吸血鬼7
突然、緊張が張り詰める。
まだ火照りの残る赤い顔で、見上げるティティーヌの目には恐怖の色が浮かんでいた。
彼の目の前での出血。それが何を意味するのか、どれほど残酷で、危険なことかは充分分かっている。しかもこんなにも興奮している時に血を見せたら――
「……リュシアン」
思わず後ずさったティティーヌに、リュシアンがごくりと喉を鳴らした。
(舐めたい)
先ほどとはまた違う種の欲求が、あっという間にリュシアンの理性を呑み込んでいく。ティティーヌが離れた分、リュシアンの足が前に進んだ。
(欲しい)
彼女の血が。もうそこから目が離せなかった。
「ティティーヌ……」
吐き出した声は、自分で思った以上に強張っていた。だけど止められない。リュシアンの心が、魂がティティーヌの血を欲していた。とろけるような甘い匂いが鼻孔をくすぐり、早く早くと自らを急かす。
「手を……」
差し出すように促したが、ティティーヌは無言で頭を振った。それがひどくもどかしくて、苛立ちすら感じてしまう。
「血が出てるんだろう?」
そのまま垂れ流しにするなんて、あまりにももったいない。酸化してまずくなる前に、一滴でも多く味わいたかった。
「早く、見せて」
その手を、その指を。
いっそ切り落として、流れ出す血を飲み干したい。どんな上等なワインでも敵わない、極上の液体を。早くよこせとばかりに、喉が渇いていく。
「でも……」
じりじりと後ずさっていくティティーヌは、胸元でしっかり手を握り締めていた。
(誰か)
こんな時、決まって頭に浮かぶのはヴィドックだった。今まで、何度となく危機から救ってくれた存在。いつだって真っ先に駆けつけてくれた頼もしい彼は、もういない。代わりに、ティティーヌの頭には別の人物の名前が浮かんだ。
(フィーナ。エレナさん)
頼れる相手を求めて、視線を泳がせた時だった。
「きゃあっ」
強引に腕を掴まれた。
「リュシアン、落――」
落ち着いてと、言おうとしたティティーヌの右手に、真っ白なハンカチが当てられる。
「量は少なくても、匂いはあっという間に広がっていく。いくら対策を施したと言っても、完全に安全とは言えないんだ。出血した時は早く処置するように」
神妙な面持ちで話す彼に、呆然としてしまった。
リュシアンはフランクを呼びつけ、てきぱきと手当てをしてくれる。きちんと消毒をして薬を塗り、包帯まで巻かれた手には更に用心して香水を噴きかけられた。その一連の行為を、一切の笑みもない表情で行ったリュシアンは、最後にバケツの水で自らの手をすすぎ、血の匂いを念入りに洗い流す。
――呪いのような食欲を抑えてでも……。
カルロスに言われた言葉が蘇る。
ヴァンパイアにとって人間の血がどれほど貴重か、今ならティティーヌもよく知っている。彼らにとって人間の血は、麻薬のように強い誘惑を放つのだ。それを目の前にして、耐えるのは至難の業だと思う。にも関わらず、リュシアンはティティーヌの安否を優先させた。自身の食欲よりも、ティティーヌの身の安全を選んだ。
「……ごめんなさい」
思わず、そう口走っていた。
リュシアンはやっと表情を緩めて苦笑する。
「これからは気をつけるように」
おどけてこつんと額を叩かれ、ティティーヌはふたたび謝った。
「ごめ、なさ……」
「そこまで落ち込むことはないよ。大した傷じゃなくて良かった」
励まされたが、彼の顔は見れなかった。
たとえ言葉にしなくても、分かった気がする。
リュシアンの深い想いが。
(ごめんなさい)
全てカルロスの言う通りだったと痛感した。リュシアンが優しくしてくれるのは、決して血のためだけじゃない。大事にしてくれるのも、こうして励ましてくれるのも。食欲を紛らわすために触れていた行為も、本当は違ったのだ。
「少し言い方がきつかったね。悪かった」
そっと抱き締められて、思い切り頭を振ってしまった。
「なんでリュシアンが謝るの……」
謝るべきなのはこっちなのに。
これではまるでヴィドックの時と同じだ。親切にしてくれる相手を怖がり、傷つける。都合のいい時だけ頼って、いざ自分と違う一面を見たらとたんに突き放す。こんな無神経なことを二度も繰り返すなんて。反省したはずなのに、まだ心のどこかで彼らの表面しか見ようとしない部分があったのだ。種族の違いに捉われ、個人を見ようとしない部分が。リュシアンは信じられると思ったのに。それも表面だけだった。
「ありがとう……」
謝罪の気持ちと共に、心から告げた。
