淡 恋2
屋敷に着いた彼女は、手厚い歓迎を受けた。
使用人達にかしずかれ、薔薇の花びらが浮かぶ広い風呂で汚れを落とし、高価な衣装を与えられた。リュシアンの付き添いで食堂に行くと、長いダイニングテーブルに見たこともないような豪華な食事が並べられ、その先では気品溢れる紳士と淑女がにこやかに佇んでいた。リュシアンの両親だ。舌がとろけるような食事を堪能しつつ、彼らと優雅な時間を過ごした後は、自宅の敷地よりも広い個室を与えられ、リュシアンと二人きりになった。熱心に口説かれ、彼女はすっかり酔いしれた。
贅を尽くした貴族のような暮らし。美しく、華やかな人達。愛の告白をしてくる美青年。
この誘惑を拒むことはできなかった。彼女はリュシアンを受け入れ、朝方まで愛し合ったのだ。雨がやみ、再び日が暮れてきても、帰りたいという言葉は出なかった。リュシアンは完全に彼女を手中にした。このことを報告すると、両親は誇らしそうに喜んでくれた。リュシアンも素直に喜び、遊びに訪れたヴィドックに紹介し、クレイには自慢した。それによってクレイがどんな行動に出るかなど、考えもせずに。
まさかリュシアンの目を盗み、彼女に近づくなんて。
気づいたリュシアンは嫉妬に狂い、強引に彼女を自室へ連れ込んだ。ヤケになって、彼女の血を飲んだのだ。しかし口をつけたが最後、歯止めが利かなくなってしまった。
味わったことのない感覚に包まれ、全身から力が湧き上がってくるのに、気持ちは穏やかで落ち着いていた。その間も、彼女の血を絶えず飲み続けていた。途中、誰かの声を聞いたような気はするが、あまりにも遠く、何を言っているのか分からなかった。腕を掴まれたが振り払い、かまわず飲み続けた。誰にも邪魔をされたくなかった。誰にも奪われたくなかった。彼女を心から愛し、ひとつになりたいと願った。そして意識を失った。リュシアンは自我を失い、暴走したのだ。同時に、彼女は息絶えた。
暴走するリュシアンは、両親でさえ止められなかった。屋敷の一部が破壊され、ミックス達が襲われていた。鍛えられたコウモリ人間も、まったく歯が立たなかった。なんとかヴィドックが持ち前の速さで捕らえようとしたが、その時新たな奇声が傍らで轟いた。
クレイだった。
血走った目で、リュシアンの父親に襲い掛かっていた。リュシアンの母親をたぶらかし、血を飲んだのだ。暴走した二人のヴァンパイアは衝突し、激しい戦いが繰り広げられた。もうヴィドックにも、どうすることもできない。二人が相打ちの末倒れた時には、多くの死体が辺りに転がっていた。リュシアンによって一人の人間が死に、クレイによってリュシアンの両親が死に、二人によって下働きの者達にも犠牲が出ていた。
後に、クレイは言った。
――全ては、君を止めるためだったんだよ。
そのためには自分も血を飲むしかなかった。しかし人間は他にいない。だから代わりにヴァンパイアの血を飲んだ。結局、大量の血を奪ってリュシアンの母親を死なせ、父親を殺してしまったわけだが、それも一重にリュシアンのためにしたことだったと。クレイは、人懐こい笑顔を浮かべて、平然と言い切った。
当然、リュシアンが納得できるはずもない。
そもそも、ヴァンパイアの規則には『契約』を交わした人間を横取りしてはいけないというものがある。契約とはすなわち、男女の契りを交わすことを意味し、身も心も許した人間は、対象者のものとなる。その人間の血を他のヴァンパイアがもらうには、必ず持ち主の許可を得なければならないという決まりだ。当時、リュシアンは彼女を愛し、契りを交わしていた。それを知ってて手を出したクレイが許せなかった。
そして状況は、ヴィドックがもう少しでリュシアンを捕らえるところまできていたのだ。一度捕まえてしまえば、血の効果は長く続くものじゃない。いずれリュシアンは落ち着き、正気を取り戻すことは明らかだった。クレイが血を飲む必要はなかったのだ。にも関わらず禁忌を犯し、無駄な犠牲を増やし、リュシアンの両親は命を落とした。
この一件で、リュシアンとヴィドックの心には、彼に対する不信が生まれた。しかし契約を交わしたことで安心し、人間不足の時代に他のヴァンパイアに自慢したリュシアンも浅はかだった。クレイだけを悪者にはできない。血を飲んだのはリュシアンのためだったという彼の言葉も、否定できなかった。
そして時は流れ、ぎこちないまま三人の関係は続いていた。
◇◇◇
過去の失態は、若かったという言葉では片付けられない。現に今も、血にとり憑かれているのだから。
「俺もクレイも……、血の魔力に翻弄された。今回もそうだ。こうなることは目に見えていたのに、俺はあなたを連れ帰り、危険に晒した」
一歩間違えば、同じ過ちを再び繰り返すところだった。おそらく一生、ヴァンパイアが血の呪縛から逃れることはないだろう。それが分かっていても、
