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ROSA  作者: 藤 子
32/65

吸血鬼3

 ヴァンパイアの感覚で言うならば、午後の穏やかな昼下がり。

 外は心地良い風が吹き、無数の星と共に新月が夜空に浮かんでいた。

 いつもと変わらず、キティと和やかに編み物をしていたティティーヌの部屋に、ノックの音が響き渡る。キティが出るまでもなく扉は開き、慌てた様子でエレナが駆け込んできた。


「ティティーヌ! かくまってちょうだい!」


 言うなり、彼女はベッドの向こう側に身を潜めた。呆気にとられ、何事かと目を瞬かせるティティーヌだったが、程なくして再び扉が開かれた。今度はノックもなしだ。


「ティティーヌ! ここにエレナが来なかった?」


 フィーナだった。なぜかひどい剣幕で怒り狂っている。

 ティティーヌはキティと顔を見合わせ、戸惑いつつも答えた。


「ここには来てないけど……、どうかしたの?」

「あの女! 兄さんをたぶらかそうとしたのよ!」


 いつものことながら、フィーナはサーガのこととなると人が変わる。


「今度という今度は許さないわ! 石にして粉々に砕いてやる!」


 彼女が来たらすぐに知らせるようにと、フィーナはしっかりキティに念を押して荒い足取りで出て行った。


「ふう。助かったわ」


 言いながら、ひょっこりとエレナが顔を出した。ほっと胸を撫で下ろし、疲れきった様子でソファーに座った。


「まったく、フィーナのしつこさといったら、参っちゃうわ」


 追ってくるのが男なら嬉しいけど、女じゃちっとも楽しめないと、額の汗を拭いながら彼女は言う。


「フィーナにとってサーガは特別ですからね」


 サーガがティティーヌに謝りに来た日のこと。ついでに少し話をしていただけなのに、フィーナは睨みを利かせて入ってきた。その時のことを思い出し、ティティーヌはエレナを労った。しかし。


