生 贄6
色とりどりの薔薇が溢れんばかりに咲き誇る庭園。
ずるりと、唾液にまみれた塊が吐き出された。
リュシアンはしっかりティティーヌを抱き締めながら、派手に咳き込んだ。
危うくポールの胃液に溶かされるところだった。
「やってくれるな……、サーガの奴」
ティティーヌを救い出せとは頼んだが、食ってもいいとは言っていない。
下手をすれば体を消化される危険な賭けに、リュシアンは思わず苦笑した。
そして腕の中のティティーヌに視線を落とす。
「…………ティティーヌ?」
息をしていない。
(まさか)
一気に全身の血の気が引いていく。
「ティティーヌ。ティティーヌ」
青白い頬をぺちぺちと叩いた。その頬も、体も、凍るように冷たい。
底知れない不安がリュシアンを襲った。
「目を……、開けてくれ……」
せっかく救い出したのに、こんなところで死なせたくない。
首の包帯が、赤く滲んでいた。
「ティティーヌ。起きてくれ……」
食欲など、感じなかった。
(嫌だ)
リュシアンの顔が歪んでいく。
濡れた細い体を寝かせると、互いの唇を重ねた。
気道を開け、深く息を吹き込んでいく。
(嫌だ)
人工呼吸を繰り返し、蘇生を図った。無我夢中だった。
「ティティーヌ……」
取り戻したいと思ったのは、血が欲しいからだけじゃない。
「戻ってこい……」
死なせたくない。
クレイの強い能力に呑み込まれながらも、必死に抵抗したこの娘を。
脅えながらもアンリを許してくれた。俺達の正体を知っても微笑んでくれた。
食料にされると分かっていても、それを受け入れた。
俺を信じてくれていると感じて、本当は嬉しかった。
「死ぬな……」
壊れた笑みを浮かべながら、助けを求めてくれたその気持ちに応えたい。
(頼む)
まだ、出会ったばかりなんだ。
(頼む)
こんな死に方、させたくない。
「戻ってこいっ……!」
胸を圧迫する両手に力を込めた瞬間、ティティーヌの体がびくりと跳ねた。
咳き込んだ彼女の口から、どろりとポールの唾液がこぼれる。
苦しそうに呻き、彼女は首に手を当てた。荒い呼吸を繰り返し、ゆっくり目を開ける。
「…………リュシアン?」
彼女は、柔らかく微笑んだ。
「なんで……、そんな顔、して……?」
ぬめる彼女の手が、同じようにぬめっているリュシアンの頬に触れる。
「泣かないで……」
無意識のうちに、彼女を抱き締めた。
「泣いてなど、ない……」
戻ってきてくれた。
彼女は俺の元に帰ってきてくれた。
「悪かった……」
もう二度と、こんな目には遭わせない。二度と、こんな思いはごめんだ。
「俺が、悪かった……」
「…………リュシアン、臭い」
「……」
呑気な言葉を吐かれ、拍子抜けする。
「お互い様だ」
むくれて言い捨てると、彼女はくすくす笑った。
「そうね……。私も、臭いわね……」
傍らで、ポールが気まずそうに呻っている。
しかし穏やかに笑っていた彼女の笑みは、すぐに消えた。
「ヴィドックと、サーガは……?」
「クレイを食い止めてる」
リュシアンもすぐに真剣な表情へと切り替えた。
「俺はあいつらのところに戻る。君はこのままポールと一緒に屋敷に行ってくれ」
そう言って立ち上がろうとしたリュシアンの腕を、ティティーヌが掴んだ。
「血を、飲んで」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
彼女の傷は治っていない。その上昨日から二日続けてクレイに血を飲まれている。これ以上血を奪われたら危険なことくらい、彼女だって感じているはずなのに。
「私の血が、欲しかったんでしょう?」
確かに、ティティーヌの血は欲しかった。だが命を奪ってまで飲みたいとは思わない。
「無理だ。今の君からは……」
「私がいいと言ってるのよ。誰にも操られてない、私自身が」
「しかし……」
危険すぎる。
その思いが顔に出たのか、ティティーヌはくすりと笑った。
「まだ、大丈夫。そう簡単に死にはしないから」
「これでもし死んだら、取り返しのつかないことになる」
「そこまであなたが血を奪う?」
戸惑うリュシアンに、ティティーヌは澄んだ瞳を向けた。
