崩 壊4
不本意だが、初めてフィーナに感謝した。
ほんのりと火照った頬は、瑞々しい白桃のようだった。潤んだ瞳は落ち着きなく視線を彷徨い、恥ずかしそうに逸らしている。小さな唇は赤みが増し、しっとりと濡れた髪は手櫛でまとめただけで、後れ毛が首にこぼれていた。いつもより崩れた髪形が、何とも言えない女の色香を感じさせる。その髪を更に乱したいという欲に駆られ、ヴィドックは陶然と眺めた。風呂上りのティティーヌは、ヴィドックの心を奪うに充分すぎる魅力があった。近くで眺めながら、ちびちびと甘っとろい酒を飲む。久しぶりに満たされた時間だった。愛する女を独占し、甘美な時間に酔いしれた。
「火傷するぞ」
そして掴んだティティーヌの腕。
細くて柔らかかった。ヴィドックは軽く掴んだまま、彼女の指先に向かって滑らかな肌を滑らせる。感触を味わいながらずらすと、ティティーヌの手を掴み取った。触れた指は、細くてしなやかだ。よく見ると少し荒れている。手のひらには、小さくまめの痕があった。苦労を知っている労働者の手だった。
「この火鉢は香炉も兼ねている」
彼女の手を掴んだまま指先で甲を撫で、ヴィドックは話した。
「人狼は鼻が利くんでな。いろんな匂いがあると気が散ってゆっくり休めない。万一に備えて普段は使わないが、集中して休みたい時は警備を強化させた上で香を焚く。火は出ないが、器が熱くなるから気をつけろ」
言いながら、指を絡める。
ティティーヌは頬を赤らめ、わずかに震えていた。彼女は顔を伏せ、ゆっくりとヴィドックの手を解く。
「そうなの。ごめんなさい」
気をつけるわと、ぎこちなく微笑んで答えた。離れた感触を取り戻そうと、ヴィドックは再びその腕を掴むが、ティティーヌが静かに拒んだ。
「駄目よ」
冷静に告げるその瞳は、思った以上に落ち着いていた。触れた手は震えていたのに。
「言ったはずよ」
今も動揺しているだろうに。
「私が選んだのはリュシアンであって」
「なら考え直せ」
今からでも遅くない。
ヴィドックも静かに言葉を紡いだ。
「過去に間違った選択をしたなら、気づいた時に正せばいい。俺みたいにな」
最後の言葉に、ティティーヌが瞠目した。
「あなたみたいに?」
意味が分からず問いかける彼女に、ヴィドックは言った。
「お前が、俺に怯えたのは気づいていた。恐怖の目を向けるお前を見て、俺は無駄な足掻きだとあきらめた。間違った選択だった」
あそこで、引き下がるべきじゃなかった。
「リュシアンを選んだお前は、正解だとも思った」
本能的な問題があるにしても、リュシアンは紳士だ。いつでも女性には礼を尽くし、細やかな気配りもできる。あいつなら、ティティーヌを大事にするだろう。ヴィドックの気持ちは彼らを不幸にする。この平穏を壊してまで、自我を通すべきじゃないと思った。
「だが俺は今、後悔している」
ティティーヌへの想いは冷めるどころか燃え上がり、身を引くべきだと思う半面、嫉妬もしていた。結局、気持ちを捨てるなんてできなかった。
「もっと早くお前を奪うべきだった」
大人気ないだろうと自嘲する彼を、ティティーヌは呆然と見つめた。彼からの告白はとろけそうなほど甘く、ほかの誰よりもティティーヌの心を揺さぶった。
「駄目よ……」
答える声が震える。
「ティティーヌ」
掴まれた腕を、先ほどより乱暴に解いた。
「私たちをそっとしておいて」
すがるような思いで懇願した。
「これ以上苦しめないで」
座ったまま後ずさり、ティティーヌはつぶやいた。
「あなたは分かってないわ」
ヴィドックは、一族の頭首になる人だ。彼の肩に、多くの人狼の運命がかかっている。彼の一挙一動が、一族の行く末に大きく関わっているのだ。
「私はただの人間なのよ。あなたは買いかぶってる」
愛しているという言葉だけで流せるような問題じゃない。人狼たちの未来を変えてしまうかもしれない重圧に、ティティーヌは耐える自信がなかった。
