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ROSA  作者: 藤 子
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崩 壊6

「お前とは戦いたくなかったが」

「仕向けたのはそっちだろう」


 こうなると分かっていて、手を出したのはヴィドックだ。

 たとえ前もって宣言していたとしても、戦いは避けられない。


「今更謝っても無駄だぞ。お前を殺したら、目障りなフィーナも消す。役立たずで頭の悪いサーガもな。俺の邪魔をする奴は全員殺す。俺にはティティーヌさえいればいいんだ。彼女以外は必要ない」


 ぶつぶつ言いながら、リュシアンが詰め寄ってくる。ヴィドックは人型から狼に姿を変えると、バルコニーから屋上に上がり、森へ向かって一気に外壁を飛び降りた。


「逃がすか」


 リュシアンもすぐに追ってくる。普通の人間なら死んでしまう高さでも、二人には障害にならなかった。難なく地面に降り立ち、ヴィドックは一度吼える。辺りに響き渡った遠吠えは、仲間に避難を促すものだった。昔の悲劇を繰り返してはいけない。巻き添えを作らないために、決着が着くまでは決して森に入らないよう警告した。そして、少しでも町から離れようと走り出す。銀の体が風を切った。赤い夕暮れの空は、東からじわじわと闇に呑まれようとしていた。まるでヴィドックを追い詰めるリュシアンのように。追い返すことはできない。


「これがお前の全力か?」


 町から大して離れないうちに、追いつかれて驚いた。前に立ちはだかったリュシアンは、涼しい顔でヴィドックを見つめている。


「少しは楽しませてくれよ? じゃなきゃ俺の気が済まないからな」


 そう言ってにやりと笑った直後、彼が消えた。そしてヴィドックの体が吹き飛ぶ。大きな狼の体が、小石のように軽々と蹴り飛ばされた。ヴィドックは空中で体をひねって回転し、体勢を整えて着地する。と同時に迫っていたリュシアンの拳を、紙一重でよけた。


「そうそう。そうこなくちゃ」


 リュシアンの顔に、壊れた笑みが浮かぶ。


「すぐには終わらせない。たっぷり痛めつけてやる。俺の大事なティティーヌを寝取ったんだからな」


 彼女が大事で、愛するあまり手を出せなかった。ティティーヌの気持ちを考えて、ゆっくり、少しずつ段階を踏んでいた。そうやって過程も楽しみながら、いずれは全て俺のものにする予定だった。そうなるはずだったのに。


「お前は、俺が築いたものをたった一夜で台無しにした」


 言いながら、ヴィドックに拳を振るう。


「やっと俺を受け入れてくれたのに。お前がいる限り彼女は俺のものにならない。俺だけのものにはならないんだ。この場でお前を殺して、死体を見せてやらなきゃならない。そうすれば彼女もきっと分かるだろう。運命の相手が誰なのか」


 リュシアンから淡々と繰り出される攻撃は、切れがあり鋭かった。ヴィドックはよけきれずに、頭を蹴られる。早いだけじゃなく、重みもあることを実感した。軽い脳震盪を起こし、ふらついたところに追い討ちがかけられる。硬い鹿革に覆われたリュシアンの足が容赦なく腹にめり込み、内臓を潰して背中の皮膚をも引き伸ばす。蹴り上げられた体は猫のように丸まり、ヴィドックは吐血した。


 このままではやられる。


 本能で悟ったヴィドックは、一度リュシアンと距離をとった。体勢を立て直し、今度は自ら攻撃を仕掛けた。正面からは向かわず、近くの木に飛び乗ると、リュシアンの視界から姿を消す。音も気配も断ち切って、彼の背後に回り込んだ。


「姑息なまねを」


 舌打ちするリュシアンの首元を目がけて、後ろから飛びかかる。急所の首を狙ったが、わずかにかわされた。代わりに、ヴィドックは彼の肩に深く牙を沈めて食らいつく。


「離れろ!」


 振り回されても、決して放さなかった。肉を食いちぎるつもりで顎に力を込めた。骨が軋む音がして、リュシアンの顔が歪んだ。


「……っく!」


 血が噴き出し、彼の白いシャツを赤く染める。しかし、リュシアンは低い声でささやいた。


「この程度で……、俺を仕留められると思うのか」


 彼の手が、ヴィドックの首に伸びる。親猫が子猫の首を甘噛みして運ぶように、ヴィドックの首を掴むと、持ち前の怪力で強引に引き剥がした。拍子に、リュシアンのシャツと肉まで一緒に剥がれる。着地したヴィドックは、口の中に入った布切れと肉片を傍らに吐き捨てた。リュシアンの肩から、音を立てるようにして大量の血が流れ出す。しかし彼は倒れない。痛みをこらえているのではなく、感じていないようだった。興奮が高まるにつれて、次第に呼吸が荒くなっていく。


