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ROSA  作者: 藤 子
21/65

生 贄6

 色とりどりの薔薇が溢れんばかりに咲き誇る庭園。

 ずるりと、唾液にまみれた塊が吐き出された。

 リュシアンはしっかりティティーヌを抱き締めながら、派手に咳き込んだ。

 危うくポールの胃液に溶かされるところだった。


「やってくれるな……、サーガの奴」


 ティティーヌを救い出せとは頼んだが、食ってもいいとは言っていない。

 下手をすれば体を消化される危険な賭けに、リュシアンは思わず苦笑した。

 そして腕の中のティティーヌに視線を落とす。


「…………ティティーヌ?」


 息をしていない。


(まさか)


 一気に全身の血の気が引いていく。


「ティティーヌ。ティティーヌ」


 青白い頬をぺちぺちと叩いた。その頬も、体も、凍るように冷たい。

 底知れない不安がリュシアンを襲った。


「目を……、開けてくれ……」


 せっかく救い出したのに、こんなところで死なせたくない。

 首の包帯が、赤く滲んでいた。


「ティティーヌ。起きてくれ……」


 食欲など、感じなかった。


(嫌だ)


 リュシアンの顔が歪んでいく。

 濡れた細い体を寝かせると、互いの唇を重ねた。

 気道を開け、深く息を吹き込んでいく。


(嫌だ)


 人工呼吸を繰り返し、蘇生を図った。無我夢中だった。


「ティティーヌ……」


 取り戻したいと思ったのは、血が欲しいからだけじゃない。


「戻ってこい……」


 死なせたくない。

 クレイの強い能力に呑み込まれながらも、必死に抵抗したこの娘を。

 脅えながらもアンリを許してくれた。俺達の正体を知っても微笑んでくれた。

 食料にされると分かっていても、それを受け入れた。

 俺を信じてくれていると感じて、本当は嬉しかった。


「死ぬな……」


 壊れた笑みを浮かべながら、助けを求めてくれたその気持ちに応えたい。


(頼む)


 まだ、出会ったばかりなんだ。


(頼む)


