月夜の遭遇2
「お嬢様が、お目覚めになられました」
優雅にワインを飲みながら、フランクの報告を聞いた。人の血よりも黒みを帯びた年代物の赤ワインだった。
「傷がひどいため、声を出すのが困難なようですが、命は取り留めたようでございます」
「そうか。様子はどうだ?」
「ご家族を失い、泣き暮れております」
「……分かった。午後には俺も行く。引き続き看病を頼む」
「畏まりました」
恭しく頭を下げてフランクが去ると、リュシアンは静かに息をついた。
彼女が助かったことは、報告を聞かずとも分かっていた。屋敷に連れ帰ってからも、ずっと甘い匂いが漂っているのだ。そのせいで、下働きのミックス達が浮き足立っている。相手が相手だけに、飢えた奴らに看病させることはできなかった。いつ抜け駆けして手を出すか、分かったものじゃない。そこで、信頼できるフランクに任せたのだが、この匂いには正直自分も参っていた。昼も熟睡できず、今でも瞼が重い。
ただでさえ、近年は血が欠乏している。人間の食事で何とか栄養を補充してはいるが、主食が欠けた食事はいつも物足りなさを感じていた。ワインで気を紛らわしても、この欠如感は満たされない。間に合わせに獣の血を飲んだこともあったが、やはり人間の血に勝るものはなかった。あの濃厚で滑らかな喉越し。口にした日はいつになく気分が高まり、体も軽くなる。ヴァンパイアの体に最も適しているのだ。中でも、若い女の血は極上だった。
彼女を前にし、正気を失って食いつこうとしたアンリの気持ちもよく分かる。しかし、彼のような子供ならまだしも、一人前のヴァンパイアである自分まで理性をなくして貪ることはできなかった。
「いつまでもつだろうな」
呆れた様子で言いながら、部屋に入ってきたのは親友のヴィドックだった。ソファーにもたれていたリュシアンは、ちらりと彼を一瞥してワインを口に運んだ。
「俺のことか? それともお前のことか?」
皮肉を込めて言い返すと、彼はおかしそうに笑った。
「生憎、お前達ほど俺は血に飢えていない」
負けじと皮肉を返され、リュシアンは小さく鼻を鳴らした。確かにそうだろうと、密かに納得する。ヴィドックは人狼だ。彼が求めるとするなら、血よりも肉だろう。彼らは人間に固執していない。むしろ人間が飼っている家畜の方がご馳走だ。ヴァンパイアの中には、それを野蛮だとか品がないなどと罵る者もいるが、リュシアンは人狼を受け入れていた。ヴァンパイアにはヴァンパイアの、人狼には人狼の習慣や好みがあるのだ。
「ミックスのことだ。目の色が変わってたぞ」
「フランクをつけてある。奴らに手は出せんだろう」
答えながら、リュシアンは残りのワインを飲み干した。血が飲めない代わりに飲んでいるものだが、これを飲むと余計に血が欲しくなる。悪循環だった。
「同族にも気をつけろ」
付け足された言葉に、リュシアンは真顔でヴィドックを見上げた。
「ここ数日、アンリも落ち着きがない。他のヴァンパイアもこのことが知れれば、大人しくはしていないだろう」
「……確かにな」
人間を手に入れたヴァンパイアが、同族に襲われる事件は決して珍しくない。特に若い女というのは希少なのだ。手に入りにくくなったこの時代では、『契約』を交わした女でも狙われて食い殺された例がいくつかある。
「この匂いは厄介だな。早く傷が塞がってくれないと、すぐによそにバレてしまう」
アンリなら、まだフランクも抑えられると思うが、万が一ということもある。他のヴァンパイアも、目をつけられれば厄介でしかない。貴重な食料だ。易々と譲ってやる気はなかった。
「彼女の護衛を頼めるか? もし何か起きた時、お前もいてくれると心強い」
フランクに加え、人狼の次期頭首であるヴィドックもいるとなれば、相手が同族であろうと簡単に手出しはできないだろう。
「そう言うだろうと思った」
ヴィドックはにやりと口元を歪めて笑い、ひらひらと手を振って踵を返した。その背中に、短く言葉を投げる。
「午後には俺も顔を出す」
彼は振り向かずに答えた。
「ああ。先に行ってる」
このまま彼女のところに直行するらしい。やるとなったら即行動だ。いつでも頼もしい男だった。
◇◇◇
「今日から護衛をすることになった、デュ・シェーヌ・ヴィドックだ」
落ち着いた太い声で話す彼の声を、ティティーヌはぼんやりと聞いていた。家族を失った傷は深く、心がひどく空虚に感じられた。普通なら尋ねることも多く浮かぶのだろうが、悲しみに支配された頭にはまともな疑問も浮かばない。
「ティティーヌ、です……」
かろうじて、自分の名前だけは告げた。気持ちは少しずつ落ち着いてきたが、今でも思い出すと涙が込み上げる。そんなティティーヌの心情を察し、ヴィドックはあまり言葉を発しなかった。スツールを動かして傍らに座り、腕組みをして黙り込む。目を閉じ、そのまま眠ってしまったように思われた。しばらく、静かな時間が流れていた。ティティーヌも声をかけずに目を閉じる。喉も痛いし、話す気分ではなかった。
(父さん、母さん、アドリアン……)
頭の中は、家族のことしか浮かばない。目を閉じていても、目頭が熱くなって涙が溢れてしまう。流れ落ちる涙は枕を濡らし、冷たい感触が更にティティーヌの心を締め付けた。高い体温よりも、切り裂かれた首の傷が熱く疼いていた。