「ティティーヌは俺のものだ……。お前には渡さない」


 血走った目は、充血しすぎて目そのものが赤く見えた。


「彼女は誰にも渡さない。俺だけのものなんだ。彼女には誰も必要ない。俺だけいればいい。俺と彼女以外、誰もいなくていいんだ。誰も。だから俺が消してやる。俺が食ってやる……!」


 いよいよ狂ったリュシアンが、思い余って奇声を上げる。人間の領地を徘徊するミックスのように、すっかり理性を失っていた。


 涎を垂らして興奮する彼を見つめ、ヴィドックは昔を思い出した。過去に狂った時は、止められなかった。自我を失い、異常なまでに身体能力を高めた彼は、誰にも止められなかった。人間が妖魔を悪魔と呼ぶ理由がよく分かった。暴走したリュシアンは、まさにこの世に現れた悪魔だった。


 そして今、その化け物が再び目の前にいる。果たして、ヴィドックに止められるだろうか。あれから成長し、昔よりも強くなったとは思うが、それはリュシアンも同じだ。互いの力の差は、大して変わっていないはず。確実に勝てる自信はなかった。だがそれでも勝たなければいけない。止めなければいけない。


 穏やかに微笑み、愛していると言ってくれたティティーヌを思い出す。やっと心の拠り所を手に入れたのだ。もう手放す気はなかった。




 ◇◇◇




 体の震えが止まらない。

 客室のリビングで、ソファーに座ったティティーヌは両手で顔を覆って黙り込む。室内に広がる静けさが、全身に重くのしかかっていた。見かねたフィーナが、気を紛らわそうと声をかける。


「ヴィドックなら大丈夫よ。彼は力だけじゃなく、精神も強いもの。頭の回転も速いし、きっとリュシアンを捕まえて戻ってくるわ」


 励ましてくれる彼女に、弱々しく笑って応える。が、浮かべた笑顔はすぐに消えた。不安で胸が押し潰されそうだった。それをなんとか支えていたのは、ヴィドックに言われたあの言葉。


――俺を信じろ。


 ティティーヌは両手を握り締め、祈る思いで目を閉じた。ヴィドックはきっと大丈夫。リュシアンも、本当はとても誠実な人だ。きっと分かってくれる。戻ってきたら、誠心誠意頭を下げて謝ろう。すぐには無理でも、分かってもらえるまで何度でも謝罪をしよう。


「まさかティティーヌちゃんとヴィドックがなぁ……」


 傍らでは、サーガがまだ驚きから抜け出せずにいる。そういえば、最初からヴィドックはティティーヌちゃんを気に入ってたっけ、と、今更ながら一人で思い出し、ぶつぶつと独り言を言っていた。そこに、荒々しく扉を開けてマークが入ってくる。


「ティティーヌ!」


 彼は数頭の大きな狼を後ろに従えていた。部屋に入るなり、脇目も触れずにティティーヌへと駆け寄る。


「良かった! 無事だったんだな?」


 ほっと安堵の息を漏らすと、マークはすぐに仲間に指示を出した。


「シンとダダはバルコニーへ行け。レイとオズロは入り口だ」


 いつになく凛々しいその表情は、ヴィドックの跡を継ぐに相応しい器量が窺えた。やはり彼の血を引くだけのことはあると、感心するのも束の間、


「……そういうこと」


 窓の外を見て、フィーナがうなずいた。バルコニーに出た二頭の狼に、大きな影がかかっている。ばさばさと、何かを仰ぐような音が聞こえた。


「お嬢様。お迎えに上がりました」


 フランクだった。背中には、黒い皮を張ったようなコウモリの翼が生えている。片翼だけで持ち主の身長と同じくらいの長さがある。巨大な翼だった。後ろには、部下のコウモリ人間が数人。その中に、キティもいた。