 こんな死に方、させたくない。


「戻ってこいっ……!」


 胸を圧迫する両手に力を込めた瞬間、ティティーヌの体がびくりと跳ねた。

 咳き込んだ彼女の口から、どろりとポールの唾液がこぼれる。

 苦しそうに呻き、彼女は首に手を当てた。荒い呼吸を繰り返し、ゆっくり目を開ける。


「…………リュシアン?」


 彼女は、柔らかく微笑んだ。


「なんで……、そんな顔、して……?」


 ぬめる彼女の手が、同じようにぬめっているリュシアンの頬に触れる。


「泣かないで……」


 無意識のうちに、彼女を抱き締めた。


「泣いてなど、ない……」


 戻ってきてくれた。

 彼女は俺の元に帰ってきてくれた。


「悪かった……」


 もう二度と、こんな目には遭わせない。二度と、こんな思いはごめんだ。


「俺が、悪かった……」

「…………リュシアン、臭い」

「……」


 呑気な言葉を吐かれ、拍子抜けする。


「お互い様だ」


 むくれて言い捨てると、彼女はくすくす笑った。


「そうね……。私も、臭いわね……」


 傍らで、ポールが気まずそうに呻っている。

 しかし穏やかに笑っていた彼女の笑みは、すぐに消えた。


「ヴィドックと、サーガは……?」

「クレイを食い止めてる」


 リュシアンもすぐに真剣な表情へと切り替えた。


「俺はあいつらのところに戻る。君はこのままポールと一緒に屋敷に行ってくれ」


 そう言って立ち上がろうとしたリュシアンの腕を、ティティーヌが掴んだ。


「血を、飲んで」


 一瞬、何を言われたのか分からなかった。

 彼女の傷は治っていない。その上昨日から二日続けてクレイに血を飲まれている。これ以上血を奪われたら危険なことくらい、彼女だって感じているはずなのに。


「私の血が、欲しかったんでしょう?」


 確かに、ティティーヌの血は欲しかった。だが命を奪ってまで飲みたいとは思わない。


「無理だ。今の君からは……」

「私がいいと言ってるのよ。誰にも操られてない、私自身が」

「しかし……」


 危険すぎる。

 その思いが顔に出たのか、ティティーヌはくすりと笑った。


「まだ、大丈夫。そう簡単に死にはしないから」

「これでもし死んだら、取り返しのつかないことになる」

「そこまであなたが血を奪う?」


 戸惑うリュシアンに、ティティーヌは澄んだ瞳を向けた。

 胸の内を見透かすような、真っ直ぐな眼差しに息を呑む。

 過去の記憶が、脳裏に浮かんだ。

 ティティーヌを我慢していたのは、怪我をしていたからだけじゃないのだ。


 本当は、怖かった。


 何よりも渇望しながら、同時に何よりも恐れていた。

 血は欲しい。気が狂うほどに彼女の血は欲しい。でも今の彼女に食いついたら、自分はきっと彼女を殺してしまう。制御が利かなくなって多くの血を奪い、彼女の命をも奪ってしまうだろう。だからこそできない。それが更に日々の苛立ちを募らせ、自らティティーヌを遠ざける結果にもなっていた。ヴァンパイアとしての誇りと共に、自分自身のトラウマのために、リュシアンは我慢するしかなかった。同じことを繰り返すのが怖くて。

 だからどうしても、彼女が完治するのを待つしかなかったのだ。


「……奪ってしまうかも知れない」


 昔のように、歯止めが利かなくなるかも知れない。


「あなたを……、死なせたくない」


 自信がなかった。自我を失う自分が怖かった。


「今のあなたからは、もらえな――」

「リュシアンなら大丈夫」


 ふわりと、包み込むように抱き締められ、目の前に首を差し出された。

 思わずごくりと、喉を鳴らす。

 かすかに、クレイの牙の痕が残っていた。


「迷う必要はないわ」


 優しく促され、胸が痛んだ。

 差し出されたその肩が、小さく震えていて。


「……すまない」


 一言つぶやき、リュシアンはティティーヌを味わった。

 ここまでしてくれる彼女に、頭が上がらない思いだった。不甲斐ない自分が情けない。励まし、包み込んでくれた彼女に、心から感謝した。


 新鮮な甘い血が、体内へと流れ込んでくる。

 全身に広がる開放感から、体が異常なほど軽く感じた。

 みるみるうちに満たされる。力がみなぎり、神経が研ぎ澄まされていく。

 クレイにつけられたいくつもの痣が、綺麗に消えていった。

 麻薬のように幸福感へと(いざな)う味に、うっとりと目を細める。


 気持ちがいい。こうしていつまでも味わっていたい。


 また、自制ができなくなっていく。彼女を抱き締める両腕に力を込めた。


「……ぁ……」


 牙を更に深く沈めると、口の中に流れ込む血を吸い上げる。

 この味を、ずっと求めていた。何もかもどうでも良くなるような感覚に、心が支配されていく。


(このまま死んでもいい……)


 ともすれば、血を吸いながら眠りにさえ落ちてしまいそうな気分に駆られ、リュシアンは静かに目を閉じた。大きな安堵に包み込まれ、母胎の中で泳いでいるような感じがした。


(いっそのこと、二人で死んでしまおうか……)


 この快楽の中で死ねるなら、それもいいかもしれない。


 そう思った心の声が、頭の中で誰かの声と重なった。


 こんなことが、前にもあった。

 その声は自分のものだ。今と同じように、快楽死を求めた。同じように、何もかもがどうでもいいと思った。その結果、女性を死なせ、自分は――


「……っ……!」


 リュシアンはティティーヌから牙を抜いた。呼吸は乱れ、恐怖に心が満たされる。悲劇を繰り返してしまったと感じ、背筋に冷たいものが伝い落ちた。


「……ティティーヌ」


 恐る恐る、彼女を窺う。

 大量の血を奪ってしまった。飲みすぎたことは明らかだった。


「ティティーヌ……」


 震える手を、彼女の頬に添えた。

 顔を歪めるリュシアンに彼女は――。

 無言で微笑み、静かに目を閉じた。


「ありがとう。ティティーヌ……」


 リュシアンの瞳に、強い力が宿っていく。もう少し気づくのが遅かったら、また命を奪うところだった。だが彼女は大丈夫だ。極度の貧血により、意識を手放した彼女の体を、ポールへともたれさせた。


