月夜の遭遇3
枕を背もたれに、ベッドで体を起こしていたティティーヌは、我を忘れて彼を見つめていた。見惚れたという方が正しいかも知れない。リュシアンは、命を与えられた精巧な人形のようだった。生活感はおろか、人間味というものを感じない。それがこうして微笑み、言葉を話しているのが不思議に思えるほどだった。
「フランクから聞いたと思いますが、あなたのことは私が責任を持ってお守りしましょう。今日からはここを我が家と思って下さい」
夢のような話だった。偶然見つけた瀕死の女に、治療をするだけでなく、生活まで保障してくれるというのだ。あまりにも現実味を欠いた話に、何か理由があるんじゃないかと疑いそうになる。それも、こんなにも素敵な人が、なぜここまで、と。
よぎった不安を言葉には出さず、ティティーヌは胸の内で頭を振った。
親切にしてくれる人を疑うなど、恩を仇で返すも同然だ。疑うよりもまずは感謝すべきだと、考えを改めた。
そして自分も小さく微笑み返し、ゆっくりと口を開く。
「ありがとう……ございます。私は、ティティーヌ・ガートルード……」
伝えたいことはいくらでもあったが、名乗るまでで精一杯だった。リュシアンの方も、様子を察して素直にうなずいてくれた。
「そういえば、話すのが困難でしたね。無理に話す必要はありません。ゆっくりご静養なさって下さい」
そう言うと、彼は歩み寄ってティティーヌの手をそっと掴み上げた。自分が熱いせいか、それとも彼の手が冷たいせいかは分からないが、ひんやりとした感触が気持ち良かった。しかし、ふわりと柔らかいものが甲に触れて、見事に思考が吹き飛んだ。ちらりと見上げられた眼差しに釘付けになり、目を離すことができなかった。
「早く、あなたの本当の声を聞きたい。楽しみにしています」
体温が更に上昇する。鏡を見なくても顔が赤いと分かる。首元の傷口から、どくどくと出血しているような気がした。
傍らでヴィドックが小さく鼻を鳴らしたが、ティティーヌは呆然と見入っていた。逆に気づいたリュシアンの方は、ちらりとヴィドックを一瞥すると、すぐにティティーヌへと視線を戻し、再び艶のある微笑を浮かべた。
「あまり長居しては失礼だ。今日のところはこれで失礼します」
優雅に頭を下げると、彼は部屋から出て行った。それでも呆けたまま扉を見つめるティティーヌを見て、ヴィドックは密かに息をつく。
(相変わらず、女の扱いがうまい奴だ)
ここまでくると、嫉妬も妬みも湧いてこない。リュシアンは、自分の魅力をよく知っている。どうすればより美しく見えるか、女の心を掴むことができるか、知った上で振る舞っているのだ。あの整った容姿に相応しい立ち振る舞いや言葉遣い、機転の速さは洗練されたものがあった。
もう何年も血を飲んでいない彼が、この状況であそこまで真摯に振る舞ったことには、ヴィドックも賞賛を送りたくなったほどだ。ヴェンパイアの誇りは並じゃないと、改めて実感させられた。しかし、自室に戻れば間違いなく酒を飲むだろうと思うと、込み上げる笑いを噛み殺した。
そこに新しい包帯を手にしたフランクが戻ると、ティティーヌもようやく我に返り、大人しく包帯の交換を受けていた。全てはリュシアンの思い通りに運んでいるらしい。ヴィドックは小さく鼻を鳴らした。すると、気づいたティティーヌが視線を向ける。目を瞬かせ、どうしたのかと窺うような眼差しだった。
「なんでもない。横になるか?」
起きているよりは寝ていた方が楽だろうと思い、声をかけるとまたティティーヌの頬が赤くなっていく。ヴィドックはわずかに片眉を上げた。
(この娘……)
もしかしたら、男の免疫がないのかもしれない。そんな予感が頭をよぎった。リュシアンに見惚れていたのは事実だろう。あいつは同性から見ても整った容姿だと思う。だが心を奪われたかどうかとなると、疑問があった。
「あの……、お願い、します……」
明らかに照れた様子で口ごもるティティーヌに、ヴィドックは微笑んだ。ヴァンパイアの魅力に憑りつかれない人間というのは、珍しかった。起こした時と同じように軽々と抱き上げ、間近でしばしその顔を見つめると、ティティーヌの顔は更に赤くなっていく。必死に目を逸らす様子がおかしかった。
「あ、ありがとう……」
寝かせると控えめに礼を告げられ、小さな頭を撫でてやる。
「悲惨な目に遭って、辛いだろうとは思うが、前向きに考えることだ。今のお前は一人じゃない。こうして話し相手もいる。死んだ家族に恥じないよう、生きることを考えろ」
静かに言い聞かせてやると、娘の目に涙が込み上げた。種族は違っても、家族を思う気持ちは同じだ。大事な者を失う気持ちは、ヴィドックにもよく分かった。
「ありがとう……」
泣きながら微笑んだ娘に、自分も小さく微笑み返す。彼女の目に生気が宿ったのを感じ、密かに安心した。