死ぬのは怖かった。でも一人残された今となっては、あのまま死んでしまいたかったと思ってしまう。自暴自棄になっていることは分かっていたが、どうにもできなかった。
(それでも私は生きている。私だけが……)
痛みをこらえて鼻をすすると、不意にヴィドックが目を開けた。泣いている自分に対するものかと思ったが、間もなく部屋の扉が開いて、フランクが入ってきた。
「お食事をお持ちしました」
大きなトレイに、豪華な食事が並べられている。焼き立てのパンや、半生の肉の匂いに吐き気が込み上げた。
「食欲が……ないの……」
やっとの思いで告げると、フランクはトレイを近くのテーブルに置き、にっこりとティティーヌに微笑んだ。
「そうではないかと思いまして、スープをご用意致しました。他の料理はヴィドック殿の分です。起き上がれますか?」
スープだけでも飲む気がしない。このまま起きられないことにしてしまおうかと思った時、太い腕がティティーヌの首の下に通された。ヴィドックの精悍な顔立ちが間近に迫り、一瞬息を呑む。見慣れない銀色の短髪が美しかった。
「起こしてやる」
彼は一言言うと、もう一方の手で布団をめくり、ティティーヌの体をそっと起こした。一度横抱きに抱き上げると、器用に枕を動かして背もたれになるように優しく下ろしてくれる。初めての経験に心臓が激しく脈打ち、一気に体が紅潮した。
「ありがと……」
呆然とつぶやくと、彼は小さく口元を上げる。目が穏やかに細められ、とっさに目を逸らしてしまった。そこに、フランクからスープが差し出される。
「どうぞ。具はすり潰し、喉に良い薬草を入れさせました。飲み込む際は痛むかも知れませんが、お怪我にはとても良いものですので」
ここまでしてもらっては、もう断ることもできないとあきらめた。おずおずと器を受け取り、あまり顔を動かさないよう慎重に口へと運んでいく。
「っぐ……!」
「ティティーヌ? 大丈夫か?」
やはり痛かった。すぐにヴィドックがやってきて、ティティーヌの顔をのぞき込む。汗が浮き出た額に気づくと、服の袖でそっと拭ってくれた。まるで親が子供の面倒を見ているようで、ティティーヌは弱々しく苦笑した。
「首の傷ってのは厄介だな。栄養をつけるにも、これじゃあまともな食事もできない」
「そうですね。ですが少しでも飲んで頂かないと、お体ももちませんし……」
二人の男が難しそうな顔をする前で、ティティーヌはゆっくりと息を吐く。包帯が巻かれた首にそっと手を当て、痛みをこらえて微笑んだ。
「ありがと……、大丈夫……」
掠れた声で短く話し、再びスープに挑戦する。食欲はなくとも、彼らにこれ以上心配をかけたくはなかった。見ず知らずの自分に、ここまで尽くしてくれる人なんてなかなかいない。よほど裕福で、気持ちに余裕があるのかも知れないが、だとしても親身になってくれる彼らの気持ちは、ありがたかった。彼らの存在は、傷ついた心を優しく癒してくれていた。
時間をかけて、ゆっくりスープを飲む。その度に喉に激痛が走り、顔が歪んでしまう。やっとのことで飲み込むと、ため息がもれた。二人の男達は、少しだけ真顔でその様子を見つめた後、フランクはにっこり微笑み、ヴィドックは自分の食事に戻っていった。
なんとかスープを飲み干した時には、ぐったりと疲れていた。脂汗が噴き出し、少し出血している気もする。首の強い痛みが頭に響き、頭痛まで感じていた。耳元に心臓が移動したかのように、自分の心音が大きく聞こえる。
「包帯を換えた方が良さそうですね」
「ああ。血の匂いが強くなってる」
ティテーヌの様子を真顔で見つめながら、男二人は言葉を交わす。
(血の、匂い…?)
自分には分からなかった。それよりは、先ほどの食事の匂いの方が強く感じられる。部屋の空気が淀んでいるような気がした。
「換気を……」
して欲しいと言おうとしたら、ヴィドックがティティーヌの言葉を遮った。
「今は窓を開けない方がいい。自ら敵をおびき寄せることになる」
ティティーヌは浅い呼吸を繰り返しながら、不思議そうに目を瞬かせた。
(敵?)
話が読めない。彼の言葉の意味が理解できず、一人で考えた。
どういうことだろう。一人だけ生き残ったティティーヌを、あの暴徒達が探してるんだろうか。こんな狂った世の中だ。反逆者の一人として狙われても、充分おかしくはないと思えた。だとしても、窓すら開けられないというのは大袈裟ではないだろうか。
考えているうちに、フランクは新しい包帯を取りに部屋から出て行った。窓は閉められたままだ。そして彼が出て行った数分後、更に別の男が現れた。屋敷の主だと、ヴィドックが教えてくれた。
漆黒。という言葉が相応しい黒髪は艶やかで、青白く肌理細やかな肌をしていた。間近で見なくとも分かる美肌だ。痩身だが弱々しさはなく、姿勢良く佇む姿は凛々しくも見える。切れ長な目は鋭利な刃物を思わせたが、黒い瞳を収めた眼差しは優しかった。
この世には、こんなにも美しい男がいたのかと、呆然とした。
「初めまして、お嬢さん。私がこの屋敷の主、リュシアン・ウィケットです」
小さく微笑んで礼をとる姿は優雅で。
女なら誰もが見惚れるような、妖艶な雰囲気をまとった美しい紳士だった。