「私には何の能力もないのよ?」
彼の仲間に認められる力なんて、何ひとつ。
「何か起きても、私はあなたを助けられない」
彼の愛に甘えるだけの役立たずには、なりたくなかった。
「そもそも、妻になる資格もないわ」
人間は妖魔の敵というのが今の世の見解だ。つまり、人間は人狼の敵でもある。どんなに頭首である彼がいいと言っても、一族の人たちまで素直に受け入れてくれるとは思えなかった。場合によっては、ヴィドックを窮地に追いやる危険もある。
「愛だけに生きられるほど、私は情熱家じゃない」
周囲を傷つけ、犠牲にしてまで、愛を貫こうとは思えなかった。
「あなたには、もっと相応しい人がいるはずだわ」
言いながらずるずると後ずさるティティーヌの腕を、ヴィドックが掴む。
「私は……」
更に言おうとした時、強引に引き寄せられた。
「それがどうした」
低く言い返し、顎を掴んで顔を上げられる。怒らせたかと思ったが、間近で見た彼の目は優しかった。
「ほかには?」
余裕の表情で聞き流されてる気がした。
「なんで……、そんな風に軽く聞けるの?」
こんなに真剣に話しているのに。
「ちゃんと聞いてるつもりだが」
「聞いてないじゃない。私が何を言っても、あなたは全部聞き流してる」
彼の手を振り払い、ティティーヌは立ち上がった。
「もう寝るわ」
これ以上話しても無駄だと思った。
「客室はどこ?」
「ティティーヌ」
「放し――」
引きとめようとする彼を再び振り払おうとしたが。
「ふざけてるわけじゃない。お前がそう言うなら、俺はもう手を出さない」
ティティーヌが受け入れてくれるまで。
「だからせめて、今夜は一緒にいてくれ」
言葉が詰まった。ティティーヌを見上げるヴィドックの顔に、軽さはなかった。真摯な眼差しに呼吸が止まる。深い瞳に吸い込まれそうだった。
ずるいと思った。そんな風に言われたら、断れるわけがない。
「……明日、朝食を摂ったらすぐに帰るわ」
「ああ」
「同じベッドでは寝ないから」
「ああ。分かった」
念を押した上で、ティティーヌはその場に腰を下ろす。すると、膝の上にごろんと頭を乗せられた。
「ヴィドッ……」
慌てるティティーヌに、彼は平然と言う。
「手は出していないだろう」
またもやしてやられたことに気づき、自分の愚かさに幻滅した。
「ひどい……」
真っ赤な顔で白旗を揚げるティティーヌに、ヴィドックはくつくつ笑う。そして目を閉じると、穏やかに言った。
「約束通り、明日にはちゃんと送ってやる。心配するな」
そして心地良さそうに仮眠に入る。ティティーヌは何も言えず、ただただ彼を見下ろした。どこからか野鳥の声が聞こえてくる。ほかに音はなく、静かだった。室内は暖かいが、なんとなく気になって自分のガウンを彼にかける。声をかけるのを躊躇い、無言で見つめた。老人の白髪とは違う艶を帯びた銀髪。力を感じさせる太い眉。人の心を射抜く瞳は瞼の裏に隠され、薄い唇は緩やかな弧を描いていた。見つめているうちに触れたくなって、ティティーヌは手を伸ばす。しかし途中で思いとどめ、近づけた手を握り締めた。ヴィドックは動かない。彼の寝顔を見つめ、再び手を伸ばしては引っ込めてを繰り返した後、ヴィドックの寝息を確認した上でそっと彼に触れた。
柔らかくて、まだかすかにしっとりと湿っていた。
二度、三度と、起こさないようそっと撫でる。
「…っ……」
すぐに後悔した。
こみ上げる嗚咽をこらえ、両手で口を塞ぐ。
愛おしさが溢れ出し、直視できないほどだった。今までひたすらに隠し、目を逸らしていた分、思った以上に大きな反動が襲いかかる。もう大人しく認めたらどうだと、彼への気持ちがティティーヌをきつく締め上げた。唇を強く引き結び、歯を噛み締めてこらえようとしたが、力むあまり体が震えた。
