淡 恋1
「まだか……」
夜も更けて星の輝きが増した頃、リュシアンは眠るティティーヌを見つめてため息をこぼした。クレイとの一件から、すでに三日が経っている。屋敷に戻った翌日には完治した自分に対し、彼女は死んだように眠り続けていた。依然として顔色は悪く、首の傷も治っていない。だが出血は止まっているらしい。戻った翌日はかなり強かった血の匂いが、今はそれほどひどくない。ずっと安静にしているお陰で、首の傷口も少しはふさがり始めているらしい。鼻をくすぐるような甘い匂いに目を細めはしたが、食欲は湧かなかった。少しずつ回復の兆しは見せているのに、一向に目覚める気配がなく、ため息ばかりがこぼれてしまう。
後をフランクに任せて部屋を出ると、その足でリュシアンはヴィドックの元に向かった。軽く扉をノックして入ると、ベッドに横たわっていたヴィドックが静かに目を開けた。
「あいつは起きたか」
彼が気安く呼ぶ『あいつ』というのは、もちろんティティーヌのことだ。
リュシアンは肩を落として頭を振る。
「そうか」
ヴィドックは短く答えただけだった。
「お前の調子は?」
「問題ない。あと二、三日も休めば完治する」
あばらの骨折に全身打撲、加えて大量の出血をしていたヴィドックでさえこの調子だ。人間とはなんて弱い生き物だろうと、思わずにいられなかった。
別に、妖魔の類全てが強いわけじゃない。ヴァンパイアや人狼は突飛した回復力を持っているが、メデューサは人間と変わらない。だが相棒の蛇や、見たものを石に変える能力など、他の種族と充分対抗できる力は持っている。
それに比べ、人間は身を守る力もない。特別な能力は何もなく、回復力も遅い。少し力を加えれば、簡単に死んでしまうのだ。
今回のことも、その場で死ぬことはなかったが、出血多量でこのまま目覚めないんじゃないかと危惧したほどだ。きちんと手当てをし、もう大丈夫だと分かっても、自らの目で確かめなければ完全に安心することはできなかった。
いつになったら万全な状態になるのかと、気持ちは日に日に重くなっていく。沈んだ気持ちに拍車をかけるように、外はしとしとと雨が降り出していた。窓から雨雲のかかった夜空を見上げるリュシアンに、ヴィドックが唐突に切り出す。
「お前は、本当にあいつをここに置くつもりか」
分かりきったことを聞くものだと、リュシアンは鼻を鳴らしながら振り向いた。
「何を今更」
彼女を手放す気など、欠片もない。
「だがここにいる限り、あいつは常に今回の様な危険に脅えて過ごすことになる」
外に出るどころか部屋からも出られず、監禁と変わらない。顔を合わせる相手は一部に限られ、護衛という見張りが常についている。窓すらも開けられず、いつ敵にバレるかと脅えながら過ごす日々は、あまりにも過酷だ。
「家畜ではなく、人として扱うなら、今の状況は問題だろう」
「……分かってる」
それはリュシアンも考えていたことだった。ティティーヌをただの食料だなんて思っていない。連れ帰ったきっかけはそうだったとしても、今は違う。彼女を家畜になどしたくないのだ。なのに現状は、部屋に監禁して自由を奪っている。鎖で繋いでこそいないが、檻に入れているのと同じだ。対等でありたいのに、自由にさせてやりたいのに。
「手放すことはできない……。その代わり、できる限りのことはするつもりだ」
どうすればいいのか、答えはまだ分からない。彼女にとってあまりにも危険なこの土地で、彼女の自由を守ることがどれほど無謀なことか、そんなことはリュシアンにも分かっている。それでも――
室内に、重い沈黙の空気が広がった。
リュシアンは窓際に立ったまま、じっと中庭を見つめた。
「お前は……」
言いかけて、口をつぐんだ。ヴィドックの真意に気づきながらも、言葉にするのを躊躇った。代わりに、ヴィドックが口を開く。
「あいつが起きたら、話し合うといい」