「後は頼んだぞ」


 自分の倍も大きな蛇に声をかけ、リュシアンは再び屋敷の中に駆け込んだ。

 体が軽い。

 階段を上らなくとも、ひとっ飛びで一階から中二階へと足をつける。その勢いで更にジャンプし、たった二歩で二階に上がった。

 廊下の左手、突き当たりから激しい音が響いている。“二人”がもがいてくれてるんだろう。音もなく、長い廊下を飛ぶようにリュシアンは駆け出した。

 狼の悲鳴が響いた。

 部屋に入ったリュシアンの視界に、真っ赤な塊が飛び込んだ。


「ヴィドック!」


 慌てて受け止めたそれは、血まみれになったヴィドックだった。


「なんだ。てっきり彼女と逃げたと思ったのに、また戻ってきたのかい?」


 部屋の中央で、額から血を流すサーガの襟首を掴み、クレイが恐ろしいまでに穏やかな笑みを見せていた。返り血と自らの血で、服がべったり赤くなっている。

 リュシアンはそっとヴィドックを下ろした。ボロボロになってもまだ立ち上がろうとする彼に、手をかざして制止する。


「ティティーヌは大丈夫だ。お前はもう、休んでろ」


 力強い口調で言い聞かせると、すぐに悟ったらしい狼は、ぐったりとその場に倒れ込んだ。こちらも危ない状況だ。早く手当てをしないと、死に繋がる。

 立ち上がったリュシアンは、まとわりつくブラウスを脱いで体を拭った。

 髪を掻き分け、強い眼差しを向ける。


「サーガを放せ」


 言いながら、ゆっくりクレイに近づいていく。


「君も、私と遊んでくれるのかい?」


 くすくすと笑う彼の足元で、サーガがしゃがれた声を上げた。


「なんで、戻ってきやがった……」


 せっかく逃がしてやったのにと、顔を歪める彼に、リュシアンは微笑む。


「お前を死なせたら、俺がフィーナに殺される」


 そう言うと、サーガの血にまみれた顔に笑みが浮かんだ。

 一瞬、互いの目が合う。

 言葉はなくとも、二人の心は繋がった。

 リュシアンが軽くジャンプする。体をほぐしたように見せかけて、突然クレイへと蹴りが伸びた。


「!」


 とっさにクレイは身を捩って彼をかわした。

 だがその表情は、一瞬にして険しいものに変わっていった。


「まさか君も……、飲んだのか」


 リュシアンは答えず、クレイを追い詰めていく。キレのある動きは、完全に人間の域を超えていた。力と力、速さと速さがぶつかり合い、部屋のあちこちが壊れていく。ただでさえ鉄の鎖をも引きちぎってしまう怪力を持った種族だ。ヴァンパイア同士の戦いは、“妖魔”と呼ばれる非人間の中でも危険視されるものだった。二人とも人間の血を飲んでいる今は尚更だ。最も(しもべ)を多く持つ種族だけのことはある。同じ化け物からも一目置かれる価値が、ヴァンパイアにはあった。

 よけきれずに、クレイの頬が、肩が、腹が、リュシアンの拳を受け止める。


「お互い血を飲んだ今は対等だ。だが今のお前はすでに手負い。そして体術は元々俺が上。勝てると思うか?」


 ここにきて、互いの立場が逆転した。

 リュシアンが平然と笑みを浮かべて挑発する一方で、サーガが腹の底から声を張り上げる。


「ヴィドック! こっちを向け!」


 重い顔を持ち上げたヴィドックと、サーガの目が合った瞬間、血まみれの狼が石化した。サーガは更に叫ぶ。


「ポール!」


 主人の声に応え、最大限に巨大化したポールが窓を突き破った。

 サーガは体を引きずって歩み寄り、大事な相棒に微笑みかける。


「ティティーヌを……」


 そう言うと、ポールがぱかりと口を開けた。

 今度は飲み込まず、彼の口の中で丸くなっていたティティーヌを引き寄せ、意識のない彼女の目を指で開く。互いの目をしっかり合わせ、サーガはティティーヌも石化した。


「これで途中で死ぬことはねえ……。ポール……、二人をリュシアンの家まで運んでくれ」


 向こうに着けば、フィーナが元に戻してくれる。フランクもいるし、すぐに手当てもしてくれるだろう。


「俺はリュシアンと帰る。二人のことは、任せたぜ」


 ポールは長い舌で石化したヴィドックも口の中に運び入れると、大きく踵を返した。行きと同じように、みるみる森へと突き進んでいく巨大な蛇を見つめ、サーガは微笑んだ。


「サーガの奴っ、能力を……」


 ずっと封印していたはずなのに。

 クレイは顔を歪めた。今すぐ蛇を追いたいのに、リュシアンがそれを許さない。

 目の前でずるずると崩れ落ちたサーガを痛めつけてやりたかったが、そんな余裕もなかった。


「余所見をしている暇はないぞ」


 リュシアンの拳が、鋭い刃となって向かってくる。触れた皮膚は裂け、こめかみは切れて出血していた。滴る血が目に入って、視界をふさぐ。目を瞑った一瞬の間に、横から蹴りが飛んできた。クレイの体は吹き飛び、上質のチェストに叩きつけられる。


「勝負は、これからだろう?」


 笑みを浮かべて見下ろされ、クレイはリュシアンを睨みつけた。

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