ヴィドックが、静かに目を開ける。
(見ないで)
願う気持ちとは裏腹に、しっかり目が合ってしまった。おもむろに彼の手が動き、ゆっくりとティティーヌの涙を拭う。もう限界だった。
「…っく……」
嗚咽が漏れると、ヴィドックが体を起こした。口を押さえながら身を反らし、泣き顔を見られまいとするティティーヌの肩に手をかける。
「こっちを向け」
ティティーヌは、そっぽを向いたまま必死に首を横に振った。ヴィドックはあきらめ、そのまま横から抱きしめた。腕の中で肩の震えが一層高まり、嗚咽の声が大きくなる。軽く頭を撫でてやると、ティティーヌは自らヴィドックの胸に顔を埋めてきた。しっかりとシャツを握り締め、深くうつむいて涙を落とす。夜型の生活の影響か、体は前にも増して細くなっている気がした。力を込めたら簡単に折れてしまいそうで、怖くなる。
手中にあっても、簡単に失ってしまいそうで。
小さな肩を掴んで引き離すと、ヴィドックはティティーヌの頬を両手で包んだ。自分の方に向かせ、目元の涙を親指で拭う。濡れた長い睫の下で瞳は潤み、そこに自分の姿が映っていた。自分だけが、ティティーヌの瞳に映っていた。
そっと、唇を押し当てる。触れたまま角度を変え、ゆっくりと深みを増していった。舌を絡めると、濡れた音が耳に響く。泣きながら震え続けるティティーヌを優しく押し倒し、ヴィドックは口づけを続けた。舌の付け根まで絡め取ろうと、深く口内を侵していく。ティティーヌの髪が乱れ、声が漏れた。音が響き、ヴィドックの興奮を煽っていく。一度唇を離すと、間近で低く言った。
「今まで俺が、どんな気持ちでいたか分かるか」
リュシアンと微笑み合うティティーヌを見て、強引に連れ去ってしまいたかった。奴に血を吸われるティティーヌを見て、どれほど抑えてきたことか。陶酔の波に呑まれ、恍惚としていたあの顔が脳裏に焼きついている。
リュシアンではなく、自分の手でそんな顔をさせたかった。
そしてヴィドックは再びティティーヌに口づけた。もう自分を抑えることはしなかった。思いのままにティティーヌを味わい、激しさを増していく。息遣いが荒くなり、貪るように続けた。体の奥が疼き、膨れ上がった欲望が出口を求めて暴れ出す。
ティティーヌは泣いた。体からは力が抜け、閉じた目尻から涙が伝い落ちていった。
本当は、フィーナの言う通りだった。
出会った時からずっと、ヴィドックに惹かれていた。ティティーヌの気持ちを察し、いつでも気にかけて支えてくれた。彼の気遣いにどれほど救われたことか。話をする時の優しい眼差しが好きだ。色気のある低い声が。力強くて逞しい腕や、温かくて広い胸が。それでも忘れようとして、逃げ続けた。
自分にはない獣の一面に怯えて自ら離れ。
彼の立場を知り、更に気持ちを奥へと追いやる。
そしてリュシアンの深い愛を知り、受け入れた。
本能からくる異常な食欲を抑えてでも、ティティーヌを尊重してくれたリュシアン。あまりの想いの深さに胸を打たれ、前向きに現実と向き合おうとした。今までも、これからもずっと傍で守り、尽くそうとしてくれる彼の存在に気づき、未練がましく抱いていたヴィドックへの恋に区切りをつけた。リュシアンと過ごす日々は、心に安らぎを与えてくれた。平穏な毎日に安心感を持てた。彼とならやっていける。そう思ったのに。
ヴィドックの真実を知り、彼が抱えている闇を知り、ひどく動揺する自分がいた。彼のことを知れば知るほど気持ちが膨れ、しかし同時に互いの距離は伸びていく。やはりヴィドックは遠い存在だった。無力な自分では、彼を救えない。ヴィドックとリュシアンの仲だって壊してしまう。ティティーヌはリュシアンを選んだのだ。今更、捨てた想いを再燃させてはいけない。ティティーヌがすべきことは、ヴィドックに気がないことをはっきり告げ、リュシアンに尽くすこと。これが最も最善なのだ。必要以上にヴィドックと関わってはいけない。深入りしてはいけない。
