなら、今頃ヴィドックも普通に歩けるくらいに回復しているかもしれない。


 ティティーヌは温室のガラスを見つめた。この分厚い壁を叩き割って、外に出たかった。また自然の空気に触れたい。以前見た滝の、力強い轟音を響かせて飛沫を上げる躍動を感じたい。見えない鎖を引きちぎって、“彼”のところに走って行きたい。それができたら、どんなに幸せか。


 考えていた時、ふとガラスの向こうの中庭で何かが動いた。それが何なのか、分かったとたんティティーヌは身を強張らせる。息が止まった。

 大きな薔薇の木の向こうから、見知った顔がこちらを窺っている。漆黒の髪に青白い肌をした、目の大きな美少年。アンリだった。目が合うと、彼も一瞬驚いた様子を見せたが、次にはごくりと唾を呑んで近寄ってきた。

 ティティーヌは危機感を感じて立ち上がったが、


「待って!」


 彼が叫んだ。


「ごめんなさい!」


 突然の謝罪に、思わず逃げようとしていた足が止まる。


「ずっと……、謝りたかったんだ。ティティーヌには怖い思いをさせちゃったから……」


 辛そうに顔を歪め、一生懸命彼は言った。


「あの時は……、迷惑をかけてごめんなさい。無事に戻ってこれて、本当に良かった……」


 そこまで言うと、彼は返事も聞かずに走り去ろうとした。それをティティーヌが慌てて止めた。


「アンリ!」


 立ち止まり、恐る恐る振り返った彼に、ティティーヌも恐る恐る近づいた。今はガラスの壁という分厚い盾がある。それがティティーヌの心に勇気をくれた。


「こっちへ来て……」


 手招きすると、アンリは少し躊躇ってから戻ってくる。ガラス越しに、手が触れ合える距離までやってきた。目を逸らし、怯えた様子を見せる彼に、そっと声をかける。


「今まで……、ずっと気にしてくれてたの?」


 ティティーヌを襲ったあの事件から、もう随分経つのに。


「…………うん」


 返されたか細い声に、胸を打たれる。


「もしかして……、この前ここで会った時も、本当は謝ろうとしてくれてた?」

「……うん」


(なのに私は)

 ティティーヌはきつく目を閉じた。先入観だけでこの少年を避け、傷つけてしまったことに今気づいた。


「でも、ティティーヌは悪くないんだ。怖がらせるようなことをした僕が悪いんだし。これは自業自得なんだ」


 声を張って、そう言ってくれる必死な姿に、頭が上がらなくなる。


「私も悪かったわ。ちゃんと話を聞いてやれなくて、ごめんね、アンリ」


 今すぐここで、抱き締めてあげたかった。


「外はまだ寒いでしょう。温室においで。あったかい紅茶でも一緒に飲もう?」


 そして今まで聞けなかった分、いっぱい話を聞いてやりたい。そう思ったが。

 彼は頭を振った。


「アンリ?」


 不思議がるティティーヌに、アンリは壊れた笑みを見せた。


「僕はまだ未熟だから……、そっちに行ったらまたティティーヌを食べたくなっちゃうかもしれない。欲に負けて、また怖い思いをさせちゃうかもしれない。だから……、今はまだ行けない」


 本当はそっちに行きたい。直に会って、温かい手で撫でてもらいたい。マークにしていたように、自分も優しく抱き締めてもらいたい。でもまた同じ失敗を繰り返したら、今度こそ完全に嫌われる。そう思ったら、たとえ彼女がいいと言ってくれても、中には入れなかった。


「いつかは直接会えるように、いっぱい勉強するよ。もっと強くなって、立派なヴァンパイアになるから。だからその時まで……、こうしてまた会ってくれる?」


 ガラス越しなら、普通に話せるから。

 アンリの顔に浮かぶ壊れた笑みは、自嘲だった。自分の弱さを皮肉に笑い、その裏でひどく苦しんでいる。笑いながらも、静かに流れる涙が、彼の苦悩を物語っていた。

 ティティーヌはできる限り優しく微笑み、深くしっかり肯いた。


「もちろんよ。これからは仲良くしてね」


 そう言うと、アンリも嬉しそうに頷いた。

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