◇◇◇
すれ違うミックス達が、頭を下げていく。ちらちらとこちらを窺いつつも、声をかけてくる者はいなかった。一定の間隔を置いて灯された蝋燭の明かりに、自分の影が長く伸びていた。
自室に入ったリュシアンは、真っ直ぐ戸棚に向かって突き進んだ。ガラス扉を開けると、一本のワインを取り出して瓶のまま口をつける。まるで水のようにそれを流し込み、やっとの思いで息をついた。限界だった。入った彼女の部屋は、予想以上に血の匂いが充満していた。あんな部屋で、ヴィドックはよく平気でいられるものだ。たとえ血よりも肉を好む種族だとしても、その肉を連想させるあの匂いに平然としていた姿はさすが、次期頭目の器だと認めざるを得ない。それとも、単に人間を食う習慣がないせいだろうか。どちらにしろ、一介のヴァンパイアに過ぎない自分には、到底耐えられるものではなかった。
血が欲しい。彼女の血が。
前回人間の血を飲んだのはいつだったか。もうずいぶん昔のように感じる。こんなことなら、血の味など知らなければ良かったのだ。一度も飲むことがなければ、まだ気持ちも楽だっただろうに。あの濃厚で甘い舌触り。全身に染み渡るような心地良さ。みなぎってくる力と生気。体が軽くなり、いつになく高揚感に満ちていくあの感覚。今すぐにでも味わいたかった。それをなんとか紛らわそうとして、また酒を流し込む。
「っく……」
ふと、部屋の入り口の方から男の低く笑う声が聞こえてきた。
「こんなことだろうと思った」
目だけを動かして一瞥し、また酒を飲む。
「彼女は」
「フランクがついてる」
向かい合うようにソファーに座ったヴィドックに、リュシアンは顔をしかめて睨みつけた。
「お前は……、余裕だな」
「そういうお前は辛そうだな」
鼻で笑われ、言い返せずにまた酒を飲む。
「この匂いはなんとかならんのか。気がおかしくなりそうだ」
「それも承知で連れて帰ったのはお前だ」
確かに、彼女をここに住ませると判断したのはリュシアン自身だ。自分のものにして、この先長く血を味わうためだった。しかし、彼女の怪我が治らなければ、それもできない。
「血をもらえるまであと何日待てばいいんだ? 一ヶ月か? 半年か? その間ほかの連中から隠し、奪われないように守りながら指を咥えて待ってろと言うのか? 目の前にいるのに?」
「俺に聞くな。自分で決めたことだろう」
その通りだが、平然と答えるヴィドックに苛立った。ヴァンパイアの性質というものをよく知っているくせに、他人事のように扱うことが癪だった。
「せめて血の匂いさえなければな……」
この匂いを遮断することさえできれば、彼女とも普通に接することはできるだろう。自分の我慢もなんとかなる。だが首の傷は、その辺でうっかり作ったすり傷のように軽いものではない。完治にはまだまだ時間がかかり、その間は匂いを遮断することもできなかった。
「そんなに堪えるなら――」
ふと、ヴィドックが低い声で切り出した。
「完治まで俺が預かってやろうか」
思いがけない言葉に目を見開いたリュシアンに、ヴィドックは淡々と告げた。
「人間を食う人狼はいない。俺のところなら敵の心配もないし、お前が血の匂いに苦しむこともないだろう。どうせ来月には戻るつもりだった。それが少しくらい早まったところで、支障はない」
そこまで聞いて、リュシアンの中に沸々と怒りが込み上げる。
「俺から……、彼女を奪うつもりか」
強い独占欲が心を支配し、据わった目つきでヴィドックを睨んだ。
「そうじゃない。完治するまでと言ってるだろう」
説明する彼の言葉も、素直に聞き入れることができなかった。
「そうして完治した後はどんな言い訳をつけるつもりだ? ヴァンパイアの俺にとって彼女がどれほど貴重な存在か分かってるくせに、それを奪って反応を楽しむつもりか」
「いい加減にしろ」
血に飢えるあまり、正気を失いかけたリュシアンに、ヴィドックは低く呻って一喝した。
「俺がいつ奪うと言った。預かろうかと聞いただけだろうが」
獰猛な狼の鋭い光が瞳に宿り、彼の肌にざわざわと銀色の毛が生えていく。口を開けた拍子にちらりと見えた歯は、獣の牙に変貌していた。今にも食いかかりそうな雰囲気を感じ、リュシアンは息を呑んだ。大きくため息をこぼし、ゆっくりと肩の力を抜く。
「……悪かった。どうかしていた」
沈んだ声で心から謝ると、ヴィドックの姿が人間に戻っていった。
リュシアンは意識的に気持ちを落ち着かせ、滅入った様子で額に手を当てた。友を相手にこんなことを言うなど、本当にどうかしている。ヴァンパイアとしても恥ずべき失態だった。
「お前の気遣いには感謝する。だが彼女を手放す気にはなれない。完治するまで、なんとか我慢するさ」
「……そうか」
素直に気持ちを伝えると、ヴィドックも納得してうなずいてくれた。