「本当にすまない」
リュシアンは深々と頭を下げた。謝ることしかできなかった。
対するティティーヌは、静かに口を開く。
「……クレイも、あなたとの過去を私に話したわ」
この屋敷から連れ去られ、目覚めたティティーヌに彼は言った。
「話しながら……、寂しそうに微笑んでた」
もう無理なんだと。どうしようもないんだと、あきらめの表情を浮かべていた。
どこまでが芝居だったかは分からないけど、少なくともあの表情は本物に見えた。
それすらも彼の術によるものだったかも知れないけど。
でも。
本当の彼は寂しかったんじゃないだろうか。
「あなたもクレイも……、責める気はないわ」
きっと、彼らが血に狂うのは本意じゃないと思うから。むしろ彼らも、苦しんでるんだと思うから。
「俺はこれからも……、あなたを危険に晒してしまうかも知れない。あなたを前に、必ず自制できるかも分からない」
「それでも、リュシアンを恨むことはないわ」
自信のなさを打ち明ける彼に、ティティーヌは微笑んだ。
「不安なら、こうしましょう。私の血を飲む時は、ヴィドックにも傍にいてもらうの。あなたを止められるのは彼くらいでしょう? 止められる人が傍にいるなら、私も安心して血をあげられるし、あなたも心配なく血を飲める」
「それは……」
確かに、それも解決策のひとつだった。しかしリュシアンは、すんなり受け入れられずに言葉を詰まらせた。ティティーヌは無垢な眼差しで微笑んでいる。後ろめたい気持ちに駆られ、彼女を直視できずに目を逸らした。そんな風にヴィドックを頼る彼女への嫉妬と、こんなことで嫉妬を感じてしまう醜い自分に嫌気が差して。
恋愛を抜きにしても、彼女の提案には筋が通っている。リュシアンを止められる一番確実な人物がヴィドックだということは事実だ。彼に協力を求めようとするのは不思議じゃない。ティティーヌは、うまく共存していくためにより良い対策を考えようとしてくれているのだ。
「……そうだな。あいつにも相談してみよう」
努めて冷静に言葉を返すと、彼女は穏やかにうなずいた。心に引っかかるものを感じながら、リュシアンはそれからも目を逸らした。
「ここでの生活についても、あなたが部屋から出られる方法を考えてみるよ」
言いながら立ち上がり、礼をとって踵を返す。
「リュシアン」
部屋から出ようとしたところで、彼女に呼び止められた。
振り返ると、ティティーヌが優しく微笑んでいた。
「あなたに拾われなければ……、私はきっと助からなかったわ」
たとえ血をもらうためだとしても、危険を承知で連れ去ったのだとしても。
日々人間の生活を脅かしている妖魔だとしても、救ってくれたことは事実だ。
そのお陰で、ティティーヌは今生きている。
「私の首は……、すぐには治らない。恩返しも、まだ何もしてないし。少なくとも……、助けてもらったお礼くらいは、させてもらいたいと思ってるのよ」
でなきゃ故郷には帰れない。
一度戻ってしまったら、もう二度とここには来られないだろうから。
「こうして守ってくれて、私のことを尊重してくれて、感謝してるわ」
改めて告げると、リュシアンがようやく笑顔を見せた。
「お互い様だ」
俺もあなたには感謝していると、軽い口調で言って彼は出ていった。
再び部屋に一人になり、ティティーヌはベッドの天蓋を見つめてため息をこぼす。
手が、かすかに震えていた。
ヴァンパイアがどういう生き物なのか、初めて分かった気がした。本人も認めるように、彼らの血に対する思いは尋常じゃない。限りなく狂気に近い執着を目の当たりにし、恐怖に呑まれてしまいそうだった。
だからといって、リュシアンが怖いわけじゃない。怖いのは、血を吸われることだ。それによって死ぬ危険があるということ。血に飢えるあまり、襲われることはないのか、新たな敵に見つかって狙われはしないか。可能性としていくらでも起こり得ることに、恐怖を感じずにはいられなかった。
それでも、故郷には帰れない。
怪我が治らない限り、まともに動くこともできないし、ここの人達にも、世話になるだけなって、何もせずには帰れない。
ティティーヌは震えを止めようと手を握り締め、布団の中に押し込んだ。
今頃、実家はどうなっているんだろうか。
懐かしい故郷に思いを馳せ、平和で穏やかだった過去の思い出に浸ることで、気を紛らわそうとした。
近所の人達はどうしてるだろうか。
向かいの家に住むおばさんは世話焼きで、見合い話ばかり持ってきた。
その時は煩わしいと思ったが、なくなった今となっては少し寂しい。
両隣に住む家族とも交流は深く、中でも年が近い男友達とは親しかった。
面倒見のいい人で、よくティティーヌの弟と遊んでくれた。
同じ町の女友達とは、恋愛話をして盛り上がったものだ。
顔馴染みの人達も、気さくでいい人ばかりだった。