 バルコニーの手すりに降り立ったフランクに、狼が飛びかかる。彼はひらりとかわして、再び手すりに止まった。


「まずは私の話を聞いていただけませんか」


 真摯に頭を下げて頼み込む彼に、フィーナが鼻で笑う。


「聞かなくても分かるわよ。目的はティティーヌを連れ戻すことでしょう。説得は無駄よ。何を言われようとティティーヌは戻らない。話し合いは必要ないわ」


 ティティーヌに寄り添いながら、マークもうなずいて指示を出す。


「噛み殺せ!」


 銀色の狼は、宙に浮いているフランクに向かって唸りを上げて飛びかかった。うまく翼を動かしてかわされると、一頭が下に落ちていく。が、間髪入れずにもう一頭が牙を剥いて襲いかかった。フランクの翼を、鋭い爪が一気に引き裂く。


 マークは指笛を鳴らした。更に仲間を呼び寄せ、コウモリ人間を撃退しようとした。そのうちに、落ちた狼があっという間にバルコニーを伝って戻ってくる。

 フィーナは見下した目で言い捨てた。


「劣等種族のくせに、我々に勝てるとでも思ってるのかしら」


 コウモリ人間の能力と言えば、空を飛べることと超音波くらいだ。戦闘能力の低い彼らに、人狼は倒せない。攻撃をうまくかわせても、ここでフィーナが能力を開放すれば、彼らはたちまち石化し、地面に落ちて粉々だ。どんなに数を揃えても、彼らに勝ち目はなかった。

 しかし、そこにキティのすがるような声が響く。


「ティティーヌ様!」


 今まで自分に尽くしてくれた彼女の声に、ティティーヌは目を向けた。フランクの後ろで、翼を羽ばたかせながらキティが叫ぶ。


「話を聞いて下さい!!」




 ◇◇◇




 いつもはさらさらと風になびく髪は、濡れて血と汗を滴らせていた。息が上がり、全身で大きく呼吸をする。森の中で対峙する二人の口から、白い息が荒く吐き出されていた。


 リュシアンの意識はすでにない。完全に自我を失い、興奮のあまり時々狂ったような奇声を上げる。もはやただの化け物だった。辺りの木々は薙ぎ倒され、そこだけ視界が晴れている。月明かりに照らされ、表情もよく見えた。虚ろな目つき。


 ヴィドックの首元に、リュシアンの蹴りが命中した。狼の悲鳴が短く響く。吹き飛んだ体は地面を転がり、倒れた木に当たって止まる。ふらつきながら立ち上がると、ヴィドックは軽く頭を振った。視界がぼやける。大量の出血に伴い、意識も朦朧としていた。しかしこのまま倒れるわけにはいかない。今はとにかく、リュシアンの暴走を止める必要があった。彼を正気に戻さなければ、仲間はもちろん、ティティーヌさえも危険だ。もう、勝ち負けにこだわっている場合じゃなかった。


 リュシアンが地を蹴る。彼も怪我を負っている。ヴィドックの攻撃により、肩の肉はえぐられ、脇腹は引き裂かれていた。額からも真っ赤な血を流し、口元も切れている。にも関わらず、彼の動きは変わらない。最初と同じ速さでヴィドックに迫ると、鋭く拳を繰り出した。紙一重でかわしたヴィドックに、新たな拳が襲う。肺にめり込み、骨の折れる音がした。衝撃に耐えかねて倒れると、とどめとばかりに彼の膝が落ちてくる。それを体をよじって何とかよけると、ヴィドックは彼の腿に食いついた。しかしリュシアンの表情は変わらない。もう痛みすら感じていないようだった。頭を鷲掴みされると、強引に引き剥がされて投げつけられる。形勢は明らかにリュシアンへと傾いていた。


 どうしたら彼を止めることができるのか。ヴィドックは必死に頭を巡らせた。昔、暴走した彼を止めたのは、同じように暴走したクレイだった。両者は激しくぶつかり合い、最後は共倒れした。クレイの強烈な一撃を受けてリュシアンは気を失い、クレイもまたリュシアンの重なる攻撃に耐え切れず、力尽きて意識を絶った。そう考えると、やはり一番手っ取り早いのはリュシアンを気絶させることだろう。しかしヴィドックの攻撃では、彼を気絶させるような衝撃は与えられない。


(人型に戻るか……)


 鋭い爪や牙ではなく、拳でなら可能性はあると思った。だが人型になると力も速さも格段に落ちる。すでに大怪我を負った身だ。反応は鈍くなり、リュシアンの攻撃をかわすことさえ難しくなるだろう。