胸の内を見透かすような、真っ直ぐな眼差しに息を呑む。
過去の記憶が、脳裏に浮かんだ。
ティティーヌを我慢していたのは、怪我をしていたからだけじゃないのだ。
本当は、怖かった。
何よりも渇望しながら、同時に何よりも恐れていた。
血は欲しい。気が狂うほどに彼女の血は欲しい。でも今の彼女に食いついたら、自分はきっと彼女を殺してしまう。制御が利かなくなって多くの血を奪い、彼女の命をも奪ってしまうだろう。だからこそできない。それが更に日々の苛立ちを募らせ、自らティティーヌを遠ざける結果にもなっていた。ヴァンパイアとしての誇りと共に、自分自身のトラウマのために、リュシアンは我慢するしかなかった。同じことを繰り返すのが怖くて。
だからどうしても、彼女が完治するのを待つしかなかったのだ。
「……奪ってしまうかも知れない」
昔のように、歯止めが利かなくなるかも知れない。
「あなたを……、死なせたくない」
自信がなかった。自我を失う自分が怖かった。
「今のあなたからは、もらえな――」
「リュシアンなら大丈夫」
ふわりと、包み込むように抱き締められ、目の前に首を差し出された。
思わずごくりと、喉を鳴らす。
かすかに、クレイの牙の痕が残っていた。
「迷う必要はないわ」
優しく促され、胸が痛んだ。
差し出されたその肩が、小さく震えていて。
「……すまない」
一言つぶやき、リュシアンはティティーヌを味わった。
ここまでしてくれる彼女に、頭が上がらない思いだった。不甲斐ない自分が情けない。励まし、包み込んでくれた彼女に、心から感謝した。
新鮮な甘い血が、体内へと流れ込んでくる。
全身に広がる開放感から、体が異常なほど軽く感じた。
みるみるうちに満たされる。力がみなぎり、神経が研ぎ澄まされていく。
クレイにつけられたいくつもの痣が、綺麗に消えていった。
麻薬のように幸福感へと誘う味に、うっとりと目を細める。
気持ちがいい。こうしていつまでも味わっていたい。
また、自制ができなくなっていく。彼女を抱き締める両腕に力を込めた。
「……ぁ……」
牙を更に深く沈めると、口の中に流れ込む血を吸い上げる。
この味を、ずっと求めていた。何もかもどうでも良くなるような感覚に、心が支配されていく。
(このまま死んでもいい……)
ともすれば、血を吸いながら眠りにさえ落ちてしまいそうな気分に駆られ、リュシアンは静かに目を閉じた。大きな安堵に包み込まれ、母胎の中で泳いでいるような感じがした。
(いっそのこと、二人で死んでしまおうか……)
この快楽の中で死ねるなら、それもいいかもしれない。
そう思った心の声が、頭の中で誰かの声と重なった。
こんなことが、前にもあった。
その声は自分のものだ。今と同じように、快楽死を求めた。同じように、何もかもがどうでもいいと思った。その結果、女性を死なせ、自分は――
「……っ……!」
リュシアンはティティーヌから牙を抜いた。呼吸は乱れ、恐怖に心が満たされる。悲劇を繰り返してしまったと感じ、背筋に冷たいものが伝い落ちた。
「……ティティーヌ」
恐る恐る、彼女を窺う。
大量の血を奪ってしまった。飲みすぎたことは明らかだった。
「ティティーヌ……」
震える手を、彼女の頬に添えた。
顔を歪めるリュシアンに彼女は――。
無言で微笑み、静かに目を閉じた。
「ありがとう。ティティーヌ……」
リュシアンの瞳に、強い力が宿っていく。もう少し気づくのが遅かったら、また命を奪うところだった。だが彼女は大丈夫だ。極度の貧血により、意識を手放した彼女の体を、ポールへともたれさせた。
「後は頼んだぞ」
自分の倍も大きな蛇に声をかけ、リュシアンは再び屋敷の中に駆け込んだ。
体が軽い。
階段を上らなくとも、ひとっ飛びで一階から中二階へと足をつける。その勢いで更にジャンプし、たった二歩で二階に上がった。
廊下の左手、突き当たりから激しい音が響いている。“二人”がもがいてくれてるんだろう。音もなく、長い廊下を飛ぶようにリュシアンは駆け出した。
狼の悲鳴が響いた。
部屋に入ったリュシアンの視界に、真っ赤な塊が飛び込んだ。
「ヴィドック!」
慌てて受け止めたそれは、血まみれになったヴィドックだった。