「本当、厄介よね。ちょーっと誘惑しただけなのに」


 平然と言ってのけた彼女の言葉に、ティティーヌは耳を疑った。


「ゆ、誘惑……?」


 キティが出した紅茶で喉を潤しながら、エレナは言った。


「赤ワインばかり飲んでいたら、たまには白ワインも飲んでみたくなるものでしょう? 野性味溢れるサーガとちょっと遊んでみたくなったのよ。あくまでも遊びよ?」


 本気ではないのだから、あそこまで剥きにならなくてもいいじゃないかと、声を大にして話す彼女に、ティティーヌは顔を引きつらせた。フィーナが怒るのも当然だ。


「……サーガは遊びで恋愛できる人じゃないから、フィーナは心配してるんじゃないですか?」

「あら。あなたはフィーナの味方なの?」


 事情を知って呆れるティティーヌに、エレナは目を丸くする。しかし次には、にやりと意味深な笑みを浮かべた。


「まだまだ純粋なのねぇ。その様子だと、男も知らないのかしら」


 紅茶に口をつけていたティティーヌは、思わず吹き出した。


「何を……」


 慌ててカップをテーブルに置き、口を拭ってうろたえる様子にエレナはころころと笑った。


「ごめんなさい。図星だったのね」


 弾んだ声で言われても、とても謝っているようには聞こえない。

 恨めしく横目に睨んだが、ふと目が合って慌てて逸らした。


「ねえ、ティティーヌ」


 猫撫で声ですり寄られ、ぞくりと背筋に悪寒が走る。


「な、なんでしょうか……」


 エレナのまとわりつくような視線が、ティティーヌを捕らえていく。


「リュシアンと一緒に住んでいるのに、血をあげたこともないの?」


 彼女の細い指が、ティティーヌの首筋をなぞる。


「あ、ありますけど……」

「そう? その割には普通なのね」


 言葉の意味が分からず、ティティーヌは怯えながらも顔を向けた。


「……普通?」


 眉をひそめると、エレナが耳元でささやく。


「人間てね、ヴァンパイアに血を吸われるととっても気持ちいいんですって。まるで男女の営みの時みたいに」


 あまりにも衝撃的な言葉に、ティティーヌは勢い良く身を引いた。ソファーの端まで後ずさり、エレナを凝視する。


「だ、男女のって……」

「今さら照れなくてもいいじゃない。もう経験済みなんでしょう? その快感を」


 妖艶な眼差しを向けられ、力の限り頭を横に振ってしまった。首が引きつり、痛みが走ったが、そんなことはおかまいなしだ。今のティティーヌにはそれどころじゃない。


「あ、あああの時はもう、無我夢中だったし……、血をあげてる途中で気を失っちゃったから、そんな、気持ちいいとか、そんな」


 感じている余裕もなかった。


「最初はみんなそうらしいわよ。でも慣れてくると快感になるんですって」


 次第に、それが欲しくてたまらなくなる。身も心も満たされ、麻薬のように依存していく。


「この感覚は癖になるんですって。カルロスもよく言ってるわ。それをまだ知らないなんて、可哀相な子」


 言いながら、エレナが徐々に詰め寄ってくる。危機感を感じ、ティティーヌはたじろいだ。


「私が教えてあげてもいいのよ? 女同士だからって、血を飲めないわけじゃないんだから。ねえ? ティティーヌ」


 人形のように整った精巧な顔が、ゆっくりと近づいてくる。

 目が逸らせなかった。金縛りにでも遭ったかのように、体が動かない。

 視界の端でうろたえているキティに助けを求めようと思っても、声が出なかった。


「怯えちゃって、可愛い子ね」


 優しく頬にキスをされる。濡れた音と共に離れたエレナの唇が、肌を伝って首筋を下りていった。


「そんなに緊張しないで。私は吸い慣れてるから、安心して任せていいのよ?」


 痛くなんてしないからと、言われても緊張せずにはいられない。


「悪ふざけが過ぎるよ。エレナ」


 リュシアが呆れた様子で現れた時には、考えるよりも先に体が動いていた。彼の元に駆け寄り、夢中になってしがみつく。


「残念。もう少しだったのに」


 悪びれもなく舌を出して肩をすくめるエレナに、リュシアンはため息をこぼした。


「サーガといい、ティティーヌといい、見境なく手を出すのは君の悪い癖だ。カルロスに見限られるぞ?」


 女性に対しては常に紳士な彼から忠告を受けたとしても、エレナはけろりとしていた。


「心配ないわよ。カルロスは私の虜だもの。熱が冷めるなんてあり得ないんだから」


 自信たっぷりに断言し、彼女は立ち上がる。


「リュシアンが来てしまったんじゃ今日はもう無理ね。また出直すわ」


 すれ違いざまに指先で背筋を撫でられ、ティティーヌはびくりと肩を弾ませた。


「エレナ」


 リュシアンが強めの口調で叱る。彼女は笑いながら出て行った。

 扉が閉まったのを確認し、リュシアンは再びため息をついた。


「キティからフランクを通して連絡を受けたんだが、来るのが遅かったようだ。悪かった」


 ティティーヌはリュシアンの服に顔をうずめたまま、短く頭を振った。

 涙目ですがりついてくる姿に、リュシアンは微笑んで優しく頭を撫でた。


「ソファーに座ろう。歩けるかい?」


 尋ねると、顔を上げたティティーヌが引きつった笑いを浮かべた。


「……動けない」


 少しでも動かそうものなら、膝が笑って崩れ落ちてしまいそうだった。


「失礼するよ」


 察したリュシアンは、昨日のように軽々とティティーヌを抱きかかえる。

 間近に彼の顔が迫り、ティティーヌは恥ずかしくて顔を伏せた。ソファーに下ろされても、彼の顔を直視できない。


――とっても気持ちいいんですって。まるで男女の営みの時みたいに。


 一度考え出したら最後、自ら墓穴を掘っていく自分を止められなかった。

 頭の中は昨日のことを始め、エレナの言葉や自らリュシアンに抱きついてしまったことまで、鮮明に映し出されて収拾がつかなくなっていく。


(なんてことを)