いつだって、何度だってそう思ってきたのに、この気持ちは消えなかった。
呼吸が苦しくて、息と共に声が漏れる。ヴィドックに掻き乱され、女の悦びを感じる自分がいた。一度外れた箍は、修復できずにぼろぼろと音を立てて落ちていく。どこかで、警笛が鳴っている気がした。
早くやめろ。これ以上続けてはいけない。
誰かが必死に叫んでいる。何のために今までこらえてきたのか。リュシアンの優しい笑顔がよぎる。彼の愛情に満足していたのは事実だ。彼を選んだのは間違いじゃない。ヴィドックが言うように、ティティーヌもそう思っていた。だけど――
「ヴィドック……」
名前を呼ぶだけで、苦しくて涙がこみ上げる。目の前にいる男が愛おしくてたまらなかった。こんな思い知らない。こんな気持ちになるなんて。
「俺のものになれ」
逆らえなかった。言い返すこともできない。底のない泥沼に足を取られ、体が沈んでいく気がした。気づきながらも、もうどうにもできなかった。
体は火照り、浅い呼吸を繰り返す。覆い被さる彼の重みが心地良かった。彼の頬に手を伸ばし、そっと触れると初めて自分から口づけた。それがまるで合図だったかのように、ヴィドックが動きを再開する。まともに息をつくこともできないほど、濃厚な口づけだった。獣の一面を垣間見て、ティティーヌは思わず恐怖を抱く。このまま、未知の世界に足を踏み入れようとしている自分が怖かった。彼とひとつになれることを喜びつつも、両手を広げて迎え入れる余裕はなかった。
すると、長い口づけが中断され、ティティーヌの体が宙に浮く。
「一緒に寝るのは嫌だと言ったか?」
見下ろす眼差しは、いつもと変わらず優しかった。からかう余裕まで見せる彼に、ティティーヌは内心安堵した。恐怖が薄れ、つられるように微笑んだ。
「今夜は……、一緒にいる約束だわ」
ヴィドックは小さく口元を上げ、ティティーヌをベッドに運んだ。脇の蝋燭をひとつだけ灯すと、カーテンを引いて外光を遮断した。シャツを脱ぎ捨てると、ティティーヌの上に跨る。肉厚の逞しい体が、蝋燭の明かりに照らし出された。暗がりの中で、引き締まった体が白く浮かび上がっている。例えようのない美しさがあり、どことなく浮世離れして見えた。緊張が高まり、胸の鼓動が激しくなる。この先に進めば、もう引き返すことはできないのだ。
「ごめんなさい。やっぱり――」
怖くなって身を捩ったティティーヌの頬に、ヴィドックがそっと手を伸ばした。何度か指の背で頬を撫でると、穏やかに言った。
「俺を信じろ」
優しい声音が、甘い響きを持って耳に入る。その声だけで、頭の芯が熱く痺れた。もう目を逸らすことも、逃げることもできなくなり、ティティーヌは彼を見上げた。触れていた彼の指が肌を滑り下り、襟ぐりの紐を解いていく。緩んだ襟元を引き下げ、肩が露になった。ヴィドックは覆い被さり、細い鎖骨に口づけた。時間をかけてゆっくり愛撫をしながら、ティティーヌを味わう。蜜のように濃厚で、優しくも執拗に攻め立てるヴィドックに、ティティーヌは耐え入るような吐息を漏らした。日に当たらない日々が続き、陶磁器のように白くなった体が薔薇色に染まっていく。何度も快楽の波を乗り越えながらティティーヌは乱れ、陶酔の海へと沈んでいった。次第に激しさを増すヴィドックに翻弄され、彼を迎え入れると、感極まった悦びが喘ぎ声となって辺りに響いた。室内に立ち込めるジャスミンの香りに、二人の熱情の香りが混ざり合う。カーテンの裾から、わずかに光が漏れていた。軋むベッドから、しわだらけになった夜着が床にずり落ちる。濡れた体を気にも留めず、ひとつに解け合った二人は至福に満たされて甘い眠りへと落ちていく。
ウィケット邸にヴィドックからの使いが到着したのは、その頃だった。