「なんだ。てっきり彼女と逃げたと思ったのに、また戻ってきたのかい?」
部屋の中央で、額から血を流すサーガの襟首を掴み、クレイが恐ろしいまでに穏やかな笑みを見せていた。返り血と自らの血で、服がべったり赤くなっている。
リュシアンはそっとヴィドックを下ろした。ボロボロになってもまだ立ち上がろうとする彼に、手をかざして制止する。
「ティティーヌは大丈夫だ。お前はもう、休んでろ」
力強い口調で言い聞かせると、すぐに悟ったらしい狼は、ぐったりとその場に倒れ込んだ。こちらも危ない状況だ。早く手当てをしないと、死に繋がる。
立ち上がったリュシアンは、まとわりつくブラウスを脱いで体を拭った。
髪を掻き分け、強い眼差しを向ける。
「サーガを放せ」
言いながら、ゆっくりクレイに近づいていく。
「君も、私と遊んでくれるのかい?」
くすくすと笑う彼の足元で、サーガがしゃがれた声を上げた。
「なんで、戻ってきやがった……」
せっかく逃がしてやったのにと、顔を歪める彼に、リュシアンは微笑む。
「お前を死なせたら、俺がフィーナに殺される」
そう言うと、サーガの血にまみれた顔に笑みが浮かんだ。
一瞬、互いの目が合う。
言葉はなくとも、二人の心は繋がった。
リュシアンが軽くジャンプする。体をほぐしたように見せかけて、突然クレイへと蹴りが伸びた。
「!」
とっさにクレイは身を捩って彼をかわした。
だがその表情は、一瞬にして険しいものに変わっていった。
「まさか君も……、飲んだのか」
リュシアンは答えず、クレイを追い詰めていく。キレのある動きは、完全に人間の域を超えていた。力と力、速さと速さがぶつかり合い、部屋のあちこちが壊れていく。ただでさえ鉄の鎖をも引きちぎってしまう怪力を持った種族だ。ヴァンパイア同士の戦いは、“妖魔”と呼ばれる非人間の中でも危険視されるものだった。二人とも人間の血を飲んでいる今は尚更だ。最も僕を多く持つ種族だけのことはある。同じ化け物からも一目置かれる価値が、ヴァンパイアにはあった。
よけきれずに、クレイの頬が、肩が、腹が、リュシアンの拳を受け止める。
「お互い血を飲んだ今は対等だ。だが今のお前はすでに手負い。そして体術は元々俺が上。勝てると思うか?」
ここにきて、互いの立場が逆転した。
リュシアンが平然と笑みを浮かべて挑発する一方で、サーガが腹の底から声を張り上げる。
「ヴィドック! こっちを向け!」
重い顔を持ち上げたヴィドックと、サーガの目が合った瞬間、血まみれの狼が石化した。サーガは更に叫ぶ。
「ポール!」
主人の声に応え、最大限に巨大化したポールが窓を突き破った。
サーガは体を引きずって歩み寄り、大事な相棒に微笑みかける。
「ティティーヌを……」
そう言うと、ポールがぱかりと口を開けた。
今度は飲み込まず、彼の口の中で丸くなっていたティティーヌを引き寄せ、意識のない彼女の目を指で開く。互いの目をしっかり合わせ、サーガはティティーヌも石化した。
「これで途中で死ぬことはねえ……。ポール……、二人をリュシアンの家まで運んでくれ」
向こうに着けば、フィーナが元に戻してくれる。フランクもいるし、すぐに手当てもしてくれるだろう。
「俺はリュシアンと帰る。二人のことは、任せたぜ」
ポールは長い舌で石化したヴィドックも口の中に運び入れると、大きく踵を返した。行きと同じように、みるみる森へと突き進んでいく巨大な蛇を見つめ、サーガは微笑んだ。
「サーガの奴っ、能力を……」
ずっと封印していたはずなのに。
クレイは顔を歪めた。今すぐ蛇を追いたいのに、リュシアンがそれを許さない。
目の前でずるずると崩れ落ちたサーガを痛めつけてやりたかったが、そんな余裕もなかった。
「余所見をしている暇はないぞ」
リュシアンの拳が、鋭い刃となって向かってくる。触れた皮膚は裂け、こめかみは切れて出血していた。滴る血が目に入って、視界をふさぐ。目を瞑った一瞬の間に、横から蹴りが飛んできた。クレイの体は吹き飛び、上質のチェストに叩きつけられる。
「勝負は、これからだろう?」
笑みを浮かべて見下ろされ、クレイはリュシアンを睨みつけた。