こんなにも想ってくれる彼の気持ちに、胸がいっぱいで苦しかった。
リュシアンは満足そうに微笑んでいる。
「そろそろ夕食の時間だ。今夜はご一緒してくれるかい?」
軽い口調で聞かれ、ティティーヌも微笑んだ。
「新しい部屋と、温室が完成したお祝いね」
それならエレナとカルロスも招待すべきだと、気づいたティティーヌにリュシアンが苦笑する。
「確かにそうだが、彼らが一緒だとすごいことになるぞ?」
「ならフィーナ達も交えてみんなでお祝いしない? あ、でもメデューサにとっては時間が遅いかしら」
「いや。サーガはともかく、フィーナなら喜んで応じてくれるだろう」
「良かったわ。彼女がいてくれるとすごく心強いから」
先ほどのことを考えると、すでに屋敷のどこかにエレナの石像が転がっているかもしれない。
「言えてる」
さすがに砕くことはしないだろうが、外に放り出すくらいはしてるかもしれないと、笑いながらリュシアンも賛同した。
結局、石化されて外に放り出されていたのは兄のサーガだったが。
「エレナを止めるより、兄を石化した方が早いじゃない」
そうすればエレナが手を出すこともなくなり、私がいちいち気を張る必要もなくなるだろうと、フィーナがあっさり言い切ったのは夕食も終わりに近づいた頃のことだった。
「そんなにやきもちを妬かずとも、一緒に楽しめばいいのに」
無垢な笑顔で誘惑するカルロスに、フィーナはしっかり目を光らせて忠告する。そんな彼女に、酔っ払ったエレナが猫撫で声でもたれかかった。
「そんなに怒らないで、フィーナ。カルロスまで石化されたら、今夜のお楽しみがなくなっちゃうじゃない」
ワインをちびちびと飲んでいたティティーヌが派手に噴きこぼした。すぐにキティがタオルを差し出し、受け取ったリュシアンが笑いながら拭いてくれる。だがエレナたちの攻防は止まらない。
「俺が石化されたら、リュシアンに代わりを頼むしかないな」
「あら、駄目よぉ。リュシアンにはもうティティーヌちゃんがいるんだからぁ、いくら私でもそんな野暮なことはできないわぁ」
「じゃあティティーヌも一緒にすればいい」
「あぁ、それは素敵ねぇ。こうなったらフィーナも一緒にいかが?」
ティティーヌが顔を真っ赤にして絶句し、リュシアンが苦笑する傍らで、フィーナの目があっという間に吊り上がっていく。
「メデューサの落ちこぼれが兄なら、ヴァンパイアの落ちこぼれはエレナね。品を重んじるヴァンパイアの血を持ちながら、よくそこまで下品になれるものだわ。しかも食事の席だというのに、非常識だと思わないのかしら」
あくまでも口は笑っているが、その目には殺意にも近い怒りが込められていた。もう能力を解放する寸前だ。
「やだわぁ、ほんの冗談よ。怒らないで笑ってちょうだい。ほら、笑顔ぉ」
「今すぐ頭から水をぶちまけてやりましょうか?」
引きつった笑みで冷たい声を返す彼女にも、エレナはちっとも怯まない。
「これもひとつの愛なのよぉ? 私はティティーヌもリュシアンもサーガもフィーナも、みぃーんな大好きなんだからぁー!」
立ち上がって声高らかに叫ぶと、ふらふらと後ろに倒れ込んだ。それを隣で優雅にワインを飲んでいたカルロスが片手で軽々とキャッチする。
「少し飲みすぎたようだね、エレナ」
「だって今日は楽しいんですもの」
「ああ、なんと言ってもお祝いだからな」
艶のある笑みを浮かべ、真摯に受け答えながらカルロスは残りのワインを一気に飲み干す。
「それじゃあこの辺で失礼しようか」
空になったグラスを置くと、言いながら彼は両手でエレナを抱き上げた。
「フィーナも来なぁい?」
「結構よ!」
けらけら笑いながら誘われ、当然のごとく断ったフィーナだったが、
「そこの二人だってお楽しみなんだからぁ、邪魔しちゃ駄目じゃなぁい」
彼女の言葉に、ティティーヌとリュシアンが顔を見合わせた。本当に思わずという反応だったが、すぐにティティーヌが恥ずかしそうに目を逸らしたのを見て、フィーナの眉が動く。また何かあったようだと、怪しんだのも一瞬で、
「じゃあ俺達は失礼しよう。『彼』も待ってることだしね」
カルロスの意味深な言い回しに、ぷつりと何かが切れた。
「ちょっと! 何よそれ! まさか石の兄さんをっ……」
「彼だけ一人にさせちゃあ可哀相じゃない? てことで、おやすみー」
「許さないわよ! 待ちなさいっ!」
イスが倒れるほど勢い良く立ち上がり、フィーナはぱたぱたと後を追っていった。
「……まさに嵐だな」
「本当……、楽しそうよね」