 してしまったのかと自分を責めても、どうしようもなかった。

 リュシアンは当然、ティティーヌがそんなことを考えてるなど知りもしない。


「危うく禁断の世界に引き込まれるところだったな」


 軽い口調で言って、彼はくすりと笑った。

 ティティーヌは一度、ゆっくり深呼吸をした。胸に手を当て、肩の力を抜こうとする。


「エレナさんが……、ああいう人だとは思わなかったわ……」


 動揺してリュシアンから目を逸らしつつも、なんとか言葉を吐き出した。


「彼女は同性愛者ではないんだがね、調子が良すぎるのが欠点だな」


 少し快楽主義の傾向が強いのだと言われ、心から納得してしまった。

 誰彼かまわず、性別さえもこだわらず手を出す神経は、とても普通とは思えない。

 しかし、そこまで考えてティティーヌは、再び硬直する。


「それじゃあ、もしかして……、リュシアンも……」


 彼女の犠牲に?

 思ったとたん、余計に彼を見られなくなってしまった。

 恐ろしい予感に身を強張らせるティティーヌに、隣でリュシアンは軽快に笑う。


「妬いてるのかい?」

「そ、そんなんじゃないけど……」

「もし、そうだと言ったら?」

「…………え?」


 脳裏には、それこそ禁断の世界がありありと浮かんで繰り広げられていく。

 カルロスと愛し合うエレナ。サーガと睦み合うエレナ。リュシアンとじゃれ合うエレナ。エレナ。エレナ。エレナ……。


(どうかなりそう……)


 全裸で絡み合う男女の姿ばかりが頭に浮かび、泣きたくなってしまった。


「ああ、ティティーヌ。悪かった。そんな顔しないでくれ」


 優しく抱き寄せられ、よけいに追い詰められていく。両手で頬を挟んで顔を向けられ、穏やかな彼の表情が目に入った。


「あの……」


 部屋の空気が、昨日の時と同じものに変わっていく。


「誤解しないで。俺とエレナはあくまでも友人だ」

「わ、分かったから……」

「本当に?」

「本当、に……」


 だからこの手を離して欲しい。もう、これ以上は眩暈がして、今にも気絶してしまいそうだった。


「良かった」


 耐えられないというのに、リュシアンは嬉しそうにティティーヌを抱き締める。彼の体から甘い薔薇の香りがして、正常な思考を奪っていった。


「ティティーヌはいい匂いがする。ずっとこうしていたくなるな」


 いい匂いがするのはむしろあなたの方だと、言いたくても言えない。


(キティ。キティ助けて)


 唯一の希望を抱き、目を泳がせつつ彼女の姿を探したが、なぜか視界に入らなかった。いつも控えている場所に、彼女がいない。ティティーヌ以外の人が部屋にいる時は、決まってソファーの傍らに控えているのに。


(いない?)


 彼女は室内にいなかった。なぜいないのか。いついなくなったのかも分からない。リュシアンが人払いをしたわけでもないのに。……いや、言葉にはしなくとも、ティティーヌが気づかないうちにリュシアンが視線や仕草で追い出していたのかも知れない。部屋には今、ティティーヌとリュシアンの二人きりだった。

 昨日のように。


「……っ……、リュシアン……」

「なんだい?」

「は、放して……」


 今にも壊れてしまいそうで、切実に願った。なのに。


「嫌だと、言ったら?」


 彼の方はすっかり落ち着いていて、ティティーヌの反応を楽しんでいるようにさえ見える。


「もう、からかうのはいい加減に……」

「からかってなどいない」


 少しだけ強めの口調で遮られ、ティティーヌはようやく彼を見上げた。切れ長な目が真摯な眼差しで見つめ返してくる。何かを求めるような、すがるような彼の表情に、ある予感がした。


「……血が、欲しいの?」


 確かめるべく言葉にしてみると、彼の目が穏やかに細められる。そして更にティティーヌを抱き締めると、細い首元に顔をうずめた。

 ティティーヌはごくりと喉を鳴らした。傷痕が残るその首筋に、リュシアンが口づけた。


(まさか)