昔のことを考えると、自然と気持ちが落ち着いていく。当時を思い出して温かい気持ちに浸った。しかし、最後には現状を思い知らされ、人知れず自嘲した。結局、その場逃れの現実逃避でしかないのだと。
そこへ、部屋の外から人の話し声が聞こえ、ティティーヌは顔を動かした。廊下の方から、男の低い声がかすかに聞こえる。
(この声は)
聞き覚えがあると思った時、扉が開いた。入ってきたのはヴィドックだった。扉が閉まる瞬間、ほんの一瞬だけフランクらしき老人の後ろ姿が目に入る。ヴィドックが人払いをしたのだと分かった。
先程までリュシアンが座っていたスツールに、彼がゆったりと腰を下ろす。
少しよれた感じの白いシャツに、銀髪がよく映えていた。
「久しぶり……かしら?」
自分を皮肉って言えば、彼が鼻を鳴らして笑う。
「よく寝ていたようだな」
穏やかに目が細められ、ティティーヌも微笑んだ。
「体調はどうだ」
「大丈夫よ……。ヴィドックは?」
「問題ない」
和やかに言葉を交わしながら、ティティーヌは彼に釘付けだった。襟元から、少しだけ包帯が見えている。あまり無理はできないと、リュシアンが言っていたのを思い出して彼の状態を察した。
「痛みは……?」
「もうほとんど治ってる。心配するな」
困ったように笑われ、ティティーヌも苦笑した。
「ごめんなさい。つい……」
彼の姿を見たら、本当に大丈夫なのか気になってしまったのだ。自分だって人のことは言えないのに、すっかり忘れて人の心配をしていたなんて、なんだか情けない。それでもティティーヌの視線は、一度もはずれることなくヴィドックへと注がれた。
無造作な髪型だが、美しい銀髪だった。貫禄を感じさせる落ち着いた雰囲気。男らしい眉に優しい眼差し。太い首や厚い胸板。ゆったりと構えるその姿勢。胸元で組まれた逞しい腕。
「……どうした」
鋭く気づいた彼が、淡々と問いかける。
「なんでもないわ」
慌てて笑顔を繕い、誤魔化そうとした。
しかし真顔で見つめられ、気まずさを感じて目を逸らす。
「なんでも、ないの……」
気にせず流してくれればいいものを、そんな顔で見つめられると、心を見透かされるようで苦しかった。彼は無言なのに、目に見えない何かが取り繕った笑みを剥がしていく。向けられる眼差しに耐えられなくなる。次第に笑顔が崩れ、枕に突っ伏した。ヴィドックが無言で立ち上がり、軋んだ音を立ててベッドに座る。大きくて温かい、無骨な手がティティーヌの頭を撫でた。
「ごめ……なさ……」
絞り出した言葉は途切れ、声が震えた。
撫でてくれる彼の手を握り、そっと頬を寄せる。
「あなたが無事で……、良かった……」
心から告げると、指先で涙を拭われた。
この手に触れたいと思っていた。温かいこの手に、触れて欲しいと思っていた。
「よく、耐えたな」
低くて落ち着いた声が、耳に心地良く入ってくる。張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
ずっと、怖かった。
家族をなくし、何も知らないここに来て、アンリに襲われ、みんなの正体を知った。慌しく地下牢に隠れ、クレイに迫られ、操られ、血を吸われ。それでもここまでこれたのは、
「ヴィドックが……、支えてくれたから……」
誰よりも気にかけてくれたから。
この人なら信じられた。ティティーヌは彼を見上げ、泣き笑いを見せた。
ヴィドックは何も言わず、かすかに口元を緩める。
この人こそが、ティティーヌの気持ちを理解してくれた。
欲しかった言葉をかけ、心を救い、危機が迫れば必ず助けてくれる。
自分でも気づかないうちに、彼を心の拠り所にしていた。
「ありがとう……」
涙が次から次へと溢れ、彼の手まで濡らしていく。なのに放すことができなくて、必死にすがりついた。
この人さえいてくれるなら、呑み込まれそうなほどのこの恐怖も耐えられる。
彼がいてくれるなら、きっとこれからも乗り越えていけるだろう。
それほど、ティティーヌにとってヴィドックの存在は大きかった。
泣きながらすがるティティーヌの頭上から、彼の落ち着いた声が降ってくる。
「リュシアンと、話したようだな」
不意に話しかけられ、ティティーヌは涙目のまま見上げて微笑んだ。
「話……、彼から聞いた……?」
「ああ。血の供給は月に一度でいいか?」
尋ねられ、目尻を拭いながら素直にうなずいた。
「私はそれでいいけど……、リュシアンは平気かしら」
不服があるとしたら、彼の方だろう。血をあげる側としては、少なければ少ないほどいいが、血をもらう側は逆なのだ。はたして彼が、月に一度で耐えてくれるだろうか。
心配の色を浮かべると、ヴィドックが鼻を鳴らして答えた。
「俺もこれ以上頻繁に来るのは難しい。奴には納得してもらうしかないだろう」
当然のことのように言われた言葉に、ティティーヌは目を見開いた。
「…………え?」