彼の口から繰り返し紡がれるその、気安い呼び名。リュシアンは彼に背を向けながら、密かに歯を噛み締めた。振り返り、いつも通りの態度を見せる。
「そうだな。まずはそれが第一だ」
納得したように見せかけ、彼の元に歩み寄った。
「そろそろ昼食の時間になる。お前もしっかり食べて、早く怪我を治せ」
適当に労いの言葉をかけ、部屋を後にした。蝋燭が灯された長い廊下に出て、リュシアンは一瞬迷った。もう一度、彼女の姿を見たくなって。
(なんて浅ましい)
思わず自嘲した。自室に戻り、ワインを開ける。グラスに注ぐと、彼女の味を思い出しながらゆっくり味わった。
ヴィドックの言葉が蘇る。本当にここに置くつもりかと。表向きでは、純粋にティティーヌのことを案じているように見せかけて、実は違った。彼は、引き取りたいのだ。彼女を自分の領地に連れていきたい。それこそが彼の真意だと気づき、言葉が詰まってしまった。
リュシアンの中に、ある予感が浮かんだ。彼がティティーヌを引き取りたいのは、彼女を心配してではなく、惹かれているからかも知れない。最初は、アンリに対するものと同じだと思った。事実、そうだっただろう。彼らが同じ痛みを持っているのは本当だし、リュシアンだってその一人だ。しかし、今のヴィドックがティティーヌに抱いている思いは――
ワイングラス片手に、再び窓際に歩み寄る。静かに降り出した雨は、もう本降りになっていた。先程まで見事な星が見えていたのに、今はすっかり雨雲に隠されている。どんよりとした灰色の重い雲は、美しい夜空を丸ごと覆いつくし、一面の景色をくすませていた。
再びワインを口に含み、ゆっくり飲み込む。
(手放すなど)
何があっても、それだけは考えたくなかった。
一番いいのは、ティティーヌを故郷に帰してやることだろう。それこそが彼女を対等に扱うということだ。家族を失っても、彼女には帰る家が残っている。安否を心配する知人や友人もいるだろう。
しかし血の呪縛がある以上、どうしても人間の領地に帰せない。ならばせめて、ヴィドックに託すというのもひとつの手だ。彼の領地なら、リュシアンも気軽に足を運ぶことができる。どうしても我慢ができなくなった時だけ、血をもらいに行けばいい。ヴィドックの領地は出入りにしっかり目を光らせているし、そこなら他のヴァンパイアが迂闊に手を出すこともできないだろう。ティティーヌにもある程度の自由が確保され、日々重責に耐えているヴィドックにとっても彼女の存在が救いになるかも知れない。今のところ、一番の解決策と言えることだが、リュシアンにはできなかった。友人のためでも、彼女のためでも。
先日の温かい温もりが忘れられない。血はもらえないと拒んだリュシアンを、ティティーヌは優しく包み込んでくれた。あの時の、柔らかくて温かい感触。耳元でささやかれた彼女の穏やかな声。早く良くなって、また抱き締めて欲しかった。あの薔薇色の肌で抱かれ、甘い香りに包まれていたい。優しい笑顔で、俺に微笑んで欲しい。心からそう願う自分がいた。
確かに血は欲しい。彼女の味を知ってしまった今は、尚更手放せないと自覚している。しかし手放せない理由はそれだけじゃなく、リュシアンもまた彼女に――
考えに耽っていると、部屋の扉が控えめにノックされた。
心無い声で答えると、数人のミックスが入ってくる。
「昼食のお時間です」
トレイをテーブルに置き、慣れた手つきで食事を並べる姿を、リュシアンはぼんやり見ていた。グラスに新たなワインが注がれる。無言で食事を済ませると、領主としての雑用をさっさと片付けた。頭の片隅から、ずっとティティーヌのことが離れない。気晴らしにメデューサ兄妹を訪ねたが、彼らにとっては深夜だ。二人共ぐっすり眠っていた。晴れていれば中庭の散歩でもするところだが、今日はそれもできない。いよいよ耐えかねて自室に戻り、酒で気分を紛らわせようと思ったが。
「ご主人様」
フランクの声がした。
「お嬢様が、お目覚めになりました」