 考えているうちにも、リュシアンの攻撃は止まらない。よけきれずに彼の蹴りが喉元に沈んだ。新たな鮮血が舞う。ヴィドックは決めた。リュシアンに近づき、一瞬の隙を突いて人型に戻り、拳を食らわせる。彼を気絶させるには、それしかないと思った。


 口元から流れる血を前足で拭う。正直、立っているだけでも辛かった。それでもしっかりリュシアンを見据え、睨みを利かせる。チャンスは一回。失敗は許されない。


 リュシアンが叫んだ。獣よりも獣じみた異様な声が、辺りに不気味な余韻を残す。そして彼は動いた。嵐に吹き荒れる風のように速い動きを、ヴィドックは霞む眼でしっかり捉えた。間近に迫ったリュシアンが、ヴィドックの頭を地面に叩きつけようと両手を振り上げる。


 今だ。


 人型に戻ったヴィドックは、力を振り絞って拳に余力の全てを込める。がら空きになっていたリュシアンの腹に、渾身の一撃を沈めた。


「がっ……!」


 彼の口から吐き出された血が、ヴィドックの顔に降りかかる。

 一瞬、静けさが広がり、時間が止まったようだった。

 だが次の瞬間、二人は同時に倒れ込む。ヴィドックも限界だった。体が鉛のように重く、もう立ち上がれない。血と汗と泥にまみれた裸を、夜風がひやりと撫でた。少し離れた場所で、リュシアンも倒れ込んでいる。ようやく、勝負はついた。


 だがこれからどうしようか。今の自分は、歩くどころか立ち上がることもできない。こんな情けない姿のまま、野垂れ死にだけはしたくないと思った。側近を呼び寄せ、運ばせるしかあるまい。痛む腕を無理やり持ち上げ、指笛を鳴らそうと口に当てる。


 しかし。


 すぐ近くで、何かを引きずる音がした。

 ヴィドックは引きつった笑いを浮かべた。


「勘弁してくれよ……」


 足を引きずり、リュシアンが立ち上がる。一歩一歩、踏みしめるようにしてこちらに向かって歩き出した。ヴィドックはもう動けない。狼の姿ならまだ多少は動けただろうが、力の落ちた人型から姿を変える力なんて、もう残っていなかった。目の前で、リュシアンの足が止まる。ヴィドックはただその動きを目で追うしかできなかった。一度持ち上げられた足が、ヴィドックの顔を目がけて下ろされる。容赦なく蹴りつけられ、頭蓋にひびが入った。意識が薄れていく。


「やめて……」


 どこからか、ティティーヌの声が聞こえた気がした。幻聴まで聞こえるようになったかと、ヴィドックは思わず笑う。

 しかし。


「やめて!」


 今度ははっきり聞こえた。

 閉じかけた瞼を再び持ち上げ、声がした方に目を動かす。コウモリ人間に腕を掴まれ、地面に降り立った彼女は真っ青な顔でこちらを見つめていた。


(なんで……)


 フィーナたちと一緒にいたはずなのに。なぜ捕まってしまったのか。ヴィドックは顔を歪めた。


「ティ……」


 名を呼ぼうとしたが、最後まで声が出ない。ティティーヌは腕を振り払い、こちらに向かって駆け出した。ヴィドックの目の前で、リュシアンに抱きつく。


「もうやめて!」


 血に汚れるのもかまわず、彼にしがみついた。

 リュシアンの動きが止まる。無表情のまま、彼は不思議そうに首を傾げた。ティティーヌの顔をまじまじと見つめ、その頬を両手で挟む。


「……ティティーヌ?」


 ティティーヌは微笑んでうなずいた。


「私はここにいるわ……」


(やめろ)


 止めようとするヴィドックに、ティティーヌは弱々しく微笑む。


「ごめんなさい」


 羽織っていたストールをはずし、そっとヴィドックにかけると、彼女はリュシアンの元に戻った。


(やめろ)


「リュシアン。私が分かる?」


 まだ正気に戻りきらないリュシアンに、ティティーヌは穏やかな声で話しかけた。彼がぎこちなく答えると、その首に腕を回して再び抱きしめる。


「ずっとそばにいるから……。一緒に帰ろう?」


 リュシアンは目を閉じた。ティティーヌの背に腕を回し、しっかり抱きしめて温もりに浸る。首元に顔をうずめたまま、彼は答えた。


「帰ろう……」


(行くな)


 ヴィドックの心の叫びは、届かなかった。

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