なんだかんだ言って、エレナを本気で攻撃しないあたり、フィーナも手加減しているように見えるし、実はじゃれ合ってるだけなのかもしれない。最近はそんな風にも思えてきて、ティティーヌは小さく笑った。気づいたリュシアンもつられるようにして笑う。
「あれもひとつのスキンシップなんだろうな」
一気に静まり返った室内で、二人は改めて乾杯した。
「だから罠だって言ったでしょ!」
エレナたちの部屋に飛び込んだフィーナは、すぐに兄を見つけて石化を解いた。
「そんなこと言われても……」
石になっちまったらどうしようもねえじゃねえかと、言いかけたサーガの抗議はあっけなくフィーナに伏せられた。
「元はと言えばへらへらくっついていった兄さんが悪いのよ!」
言い返したいのは山々だが、彼女の言っていることももっともなので、彼は渋々聞き入れるしかない。そこに、元凶であるエレナが呑気な声をかける。
「そんなに怒らなくてもいいじゃなぁい? 一緒に楽しもうとしただけなんだからぁ」
「ですよねー」
「兄さんは黙ってて!」
そのうち、フィーナの頭から角が生えてくるんじゃないかと、カルロスが想像して笑った。
「怒った顔も可愛いけど、女性は笑っていた方がいいよ。フィーナ」
「怒らせてるのは一体誰よ! あなたも元凶の一人でしょっ!?」
「俺は君のことも気に入っているんだけどな」
あくまでも落ち着いた様子で、優雅に微笑みながら言い切る彼に、フィーナの眉がぴくりと動いた。
「悪いけど、私はティティーヌのようにはいかないわよ」
冷静を取り戻して告げた彼女に、カルロスはにこにこと笑っている。
「なんのことかな」
「とぼけたって無駄よ」
泥酔したエレナを抱え、落ち着き払った彼にフィーナも笑みを浮かべた。
「あなたたち二人が考えることくらい、お見通しってことよ」
自信に満ちた、不敵な笑みだった。
「……そういえば、蛇の姿がないようだね」
いつもはフィーナの首を定位置にしているミシェルがいない。考えてみたら、『昼間』もいなかった。いや、昨日も一昨日も、彼女の首に蛇はいなかった。顔から笑みを消したカルロスに、フィーナはくすくす笑う。
「気づくのが遅いんじゃなくて?」
「……ますます、魅力を感じるね」
侮れない。
かすかに引きつった笑みを浮かべながら、カルロスは警戒を強めた。フィーナは一体何が目的なのか、何を考えているのか、彼女の心が読めなかった。
「確かに君とティティーヌは違う」
扱いづらい女だと、苦笑せずにはいられない。
「君は聡明で、非常に奥が深いね」
「煽てたって無駄よ。人の心を操ることなんてできないんだから。そうでしょう?」
鋭く胸の内を見抜かれて、カルロスが両手を上げた。
「やれやれ、君には敵わないな。もしかして全部バレてるのかな?」
降参の意を示しながら、逆に探りを入れようとしたが、
「どうかしらね」
あっさりとかわされて失敗した。そしてフィーナは、酔っ払って兄にいちゃつきだしたエレナを強引に引き剥がし、名残り惜しんで手を伸ばす兄を部屋の外へと追い払う。懲りずに戻ろうとするサーガを怒鳴りつけて自室に促した後、振り向いて淡々と告げた。
「ティティーヌにはバラしてないわ」
どういうつもりで言ったのか、やはり心は読めなかった。
「それはどうも」
とりあえず礼を返したカルロスに、フィーナは言葉を重ねる。
「バラす必要がないもの。あなたたちが思ってるほど、あの子はバカじゃないわ」
教えてやらなくても、ティティーヌは自ら気づくだろう。
「気持ちは分からなくもないけど、おせっかいは無駄なだけよ」
扉が閉められ、カルロスはあからさまに苦笑した。
「鋭いわねぇ。フィーナちゃん」
ソファーにもたれ、気の抜けた声を上げるエレナの隣に、彼もだるそうに腰を下ろす。
「あの子は苦手だ」
デカンタからグラスに水を注ぎ、エレナに差し出した。
「何を考えてるのか分からない。ティティーヌの方がよっぽど可愛げがあるな」
自分の分も注ぎながらぼやく彼に、エレナがくすくす笑った。
「カルロスは単純な女が好みだものね」
「正しくは単純そうな女性だよ。そう見せかけて実は奥が深いというのがいいんだ。見るからに気難しくて人当たりの悪い女性は最悪だね」
社交辞令も何もあったものじゃない。
いちいち場を繕うのも疲れるし、おまけに勘が鋭いとなるとよけいに気を遣ってしまう。
「もう少し年をとれば、あの子だって丸くなるわよ」
食べ頃になったら一度くらい味見をしてみたいものだと、おどけるエレナに癒された。