考えるより先に、体が動いた。部屋を出て、足早に彼女の元に向かう。思いのままに飛び込みたい気持ちを抑え、きちんと扉をノックした。返事はない。恐る恐る扉を開けると、芳しい血の匂いがリュシアンを迎え入れる。部屋の奥では、芳香を放つティティーヌがベッドに横たわり、目を閉じていた。また寝てしまったのかと思ったが、彼女は目を開けゆっくりこちらを向いた。
「リュシアン……」
やんわりと微笑む。
待ち望んでいた優しい声音が、か細く聞こえた。
リュシアンがスツールを引き寄せてベッド脇に座ると、細くて白い腕が伸びた。
頬に触れるその手は、柔らかくて温かかった。
「なんて顔……」
そう言って、彼女は笑う。
「心配かけて……、ごめんね……」
触れる彼女の手に自分の手を重ね、微笑んで答えた。
「ティティーヌが謝ることじゃないが、無事で良かった」
彼女の目が、嬉しそうに細められる。
「あなたも……」
心から安心して言ってくれる彼女の甲に、そっと口づけた。
改めて思う。
(手放したくない)
この笑顔を、温もりを、失いたくないんだと。自分にとってティティーヌは、家畜でも友でもない。本当は一人の女性なんだと。
「血をもらったお陰だ。傷痕も残らず完治したよ」
でも今は食事をちゃんと済ませてきたから、血をもらいに来たわけじゃないと、少しおどけて話せば、彼女はくすくすと笑う。
まだ顔色は悪いが、調子はそんなに悪くないらしい。
しかしふと、彼女の顔から笑みが消えた。
「ヴィドックは……?」
一瞬、胸の内にしこりを感じつつ、リュシアンは答える。
「心配ない。まだ無理はできないが、あなたが起きたことを知れば、あいつもここに来るだろう」
「そう……。良かったわ……」
ティティーヌは素直に顔をほころばせた。
ヴィドックだけでなく、彼女の方も懐いているのだ。それは以前から薄々感じていた。元々、彼女の護衛を頼んだのはリュシアン自身だ。自分が血の匂いに耐えかねてそばにいられない代わりに守って欲しいと。だからこそ、二人が一緒にいることをどうこう言うつもりはなかった。それによって二人が親密になろうとも、文句は言えない。
しかし、今更ながら後悔している自分に気づき、情けなくなる。
「みんな……、他の人達も無事なのね……?」
「ああ。メデューサの兄妹も、アンリもバーンズも、キティもな」
うなずき、力強く答えると、再び彼女の手の甲にキスを落とした。
「……リュシアン?」
異変を感じたのか、ティティーヌが目を丸くしてのぞき込んでくる。
何度か躊躇った後、リュシアンは覚悟を決めて切り出した。
「あなたに……、話さなければならないことがある」
危険な目に遭わせてしまった。
自分とクレイの問題にも巻き込んだ。
何より、彼女を一人の女性として、できる限り対等に接したいから。
黙っているわけにはいかなかった。
「俺の……、過去の失態を」
弱体化したヴァンパイアの、哀れな実体を。
◇◇◇
あの時も、外は雨が降っていた。
かつて手に入れた人間は、女性と言うにはまだ早い、幼さを感じさせる十五の少女だった。牛飼いの娘で、夕方になって放牧していた牛達を集めることに精を出していた。ところが、突然の雷雨に見舞われ、仕事に手間取った彼女は自宅に帰りそびれた。妖魔の危険を恐れ、無理をして帰るよりは避難しようと思ったらしい。近くの林に入り、倒れた巨木の陰に丸くなって隠れていた。
だが夜はヴァンパイアの活動時間だ。どんなに暗くとも関係ない。人間を求めて夜の町へ向かうミックス達を差し置いて、リュシアンはいち早く彼女を見つけた。
ティティーヌと同じように、妖魔を恐ろしい化け物だと思い込んでいた彼女は、何の疑いもなくリュシアンを人間だと思い込んだ。ヴァンパイアの能力を使わずとも、彼の美貌に心を奪われていた。
王子様が助けに来てくれた。
子供ながらに、そう思ったのかも知れない。彼女はリュシアンの手を取り、言われるままに林を抜け出した。