 このまま血を飲まれるのかと、不安がよぎって体がこわばっていく。

 しかし、血をあげるのは月に一度。ヴィドックがいる時のみと約束したはずだ。

 必ず守ると、昨日も彼は念を押して言ってくれた。


(リュシアンに限ってそんなことは……)


 約束を破るなんてあり得ない。強く心に思う一方で、ヴァンパイアの血への執着を考えると確信しきれない自分もいた。


(まさか)


 緊張のあまり、喉がからからに渇いて息苦しくなってくる。恐怖から固く目を閉じたティティーヌの耳に、彼の甘い声が入ってきた。


「いつだって血は欲しいよ」


 ささやいて、再び首筋に口づけを落とす。


「だが約束は守る。言っただろう?」


 とろけるような彼の声が、耳元で肌をくすぐった。


「約束は守るが……、まったくあなたに触れられないのは辛い」


 辛い時は素直に言う。これも昨日聞いた。

 それはこういうことだったのかと、初めて気づいたティティーヌを、再びリュシアンの艶めいた眼差しが捉えた。


「これくらい見逃してくれないか?」


 間近で互いの目が合った。

 吸い込まれるような深い闇の瞳に、ティティーヌ自身が映っていた。

 鼻先が触れ合い、心臓の鼓動が速まっていく。今にも唇が触れそうだった。


「……っ……、これくらいって……」


 震える声でなんとか尋ねると、彼の口角が形良く上がる。

 視界で彼が動いたと思った直後、濡れた音が耳に響いた。

 先ほど口づけられた首筋に、彼が吸いついている。しかし歯は立っていない。


「リ、リュシア……」


 思わず彼の肩を掴んだ。その両手に力が入り、小さく震える。

 対するリュシアンの腕は、ティティーヌの背中にまわって包むように抱き締めていた。

 薔薇の香りが鼻をくすぐる。静かな室内に、濡れた音が響いていく。

 夢中になって血を飲む真似事を続ける彼は、母親から母乳をもらう赤ん坊のようだった。

 吸いつかれた首筋から、熱が広がっていく。


「待っ……て……」


 息も絶え絶えで言ったティティーヌの声に、リュシアンは素直に動きを止めた。


「……嫌?」


 また間近で、すがるような眼差しを見せる。

 捨てられた子供のように。

 ずるいと思った。

 ティティ-ヌはすでに、残酷とも言える要求を彼に呑んでもらっている。異常なほど血に憑かれているヴァンパイアに、血の制限を。そのせいで彼は苦しんでいるのに、これ以上わがままを言えるわけがない。


「触れるだけでも駄目?」


 決して、歯は立てないから。

 リュシアンの訴えかける視線と言葉が、ティティーヌの心を追い詰める。

 分かっている。更なる制限なんて強要できない。でもそれでは、まるでその行為は……


「本当にそれで……、気を紛らわせるの……?」


 考えを言葉にはできず、消え入りそうな声で尋ねた。言葉にできるはずがない。


 まるで愛し合う恋人のようだなんて。


 リュシアンが真摯にうなずくのを見て、ティティーヌはうつむいた。もう彼の顔を見ていられなかった。


「……ありがとう」


 察したリュシアンが微笑む。

 すでに赤い印がついた首元を愛おしそうに見つめた彼は、更にくっきりさせようと口づけた。


「……っ……」


 ティティーヌの口から漏れた息が、耳に吹きかかる。

 卑怯な自分から目を逸らし、リュシアンは彼女に浸った。

 抱いている愛情を隠し、食欲にすり替えて彼女の良心につけ込むことで、こうして少しでも彼女を手に入れようとしている卑怯な自分。ティティーヌの弱みを知りながら、それに甘えようとする姑息な自分に気づいてはいたが、彼女を目の前にして抑えることは難しかった。

 血を吸う気分を味わっているように見せて、リュシアンはティティーヌを愛撫した。


「んっ……」


 彼女の乱れた息遣いを感じながら、自分の息も荒くなっていることに気づいていた。だがこれ以上はできない。それがひどくもどかしくて、更に貪りついた。震える彼女を安心させようと髪を撫でてやる一方で、そんな彼女の反応に更に欲情してもいた。

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